第96話 湖畔のエリカ
――ノーシア大公国 とある宿場町――
昼過ぎ。
ノーシア大公国の宿場町は、まだざわめきを完全には失っていなかった。
焼け焦げた大地の痕、削り取られた地形。
何より、人々の噂話が、雷鳴の余韻のように街に残っている。
その中心から、神崎三郎たちはすでに距離を取り始めていた。
「ま、ここに長居する理由もないしな」
三郎は肩越しに街を振り返りもせず、あっけらかんと言った。
「もっと緊張感持ちなよ」
珍しく、メヌが他人を嗜める。
三郎の撃ち放った源正詠唱の魔術は、東域の地図を塗り替えた。
その衝撃は時を要さずにノーシア大公の元へと届くだろう。
アレクサンダー・スレイドとの戦いの邪魔はされたくない。
三郎にしてみればただそれだけの事だ。
しかし、ベルバードは違った。
彼は商人で、宿場町には商売相手の同業者がいる。彼らに迷惑をかける訳にはいかなかった。
ベルバードの提案で、三郎達は町を早急に出立する事となった。
「まあ、いい余興だったぜ。三郎」
抉り取られた地面を横目に捉えつつ、ジャックが笑みを浮かべている。
「笑い事じゃないって……」
ベルバードは呆れと恐怖の入り混じる複雑な表情を見せている。
とにかく、目立たないようにここから離れなければならない。
「なあエリカ。ベルザンまで多少遠回りしてもいい。なるべく目立たない経路を使って移動したい」
その縋るような視線の先にはエリカがいた。
それに対してエリカはただ静かに頷く。
「わかりました。案内します」
その後、三郎たちはエリカを先頭に細く険しい道をすすんだ。
夜を越え、さらに一度、名もない森で野営を挟む。
人目を避け、街道を外れ、慎重に距離を稼ぐ――
丸一日を費やして、ようやく彼らはノーシア大公国の国境付近へと辿り着いた。
日が傾き始めた頃、一行は国境にほど近い小さな村を通り過ぎた。
閑散とした農村だ。
人の数も少なく、すれ違う者たちは皆、目を伏せて足早に去っていった。
そこで、不意に聞こえてきたのが――子供たちの歌声だった。
暗い十字路 暗い十字路
囁き声が聞こえるよ
ひとつふたつの願い事
約束の詩が聞こえてくるよ
名前を呼んだら山羊が顔出す
約束破れば夜風が連れ去る
暗い十字路 暗い十字路
秘密の約束 逃げられない
童詩だ。
特段気にするようなものでは無いはずだが、明るい旋律と耳に残る妙な歌詞。
子供達は輪になって、無邪気に歌っている。
意味を考える者はいない。
それが、当たり前な歌であるかのように。
三郎は童詩のことなど気に留めず歩き続ける。
メヌは「変な歌」とだけ吐き捨てるのみ。
ベルバードは歩みを緩めて歌に耳を澄ませる。
そして、エリカはほんの一瞬だけ足を止めた。
だが、何も言わずにまた歩き出した。
「懐かしさを感じてるって所かい?」
ジャックが軽い調子でエリカに尋ねた。
「ええ、東域で昔から歌われている童詩です」
それ以上、エリカは語らなかった。
やがて、歌声は背後に遠ざかっていった。
―――――――――――――――――――――
夕刻。
山あいの緩やかな斜面に、焚き火の火が灯った。
沈みかけた太陽が森の縁を赤く染め、影がゆっくりと伸びていく。
三郎たちは最低限の準備だけを整え、火を囲む形で腰を下ろしていた。天幕は張らない。火も控えめだ。
遠くで鳥が鳴き、風が木々を揺らす。
昼の緊張が、ようやく薄れていく時間帯だった。
「……いい時間帯だねぇ」
場違いなほど甘ったるい声がした。
メヌだ。
焚き火の向こう側で、ジャックの腕に絡みつくように身体を寄せ、夕闇に溶ける空を見上げている。
「火、赤くてさ。空も紫で……ロマンチックじゃない?」
「うん、そーだね」
ジャックが無表情のまま答える。
それでもメヌは、ジャックの体にめり込まんとする程体を寄せて言葉を続ける。
「私たちの愛の炎も、もっと強くなっちゃいそう!」
「うん、そーだね」
ジャックは適当に相槌をうった。
そんな二人を横目に、ベルバードは何も言わず、焚き火をじっと見つめていた。
三郎は少し離れた場所に腰を下ろし、大欠伸をかきながら、落ちゆく夕陽を眺めていた。
エリカは、焚き火の明かりがぎりぎり届く位置に座っていた。
剣を外し、膝の上に置き、視線は森の奥へと向けられている。
