時が止まって動くモノ
『おはようございます』
近くから聞こえた朝の挨拶に俺は目を開けた。寝返りを打つと、卓上のラジオが目に入った。
俺はラジオをつけっぱなしでそのまま寝たらしい。ラジオの横に置いてある時計の針は、6時30分を指している。
体を起こし、昨日どうしていたっけと記憶を巡らせるが何も思い出せない。ソファーにいるということは、ラジオを聞きながらうたた寝して、そのまま朝を迎えたということだろう。そう結論付けた。
『今日もこうしてお話ができて楽しいですね。今日は好きなものの話です。最後まで聞いてくれますか?』
先程から聞こえてくる女性の声にラジオに意識を向ける。
『私は最近好きなものが増えたんです。ラジオにロックバンド、野球、中華料理、映画、コーヒー……沢山増えました。まだまだ好きなものを増やしたいです』
どうやら、女性パーソナリティーが投稿された内容を読み上げたようだ。
「一緒だな」
誰に言う訳でもなく一人呟いていた。俺の頭の中が好きな曲や、好きなシーンで埋め尽くされていた所、気が付けばラジオからは音楽が流れていた。
歌声はなく、メロディのみのそれは、清涼感のある心地好いものだ。
『今日は午前中は晴れますが、夜のはじめ頃から雨が降り出すでしょう』
メロディが流れる中、男性が天気予報を読み上げた。
「雨……」
窓辺に視線を向ける。カーテンが閉まっているため外の景色は見えないものの、僅かな隙間からは陽が射していた。
「あ……」
“男性が天気予報を読み上げて、俺は窓辺に視線を向ける”
この一連の動作と自分の目に映る部屋の様子に既視感を覚えた。
「でも……まあ……」
自分の部屋だからと考えることはすぐに止めた。
――――――
最初に目に入ったのは見慣れた部屋の天井。最初に耳に入ったのは男性と女性の豪快な笑い声だった。俺はソファーに寝転んでいる。
「今何時……」
どうやら、ラジオを聞きながら二度寝をしてしまったようだ。天気予報から先のラジオの記憶がない。
寝転んだまま顔を横に向けた。卓上の時計の針は6時30分を指している。
「あれ……」
秒針の動いていないそれは、どうやら電池切れのようだ。もしかしたら、朝に見た時刻も違ったのかもしれない。
『ちょっと聞いてくれる? この人ったら凄いドジで!』
『ちょっと待て! それは違う』
ラジオから聞こえてくる二人の会話は、夫婦漫才のようにポンポンとテンポ良く進む。ソファーに寝転んだまま二人の会話に聞き入った。
『また聞いてね』
ラジオから優しい声がそう言った時、ふと我に返った。
二人の会話はどれも日常にある少しクスッと笑えるものばかりで、ほっとするような温かさを感じた。
どのくらいの時間二人の会話を聞いていただろう。当たり前のことに時計の針は止まったままで、現在の時刻はわからなかった。かと言って、手元にないスマートフォンを探すつもりもなかった。今はただラジオの余韻に浸っていたい。そう思った。
メロディが流れ始める。清涼感のある心地好いそのメロディは、朝に聞いたものと同じものだ。
メロディに集中するべく目を閉じる。陽の光の中にいるような暖かさと、青空の下、草原で吹く爽やかな風を想像した。
『ニュースです』
朝、天気予報を読み上げていた男性の声だった。閉じていた目を開ける。
『男性がトラックにはねられ意識不明です』
流れているメロディに似つかわしくないそのニュース。
男性はニュースを読み続ける。しかし、先程まではなかったノイズのせいでほとんど聞き取れない。
『……いつまで……』
聞き取れたその言葉を最後に男性の声はしなくなった。
ノイズもなくなったが、メロディも流れていない。誰も話さない無音の状態が続いている。
男性が始めに伝えた一言が頭の中で繰り返され、離れない。与えられた静かな空間が余計にそうさせる。
