Starting Gate -遡上-
青い水槽に囲まれた部屋で、ぼんやりと頬杖をついていた。
魚は一匹もいない、透明な泡が上がってくるだけだ。
いつまでも見ていられる。そのうち頭が空っぽになる。
好き、なんていう概念じゃ括れない、ここは自分の居場所だった。
珍しい客人が来て、辺りをぐるりと見渡している。どこを見たって、景色はほとんど変わらないのに。顔は固いけど、案外お茶目な人なんだよな。
「ここが噂の深海部屋か。次に誰が入るか、争奪戦になっている」
「へえ、みんな悪趣味ですね。紅茶でいいですか?」
軽く頷いたので、ティーバッグで二人分を入れた。この人に、コーヒーを出す勇気はない。毎度、足元にも及ばなくなってしまう。
「片づけたところだろう、済まないな」
「お忙しいのに見送りですか。律儀ですね」
ゆったりと、二人でお茶を含む。この人との沈黙は苦にならない。
「そうか。もう三年か」
「ええ、三年です」
あとはお互い、言葉にならなかった。その必要も感じない。飲み終えると、帰る素振りを見せた。相変わらず淡泊で、そこも嫌いじゃない。
「一応、渡しておこう」
「名刺なんて持ってるんですね。初めて見た」
「死ぬ気で捕まえてくれれば、力になる」
これ、彼なりのユーモアなんだけど、笑うタイミングが難しい。
「元気でな」
「もちろん。お身体に気をつけて」
さて、最後の客人も帰ったし、引き払うとするか。
資料は倉庫へ運んだ、ファイルは引継ぎ相手に渡した、マシンの類は回収され、残りはゴミだから捨ててしまって、広々としている。あの男の使っていた部屋を、もらおうと考えたのは我ながらマゾだが、印象をきれいに塗り替えてしまって、かえって気分が晴れた。忌み嫌うものが減ると、心が軽くなっていい。逃げる必要がなくなって、涼しい顔で歩いていける。
地上へ出るや、いつもたむろしている連中に、声をかけられた。物置小屋は飾りだったが、ペンキを塗り替え、扉を外し、中身は空にして、芝だけいい感じに整えておいたら、人が集まり出した。テーブルとイスが置かれ、棚にお菓子とコーヒーメーカーが揃えられ、敷地の入口に近いことも手伝って、いつも誰かが談笑している。
手を振って別れ、待ち合わせの公園へ急いだ。ちょっと時間が押している。案の定、あちらが先に着いていた。
「よう、三年ぶりか」
「ルディ、変わってないな」
「お前はちょっと、大人になったかもな」
空の景色は久しぶりで、しばらく釘付けになり、窓の外を眺めた。ここで過ごした記憶が、ふいに洪水になってあふれてくる。何もないのにちょっと泣きそうで、笑える。
「いいポジションだったのに、また蹴ったんだな」
「空で海賊ごっこしてるルディに、言われたくないね」
「クソ親父だな、余計なこと吹き込みやがって」
ルディの親父さんは、彼に負けず劣らず面倒見がいい。何かと気にして、声をかけてもらって、ルディ本人より交流があった。よくウチに入れと冗談を言う、真に受けはしないけど、ありがたいものだ。
「もう会ったの?」
「いや、お前を待ってた。……ひとりじゃ気まずいだろ」
「どうしたのルディ。そんなキャラだっけ」
おっかしい。ああ、ブランク三年あるもんな。俺はたまに、見てはいたから。もしかしてルディ、緊張してんのかな。意外に可愛いとこあんじゃん。
「じゃあ、行こうか」
案内はルディがしてるのに、先導は俺がするという、よく分からない構図で部屋に向かった。ドアの丸い小窓をルディが指すので、覗くと、ベッドの上に人影がチラリと見える。さすがにドキリとした、動いている……。
彼は。双子と違って、力を使い果たさなかった。
あれから目覚めなかったのは、事実だ。だけど昏睡したまま、どうにか耐えてくれた。その間、俺は研究所へ入り込み、ウォルフラムの残したデータを片っ端から分析して、ルディは自警団と足並みを揃え、広く能力者たちに協力を仰ぎながら、消耗と回復のバランスについて、生きたデータを取り続けてくれた。
さらに大きかったのは、ラグノール指揮下に《研究開発部》が新設され、新しい能力《キュアー》が発見されたことだ。まだ仕組みは解明の途中だが、彼らのサポートを受けると、能力者の回復力は一時的に上昇する。以前であれば、自己回復の難しかったダメージも、じわじわと癒し、回復可能なレベルへ底上げすることができるのだ。
その知識の集大成として、また最初のモデルケースとして、彼を目覚めさせるプロジェクトが今日まで動いていた。双子の件が、広く世間へ知られた結果、銀髪のイメージは加害者から被害者へとシフトしている。彼の自制スキルの高さは、あの男が期せずして証明してくれたお陰で、反対する声は最後まで出なかった。
どちらがドアを叩くか、ルディと揉めていると、内側からノックの音がする。
…………。
お互い、出方を待ってしまった。小さく、吹き出す気配。
「それ、まだかかりそう?」
笑っている、そう、この声……。ドアノブを握った、ルディに譲れなくなったからだ。三年待っていた。青い水槽に囲まれて、立ち上る泡を見つめながら、俺が見ていたのは別のものだ。
息を止めて、ドアを開いた。
うわ……光だ、まぶしい。白さに溶けた人影は、懐かしい空気をあふれさせ、それは洪水になって押し寄せた。胸が痛くて、死にそうだ……。
「へんなの。多分、久しぶりなんだよね?」
おそるおそる顔を上げると、瞳の海に吸い込まれた。深くて透明で、どこまでも澄みきっている。奥には繊細な陰影が、林になって生い茂っている。抜け出せない心地よさに絡めとられた。待っていた長い時間を、一瞬で埋め尽くされる。
「シェリー?」
ああ、そうだ。深呼吸して、頭を空っぽにして、最初に思いついた言葉で、迎えようと決めていた。
「……お前の隣、まだ空いてるか見にきた」
「どうだった」
「別にいいや。空いてなくても俺が退かす」
「シェリーが大人になってる。……お待たせ、相棒」
End