第95話 遠雷
――ヴァルグリム城 大公一族用の一室――
ヴァルグリム城の一角、来客用として用意された広間は、今や酒と脂の匂いに満ちていた。
長卓の上には、食い散らかされた肉の骨、果実の皮、半ば溢れた酒杯が無秩序に転がっている。
床には踏み潰された菓子と酒の染み。
本来であれば大公の城にふさわしい厳粛さなど、微塵も残っていなかった。
その中心に、ロノド公、ヴァシームはいた。
椅子にだらしなく身体を預け、片手には酒杯、もう片手には若い女の腰。
女は媚びるように笑いながら、彼の口元へ葡萄を運ぶ。
「はははっ、いいぞ、もっと注げ!」
酒杯を鳴らし、ロノド公は上機嫌に笑った。
その声は高く、軽く、空虚だった。
彼は今、天にも届きそうな程、鼻高々に上機嫌だった。
3日前の会議後、大公である叔父は自室に篭りきりで、皆の前に姿を現さない。
そして彼の息子達はまだ幼く、城内を取り仕切る器量はない。
「実質、この城の主人は俺と言っても過言じゃないな」
彼は知らない。
あるいは、考えたことすらなかった。
――この城での立場が、自身の実力によるものではないということを。
ノーシア大公の甥。
ただそれだけの理由で与えられた肩書と席。
それを、ロノド公自身は“選ばれた証”だと信じ切っていた。
「まったく、あの連中も大げさだ。少し外が騒がしいくらいで右往左往しおって」
侍従の一人が恐る恐る進み出る。
「あの閣下……先程から申し上げている通り、街の方角で異常な雷光が――」
「雷? 冬の空にか?」
ロノド公は鼻で笑い、酒を煽った。
「自然現象だろう。東域ではよくある話だ。そんなことで宴を止めろと言うのか?」
侍従はそれ以上、何も言えなかった。
この酒宴の場にも城外にて起きた異常事態についての報告が、衛兵から伝わって来ている。
しかし、ロノド公は気にも留めずに隣にはべる女の尻を撫で回している。
その場にいた誰もが分かっていた。
ロノド公に、状況を判断する器はない。
だが――
広間の外が、にわかに騒がしくなった。
甲冑の擦れる音。
焦った足音。
怒号と混乱。
先ほどまでの酒宴の喧騒とは、明らかに質が違う。
「……なんだ?」
ロノド公の笑みが、ようやく引き攣る。
周囲の者たちが顔を見合わせ、次第に青ざめていく。
次いで、広間の扉が押し開けられ近衛兵が転がるようにして入って来た。
「閣下……城から程近い宿場町で信じ難い規模の魔術が……」
「は?」
この瞬間になって、ロノド公は初めて“異常”を理解した。
理解した――つもりになっただけだったが。
「……な、なんだ?何が起きた!」
今さらのように声を荒げる。
その様子に、家臣たちの間にざわめきが走った。
そこへ部屋の外からもう一人が進み出る。
若い男――彼の名はアーヴェル。永久凍土と化したベルザン公国の北隣の国を治める公である。
彼は弱冠20歳。
まだ若く、纏う衣も質素だが、その顔には疲労と焦りが色濃く浮かんでいる。
彼は鎧も纏わず、旅支度のまま城に留まっていた。
「ロノド公。街外れで戦闘があったとの報告です。
地形が削れ、雷光が――」
「だから何だ!」
ヴァシームが遮る。
「お前は会議で何を聞いていた?各公はそれぞれの領地に戻れと決まったはずだろう!」
怒鳴り声。
広間が静まり返る。
アーヴェルは一瞬、言葉を失った。
(――あなたは、ここに残って酒宴を開いているではないか)
喉元まで出かかった言葉を、必死に飲み込む。
彼は会議で決まった命令を、誰よりも真面目に守ろうとしていた。
ベルザン公国は凍土と化した。
隣接する自身の領地も、いつ氷雪に飲み込まれるかわからない。
だからこそ、急いで帰国したかった。
――だが。
「……私は、ユリウス・ベルナールド殿を探しておりました」
アーヴェルは絞り出すように言った。
「会議にて、彼を伴って帰国し、エドワード・レインへの対処を共に行えと命じられています。しかし、ベルナールド殿の姿が城内に見当たらず……」
その瞬間、ロノド公ヴァシームは鼻で笑った。
「言い訳だな。国元に帰ることもできぬ無能が、俺に口答えするな」
酒杯を乱暴に机に置く。
「探し物?そんなものは後回しにしろ。俺は今、忙しいんだ」
アーヴェルは拳を握りしめた。
だが、言い返すことはできない。
その時だった。
――コツ、コツ
広間の外、石床を叩く音。それは場違いなほど、整った足音だった。
ざわめきが、自然と静まっていく。
その静かな足音が、喧騒をかき消しているかのようだった。
そして、現れたのは一人の男。
背は高く、無駄のない筋肉の張りと、長年鍛え抜かれた肉体特有の均整。
耳を覆うほどの長さの髪は、白銀に近い金髪。
年の頃は壮年――そう見えた。
纏うのは簡素な装束。
だが、その存在感だけで、空気が張り詰める。
鋭くも静かな眼差し。
剣を帯びているが、抜く必要すら感じさせない。
彼は広間を一瞥し、淡々と口を開いた。
「……仕事ですか?」
三戦帝の一人――"剣聖"ユリウス・ベルナールド。
東域という狩場に、また一人狩人が放たれようとしていた。