たった一言の少ない情報ながらも、そのニュースに気持ちが沈んでいた。先程まで聞いていたラジオの余韻も、メロディの清涼感も心地好さもどこにもなかった。
それから逃げるように視線をさまよわせ窓辺を見る。朝と同様にカーテンが閉まっており外の景色は見えない。
太陽が雲に隠されたのだろう。朝に見た、カーテンの隙間から射していた陽は無くなっていた。
――――――
雷の音に目を開けた。卓上のラジオと6時30分を示す時計が目に入る。
「ああ……電池……」
俺は相変わらずソファーの上に寝転んでいた。体が重く、動く気力がない。下から引っ張られる力を強く感じる。まるでソファーに縫い付けられているかのようだ。
大きなあくびを一つした所で、何かが変わるはずもなく、今日はもうずっとソファーの上でも良いかもしれないと思った。
『ヤッホー!!』
「うわっびっくりした……」
突然聞こえてきた男性の底抜けに明るい声にラジオに意識が向く。
どうやら、次の番組が始まったようだ。
『そろそろ出掛けたくならない?』
その言葉を皮切りに男性パーソナリティーが話し始めた。
『前も話したんだけどさ、ラーメン屋! 絶対誰もがうまいって言うお店を見つけたんだよ。あ、今度一緒に行こうか!』
ラジオのリスナーに向かってそう話す彼に笑ってしまう。まるで、仲の良い友人に言うような言葉遣いだ。
「いいな」
思わず呟いていた。
『待ってるぞ!』
まるで俺と会話をしているようなその流れにまた笑った。彼の話は、明るい声をそのままに次の話題へと移っていく。
彼のラジオが終わる頃には、重かったはずの体を起こし、ソファーに座っている俺がいた。
『またな!』
彼がラジオ番組を締めて数秒後、聞き慣れたメロディが流れ始めた。
『きっかけは些細な出来事だった』
このメロディが流れると現れるいつもの男性の声だ。
『その女の落とした資料を拾って渡した。ただそれだけだった』
「ラジオドラマ?」
それにしても唐突に始まったなと思いながらもラジオに耳を傾けた。
『女がその場から離れた後、一緒にいた後輩に言われた。先輩ってモテる人ですよね』
男性は淡々と話し続ける。
『そして後輩は続けて言った。気を付けた方が良いですよ』
男性がそう言った時、外が光ったのがカーテン越しでもわかった。
雷の音が響く。それと同時に、流れていたメロディがプツンと切れた。
「停電?」
そう呟いた数秒後だった。
『その女と会社内外問わず会う頻度が多くなった』
ラジオから再びメロディが流れ始め、男性が話し出した。
「直った?」
相変わらず男性は淡々と話し続ける。
『最初は偶然だと思っていた。その女の顔を覚えたからだと思っていた。でもある日、俺の家の前にその女がいたんだ』
俺は、ドラマの中の“俺”に共感したのか、全身に鳥肌が立った。
雷の音がまた響いていた。
――――――
『おはようございます』
どうやら朝の挨拶をする時間になったらしい。女性の声に目を開けた。卓上のラジオと6時30分を示す時計が目に入る。
体を起こしソファーの背にもたれた。右腕で目を覆う。
『今日もこうしてお話ができて楽しいですね。最後まで聞いてくれますか?』
女性の声と共に、外から雨音が聞こえてくる。
「はあ……」
一つため息をついた。
嫌な夢でも見たかもしれない。俺はよくわからない感情を抱いている。それは決して良いとは言えないものだということだけはわかった。良くない感情が俺の心を支配している。
『今日は思い出の話です』
そんな俺の感情なんて関係なく、ラジオの中の女性は話し続ける。
女性には悪いが、今はラジオを聞きたくない。手を伸ばし、ラジオの電源を消そうとボタンを押す。しかしそれは反応せず消えてはくれなかった。
今度は音量を小さくしようと試みてみるが、同じく反応せず音量は変わらなかった。