ジャックがメヌの腕を軽く外しながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういやさ、エリカ」
「……なんでしょうか」
「この辺りに来てからは地図すら見ずに道を進んでたよな」
アポロヌスと東域の国境を越えてすぐの時や、ノーシア大公国を進んでいた時、念の為エリカは地図に目を通しながら道を先導していた。
しかし、今は違った。
「この辺にやけに詳しいな。迷いが全然ない」
エリカは一瞬、視線を落とした。
焚き火の火が、その表情を淡く照らす。
「……ここは、私の故郷です」
その言葉に、場の空気が静まる。
「ロノド公国。東域の西端にある、小さな国でした」
“でした”という言い方が、すでに多くを語っていた。
ベルバードが、焚き火から目を離さずに耳を傾ける。
三郎も何も言わない。
メヌは興味なさそうにジャックの肩に頭を寄せている。
「私は、物心つく前に湖畔に捨てられていました」
エリカは淡々と語り始めた。
「そこに偶然通り掛かって拾ってくれたのが、先代のロノド公です」
火が、ぱちりと音を立てる。
「彼は私を引き取り、家族として育ててくれました。捨て子だということも、隠されてはいませんでしたが……」
小さく息を吐く。
「それでも、愛されていました。実の娘のように。だから、私は剣を取りました。恩に報いたかった。国を、家族を守りたかった」
声は揺れない。
「親衛隊に入り、騎士の称号を授かりました。“湖畔のエリカ”と名乗るようになったのも、その頃です」
順風満帆だった日々。
だが、焚き火の炎が一段低くなり、影が濃くなる。
「……ある日、ロノド公は殺されました」
夜が、深まる。
「国を守るため、アポロヌスと盟約を結ぼうとした。それが、東域の諸侯の怒りを買ったのです」
ロノド公国は西はアポロヌス、東はノーシア大公国という巨大な勢力に挟まれた土地だ。
先代ロノド公は、苦慮に苦慮を重ね、アポロヌスと盟約を結ぶ事が、ロノドを守る最善の手と考え至った。
しかし、それを東域諸侯――特にノーシア大公が許すはずがなかった。
ノーシア大公は、東域各地に放っていた"影"からの報告を受け、ロノド公の叛意を知る。
そして――
「暗殺でした。そして、公の座は空き――」
エリカの拳が、わずかに握られる。
「そこに現れたのが、今のロノド公です」
ベルバードの視線が、焚き火の奥で揺れる。
「ノーシア大公が送り込んで来た男。彼はロノド公の娘と強引に結婚し婿となり……」
声が低くなる。
「本来、跡を継ぐはずだった公の息子は誅殺されました」
公の子供達は、エリカにとって兄弟であり姉妹であった。
「民は締め付けられ、やがて反抗する者は消えました」
その言葉がこの場に落ちると、束の間の沈黙が訪れた。
しばし、焚き火の爆ぜる音のみが響いていた。
「残酷な話だ」
口を開いたのはベルバードだった。その視線は焚き火に向けられているが、彼の声音には同情の色が含まれていた。
そして、どこを見るともなく、わずかに視線を落とし、エリカは話を続ける。
「私は、何もできませんでした。悲しみに暮れ、剣を振る理由を失ったまま……」
焚き火の中で、薪が崩れる。
「そして、先の戦争で捕らえられました」
檻の中。馬車の揺れ。遠ざかる故郷。
「その時、気づいたんです」
エリカが顔を上げる。
「嘆いているだけでは、何も戻らないと」
だが――
「気づいた時には、もう遅かった」
気付けば、夜が完全に訪れていた。
そんな中、三郎が空気を壊すように軽く言う。
「腹減ったな。森の中で獣でもとってくるか」
そう言って大義そうに腰を上げた大男は、かるく首を回して森の中へと向かって行った。
「あんま遠くまで行くなよ」
ジャックが三郎の背中にそう投げ掛ける。
三郎は前を向いたまま軽く手を挙げてそれに応え、森の中に消えた。
エリカもその背中を見送った。
やがて彼女も静かに立ち上がる。
「……私も、少し頭を冷やしてきます」
「暗い森で一人じゃ危険だ。俺がボディガードになるよ」
ジャックがエリカを引き留めた。
しかし、隣に座るメヌの強烈な視線と殺気を背中で感じ取ったジャックは静かに空を見上げ、
「ま、一人になりたい時もあるよね」
と、訂正した。
エリカは若干気まずそうな顔をしつつ、その場を後にした。
すぐ近くには湖があった。




