第97話 湖畔のエリカ②
森を抜けると、湖があった。
この湖は、彼女が拾われたあの湖ではない。
それでも、水辺に立つと胸の奥が疼く。
冷たい水の感触。
差し伸べられた手。
名を与えられた日のこと。
湖畔は、いつも始まりの場所だった。
「……私は、守れなかった」
水面に落ちた言葉が、わずかに揺らぐ。
その揺らぎに重なるように、背後で弦が鳴った。
澄んだ単音。
エリカは振り向くと同時に、反射的に剣へ手をかける。
「誰だ」
森の影が、ゆっくりと形を持つ。
男だった。
長い外套。
羽飾りのついた帽子。
手には弦楽器。
月明かりを背にして立っているせいで、顔ははっきり見えない。
「失礼」
男は両手を軽く広げ、敵意がないことを示す。
「ただの吟遊詩人ですよ」
声音は柔らかい。夜風のように、耳に心地よい。
だが、エリカは剣から手を離さない。
「こんな時間に、こんな場所で何をしている」
「歌を、探しているのです」
吟遊詩人は微笑む。
「この国には、哀しい歌が多い……」
一歩、距離を詰める。
「近づかないで……!」
エリカは半歩、位置をずらす。
それでも、吟遊詩人は微笑みを崩さず、言葉を続ける。
「湖に捨てられた子の歌。拾われ、名を与えられた騎士の歌。守れなかった夜の歌」
エリカの呼吸が止まる。
「なんで……それを……」
「この土地は、よく覚えている」
吟遊詩人は一歩、前へ出る。
足音はしない。
妖しい。
だが、脅威の匂いがない。あるのは、理解の匂いだ。
理解されているという錯覚。
「守れなかった、それだけではない」
また一歩。
「守れなかった自分を赦せないのでしょう?」
吟遊詩人は、ゆっくりと視線を湖へ向ける。
「答えを知りたくはないですか」
「答え……?」
「なぜ守れなかったのか。
どうすれば、今からでも取り戻せるのか」
弦が、低く震える。
「謎かけに答えられたら、あなたの望む答えを教えよう」
エリカは警戒を解かないまま問う。
「なぜ、私に」
「些細な願いだからだ」
吟遊詩人は微笑んだまま。
「世界を覆す力を求める者もいる。神をも凌ぐ力を欲する者もいる」
声が少しだけ愉快そうに弾む。
「あなたの望みは、それに比べれば実に慎ましい」
エリカの胸がわずかに波打つ。
「……教えて欲しい」
悔恨の念は、日を追うごとに強くなって行く。
家族をなぜ救えなかったのか、自分には何ができたのか。
そして、今なにをすべきなのか。
ただ、知りたかった。
そして、吟遊詩人はエリカにゆっくりと歩み寄る。
月明かりが、二人の影を湖に伸ばす。
「では問おう。
人の命の価値は、どうやって決まるでしょう?」
湖が静まる。
森も、虫も、音を失ったように静かだ。
エリカは言葉を探す。
強さか。地位か。血筋か。誓いか。
どれも家族を救えなかった。
「……分からない」
吟遊詩人が、一歩近づく。
影が、エリカの足元に届く。
「答えられないかい?」
声は変わらず優しい。
だが、距離が近い。
「答えを得られぬ者は、永遠に悔いる」
また一歩。
「私は――」
エリカの呼吸が浅くなる。
その時――
「その答えは、他者との繋がりだ」
低い声が、森の奥から響いた。
エリカが振り向くと、そこに立っていたのは神崎三郎だった。
湖面に立ち込めていた静寂が、ひび割れた。
彼は肩に大きな獣を担ぎ、湖畔へと歩いて来る。
「人は一人では価値を持たない」
三郎は淡々と言う。
「他人に見られ、行いを認められ、名を呼ばれ、初めて“誰か”になる」
三郎の鋭利な眼光がエリカと吟遊詩人を捉えていた。
「この世に他の誰かがいるから、自身の命は尊い価値を持つ」
三郎はそう言うと、担いでいた獣を地面に放った。
吟遊詩人はしばし、三郎を見つめ――
「……正解」
小さく呟く。
そして、三郎に尋ねる。
「それが君の生き方かい?」
それに対し、三郎はゆっくりと首を回しながら、気怠そうに答える。
「今はただ、世の理を申したまでだ。はっきり言って、俺自身は他者にどう思われようが興味はない……そんな事より――」
再びその眼光が吟遊詩人を射る。
「お前、只者ではないな。強いだろう?」
一歩前へ出る。
「俺と戦え」
三郎の頬が笑みで歪む。
湖畔の空気が張り詰める。
だが、吟遊詩人は弦を鳴らさない。
そして、視線がゆっくりと下がる。
三郎の腰に帯びられた剣へ。
月光が剣を淡く照らす。
その瞬間――
空気が、わずかに軋んだ。
ほんの刹那。
吟遊詩人の瞳に、微細な揺らぎが走る。微細な動揺。
しかし、すぐに元の柔らかな笑みに戻る。
吟遊詩人はしばし黙り――視線を、剣から外した。
「今宵は、縁が悪い」
エリカへ向き直る。
「君自身から答えが出なかった。だから、望みは叶えられない」
外套が揺れる。
「また会おう、湖畔の騎士」
その姿は、闇の中へ溶けるように消えた。
風もなく、音もなく。
湖は、再び静まり返る。
エリカは呆然と立ち尽くした。
三郎はしばらく湖を見つめ、やがて振り返る。
「さ、戻って飯にしよう」
背後の地面には、彼が仕留めた獣が横たわっている。
あまりにも日常的な光景。
エリカは深く息を吸い、静かに頷いた。
「……はい」
二人は森へ戻る。
湖面には、月だけが残っていた。