自分の耳を塞ぐ。でもどうしてか声の大きさは変わらなかった。それどころか、先程よりもその声は大きく聞こえる。
それ以上どうする気にもなれない俺の元には、ラジオから流れてくる女性の声が入ってくる。
俺はラジオをどうにかするのを諦めてソファーに寝転んだ。
『一緒に行った映画館。目元を拭ったり、大きな音に驚いたり。私は、どんな反応をしているんだろうと横を見るのも好きです。それと本編もですが、映画を見た後に感想を言い合うのって楽しいですよね』
「違う」
無意識に自分の発した言葉に戸惑った。
「違う……」
その言葉の意味を確かめるように呟いた時だった。
「何だこれ……」
自分の左手に感じた気持ち悪さに呟いた。まるで誰かに手を掴まれているようだ。
体を起こし、左腕を振っても、右手で擦ってもその気持ち悪さは消えない。
「嫌だ……離せ……」
何度も同じ言葉を繰り返し、何度も左腕を振り、何度も右手で擦り、その気持ち悪さに耐える。
『また明日』
「うわっ……」
まるで耳元で呟かれたような女性の声の近さに左耳を押さえた。女性のその言葉を最後に、ラジオからは何も聞こえなくなった。
「何なんだよ……」
ラジオを見つめ呟いた。左耳から手を離し、今度は左手を見つめる。
グー、パー、グー、パーと左手を握ったり開いたりを繰り返して気が付く。いつの間にか左手の気持ち悪さは消えていた。
しかし、それを認識した途端、思い出したように心を支配している良くない感情が主張し出す。
胸元の服をギュッと握り締めた。ラジオからの声が無くなった今、俺の耳には雨音だけが入ってくる。その音が強くなったと思った時だった。
ラジオからいつものメロディが流れ始めた。
『ニュースです』
いつもの男性が言った。
『男性がトラックにはねられ意識不明です』
メロディに似つかわしくないニュースの内容。聞き覚えのあるその言葉に、自分の顔が強張ったのがわかった。
『駅を出て、住宅街を歩いていたタイミングで雨が降ってきた。俺は、夜のはじめ頃から雨が降ると伝えていたキャスターの言葉をぼんやり思い出していた』
「え?」
ニュースを伝える人とは思えない男性の言葉遣いと、その内容に呟いた。
『その時だった。あの女に声を掛けられた。その女は傘を差し出してきた』
「あの女……」
『傘を受け取ろうとしない俺に女は言った。照れなくても良いんですよ。だって私達お付き合いしているんですから』
俺はあのラジオドラマを思い出していた。
『そんな事実は無かった。告白された覚えも、もちろん告白した覚えも皆無だった』
男性はあの時と同じように淡々と話し続ける。
『俺は女から距離を取ろうと後退った。女はその分こちらに寄ってくる。俺のすぐ後ろが階段だと気付いた時、思ってしまったんだ。この女がいなくなれば……』
男性は少しの間何も言わなかった。俺は男性の次の言葉を待った。
『もう限界だった。いい加減にしろよと俺は声を荒らげて、女の持っていた傘を払った。女の視線が傘に向いたその隙に、俺は女の背後に回って女の背中を押したんだ。女は階段から転がり落ちた』
「え……」
『自分でやったことなのに俺は怖くなって、女がどうなったか確認もせず走った。女から、現実から逃げるように走り続けた。そして、信号を見ることなく交差点に飛び出した。トラックに気付いた時にはもうどうすることもできなかった。俺は、トラックにはねられた。今はずっと眠っている』
「はねられた……ずっと眠って……」
『ねえいつまで逃げるの?』
なぜか俺はその言葉にはっとした。
ラジオの横に置いてある6時30分を示す時計が目に入る。すると、時計の長針が左に一つ動いたのがわかった。
「あ……」
次の瞬間、時計の秒針も長針も短針も物凄い早さで回りだす。それは止まっていた分の時間を取り戻すかのように見えた。
