6 異能と非能 異能暴発
数秒間の逡巡ののち、耳の中で、静佐の声が「ふむ」と相槌を打った。
『僕は可能であれば捕縛しろと指示を出したからな。無理にとは言わんが、やはり無理そうか』
「ありゃ無理だ。クスリでラリってる」
『! ……BMか?』
BMはビースト・マインドの略称だ。
「精神の狂暴化に異能の暴走状態と類似点はあるが、違うかもしれない。片桐晴斗が奴の無差別攻撃に対処してくれている。最終到達予知地点であるガラスの竜巻も、風の異能力者である片桐じゃなくて、斎藤の仕業かかもしれない」
『確かに、斎藤の異能は物体を操る異能。風の異能と断定するには逸ったようだな。――謝罪は始末書で受け取る』
桜太郎の耳に音声では届かなかったが、静佐に長谷川が謝罪したらしい。静佐の不愛想な返事に、桜太郎は苦笑した。異能不明である斎藤と、異能が判明している片桐とでは、どうしても判明している方に思考が注目するし、その結果予想の偏りが出てしまう。異能による物体の動きも要因の一つだろう。竜巻など、最もらしい風異能攻撃の形態だ。斎藤の異能が炎や水など、明確な違いが目に見える異能だったならば、こんな間違いもなかったはずだ。
少しだけ、長谷川が哀れに思えた。静佐は、異武で一番のドライで厳格な人柄だ。情報捜査部の捜査官たちは一番近い位置で日々を過ごすので、そんな人柄の中にも仕事への真面目さ精確さと、現場で戦う武装捜査官や補佐官たちへの真摯な姿勢を見ているので人気を誇るが、武装捜査部の中では恐れられている。そんな敬慕する上司から叱責された挙句にすげない対応のコンボを決められてしまったその心情は、きっと自他的にも痛々しく見えることだろう。
『しかし、そうか……わかった。許可を出そう』
「頼んだ」
『お前が撃つのか?』
静佐の問いかけに、アリスの旋毛を見下ろした桜太郎は否定した。
「子供を抱えてる。この子を安全な場所まで送り届けるよ。他の捜査官たちに指令を出してくれ」
銃声が風を伝播して響き渡った。静佐が射殺許可を出す直前のことだ。武装捜査官の誰かが応戦か威嚇射撃かの要因で発砲したのだ。戦場を確認すると、斎藤の右肩から赤いシミが滲んで広がっていた。片桐が撃たれたわけではなかったことにひとまず安堵するも、すぐに緊張に切り替わった。
(まずいな)
と、心の中で独り言ちる。発砲するのは良い。だが、射殺許可を出す前だった。桜太郎以外の武装捜査官は、射殺許可が下りたことを知らない。つまりは、わざと《《斎藤を殺し損ねた》》。これが問題なのだ。
嫌な予感――というより、嫌な確信が過った。
「ぐぎ、げああぁあぁああぁぁああぁッ!!」
涎を撒き散らしながら不気味な絶叫を上げて、片桐は倒れ込んだ。じたばたと路上を藻掻く。その後ろに、小銃を構えた牧野誠太の姿が見えた。なるほど、撃ったのは牧野だったか。
「牧野が斎藤を撃った。斎藤の右肩に被弾。意識あり」
『了解。現場出動中の全捜査官に告ぐ。安全な場所に避難しろ』
返答することもなく、瞬時に周囲を見渡し、安全圏を探す。そして見つけたのは、百メートルほど先にある地下街入口だった。立入禁止の赤いホログラム規制が張られているが、その奥には避難の妨げになる障害物は置いていないようだ。桜太郎はアリスを抱えたまま走り出した。
「片桐晴斗!!」
「!?」
突如として名を呼ばれ、片桐は弾かれるように振り返った。その表情は驚愕している。当然だ。異能力者にとって、武装捜査官が自分のことを認知していることほど、背筋を凍らせることはないだろう。
「逃げろ!」
と、忠告した刹那。斎藤が一気に異能を放出した。それは不可視の硬い圧力となって、周囲の物を押し飛ばした。斎藤から一番近い距離に立つ片桐は軽々と吹っ飛ばされ、街路樹の樹冠の中に姿を消した。標識は建築物の壁に深く突き刺さり、街路樹の幹を抉り、車のフロントガラスを粉砕する。人を巻き添えにしなかっただけでも幸運だったといえる――否、今、幸運に見放された人物が一人。
桜太郎は不可視の異能に弾き飛ばされて地面に倒れ込んだ牧野の真上から、一直線に急降下する三色団子のような標識に気付いた。その標識は力無く落下しているだけのように見えるが、高所から降り注いでいる。高度が高いほどに威力も衝撃も上昇する。そんなものが牧野にピンポイントで激突でもしてしまえば……と、桜太郎は事態を予測し、アリスを片腕に抱き直し、右手でヒップホルスターから拳銃を抜き取った。
「――……」
立ち止まることなく、走りながら銃口を向ける。照準を定めるのに、そう時間はいらない。桜太郎の黄金の目は、目標物を明確に狙い定めている。「いけるな」と、心の内は楽勝に考えていた。そしてそれは過信ではなく、事実である。桜太郎は標識の端「転回禁止」に向かって引き金を三回引いた。乾いた発砲音が三連鳴り響いて――標識が額を撃たれたかのように仰け反り、軌道を乱した。牧野が自分目掛けて迫り来る標識に気付いて咄嗟に顔を庇ったが、無駄な動作だった。標識は牧野の頭の先に落ち、がらぁんっと喧しく鳴ると、そのまま誰も傷付けることなく静止した。
桜太郎は牧野の無事を確認することもなく、地下街入口を目指して走り続ける。
「ごめんな、ビックリしたよな」
子供に銃声など聞かせたくはないのだが、仕方のない状況だった。
「び、びっくりした……」
アリスは涙声だった。そりゃそうだ。子供なんか、打ち上げ花火の爆発音や運動会で使うピストルの音にだって怯えるのに、至近距離で鳴り響く銃声が怖くないはずがない。
地下街入口はもう目前だった。牧野の一発以降、銃声は聞こえてこない。暴れ狂う異能から身を守ることに精一杯のようだ。仕方がない。悲劇の被害者ぶった斎藤の絶叫が耳障りだった。
(アリスの非難が終わったあと、もしも架蓮が間に合わなかったら、その時は俺が――)
冷静に、冷淡に、桜太郎は判じかけたその時、右側から巨大な影が迫り来るのを感じた――桜太郎とアリスを目掛けて、大型トラックが飛び掛かって来ている。先ほどの標識のように、拳銃で撃ち返せる物ではない。
地下街入口の階段まで差し掛かっている。あと二歩踏み出せば……否、間に合わない。階段を全速力で駆け下りたとて、大型トラックのスピードには敵わない。スローモーションに見えるくせに、理想と現実は激しく乖離している。身体が硬直し、自分の呼吸が止まっていることに桜太郎は気付かなかった。ただ、目前に死が迫るのを見ているだけ。
アリスは縋るように桜太郎を抱きしめている。
( せめて、この子だけ で、も )
願った時、ど、と押す力があった。それに実体は無く、押し退けられるかのような衝撃だった。
まるで、風に押されたかのような。
体が後方に傾き、足が地面から離れる。浮遊感に逆らうことができずに、桜太郎はアリスと共に「立入禁止」の中に落ちていった。
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