「いつまで、逃げる……」
今まで淡々と話していた男性が、力強く放った言葉。その言葉を最後に、ラジオの中の男性は何も言わなくなった。
メロディのみが流れ続けている。俺にとってそれは、清涼感のある心地好いメロディのはずだ。それなのに……
「何で……」
今は涙が止まらない。拭っても、拭っても、それは目から溢れてくる。
恐怖、不安、焦燥、悲愴、後悔……
涙が一つ落ちるたび、俺は理解する。心を支配している感情に名前が付いていく。
ふわりと風が頬を撫でた気がした。窓辺に視線を移す。
窓は閉まっているはずなのに、カーテンがふわりふわりと風に乗っているかのように大きく揺れている。
大きく揺れているカーテンに導かれるようにソファーから立ち上がり、窓辺に行く。
カーテンが大きく膨らんだタイミングで、俺をすっぽり包んだ。
雨は降っていなかった。外の景色は白く光っていて眩しい。
「俺は……俺だった……」
俺は窓を開けた。
――――――
目の前にいる親友は、先程からずっと泣いては笑ってを繰り返している。
「本当に良かった……」
「それ何回も聞いた」
「おまっ……だってお前、何日目を覚まさなかったと……」
「うん」
俺は病室のベッドの上にいる。どうして今、俺はここにいるのか……全部、全部思い出していた。
長い、長い夢を見ていた気がする。自分の部屋で、気に入って買ったあのラジオを聞いていた。
何を聞いていたかまでは覚えていない。だけど……
『ねえいつまで逃げるの?』
そう言われたのは明確に覚えている。
「おじさんとおばさんもすぐに来るって」
「そっか……」
「二人ともお前に向かって話し掛けていたんだぞ。さすが夫婦って感じで会話して。本当いつもみたいに笑ってた」
「……」
両親の顔と豪快な笑い声を思い浮かべた。
俺は……自分勝手だ。
「ああ!」
彼はわざとらしく大きな声を出したかと思えば、次は咳払いをした。
「僕の気持ちは伝わっていますか?」
彼は手振りを付けて、おどけた口調でそう言った。何も言わない俺に気を遣ってくれたんだとわかった。
「え?」
「おじさんとおばさんに負けじとお前に話し掛けていたんだよ! ラーメンの話とか!」
「ラーメン?」
「良い店見つけたから一緒に行こうかって!」
「……いいなそれ」
「だろう? 他にもさ……」
本当のことを知っても同じことを言ってくれるのだろうかと考える俺は、そうやって自分のことしか考えられない俺は……
最低だ。
「なあ」
他にもこんな話をしたんだと時折鼻をすすりながら話をしていた彼に声を掛けた。
「うん? もしかしてどこか痛む?」
「いや。先生によく診てもらったし大丈夫だよ」
「そっか。じゃあ?」
「ああ、その……ありがとう。色々」
「……それさっきも聞いたけど」
「まあ、ね。あのさ……」
長年の付き合いというやつか。俺の一言に何かを察したらしい彼は、椅子に座り直した。
「何?」
「相談があるって……前に言っただろ?」
「……ああ。ごめんな。なかなか話を聞いてやれなくて」
「いや大丈夫。お前も仕事とか家の事とか忙しそうだったし。俺が直接会って話がしたいって条件付けてたから」
「あのさ……違ったらごめんだけど……お前が事故に遭ったのって、その相談と関係してる?」
「実は……」
俺の話は、コンコンコンと病室のドアをノックする音に遮られた。
「はい」
俺が返事をしたものの、誰も入ってくる気配がない。
「あれ? ちょっと見てくるわ」
「うん」
彼が立ち上がり、病室の入り口へと向かう。俺の視線もそれに伴い病室の入り口へと向かった。
「……っ!」
心臓が大きく跳ねた。声が出なかった。
体が硬直し動けない。
何で……何で……何で……何で……
ドアを開けた親友の肩口に女の顔が見えた。
「おはようございます」
(完)