騎士の元に届いた最愛の貴族令嬢からの最後の手紙
ミュルンハルト王国騎士団長であるアルヴィス・スフィアードには忘れられない女性がいた。
まだ自分がただの兵士であった頃に出逢った貴族令嬢。その女性と身分違いの恋をしていた頃があったのだ。
それを引きずっているのだろう。
齢四十を越えても伴侶を迎えることはなかった。
最近では流石に体も衰えた。
そう感じながらも騎士を辞めないのは、いつかその女性から助けを求められる日が来るかもしれないと思っているからだ。
その時のためにアルヴィスは剣の腕を磨くのを止められなかった。
女性が素敵だと言ってくれた榛色をした瞳の周りには随分と皺が増えたと感じる。
赤銅色の髪には白髪が混じった。
あの女性が愛した自分は最早存在しないのだろう。
それでも今更生き方を変えることなどできない。
仕事を終えたアルヴィスは家へと帰ってきた。
騎士団長になってから買った家は独り身には随分と広い。
最近では掃除をするのも億劫で、先日家政婦を初めて雇った。
休日である明日にはその家政婦がやって来る。だからこの溜まった洗い物も明日には片付くだろう。
何十年も続く一人の夕食にため息を吐きながら食べ終えたアルヴィスは書斎に篭ると、大事に保管してある小箱の鍵を開く。その中には一通の手紙が入っていた。
それはアルヴィスの愛した女性から最後に届いた手紙だ。
届いた時には匂っていた香水も今はもう香ってはくれない。
それでも目を閉じれば女性が好んだヘリオトロープの花の香りを思い出せる。
当時はその名前を知らなかったが、必死に探した中で見つけたのがヘリオトロープだった。
それはアルヴィスの庭で今も可憐な紫色の花を咲かせている。
その香りの中で女性の幻を求めて生きる。
なんて女々しい男だろうと自嘲混じりの笑みを浮かべた。
手紙は何十年と経ったことで色褪せて随分と見すぼらしい。
ペリペリとした音を立てるのはアルヴィスの涙が乾いたせいだ。
それでもアルヴィスはその手紙を宝物のように慎重に開くと、何度も読み込んだ中身に目を通した。
『 最愛の人 アルヴィスへ 』
少しだけ丸みを帯びた女性らしい筆跡に指を這わす。
その動作を何年も繰り返したせいで字は他と比べて薄くなっている。
惜しむようにゆっくりと指を止めるとその先に目を通した。
『貴方がこれを読んでいる頃には私はもう王国にはいないでしょう。
ルルティアの街にいるお父様から結婚の話が出ました。
ヴィルハイド公国の侯爵の元に嫁がされるようです。
いつも一緒にいてくれた貴方と離れるのは本当に辛いけれど
すぐに向かわなくてはならなくなりました。
私は貴方と結ばれたかった。
ただそれだけを願っていました。
しかしそれは叶わないのですね。
思い出すのは貴方の優しい榛色の瞳です。
こんなにも愛おしいと思える男性は
これまでもこれからも貴方だけでしょう。
叶わない恋の記憶を胸に刻んで私は侯爵の元へ行きます。
来世でまた会えたのならばその時は
伝えられなかったこの想いを貴方に伝えたい。
恋愛は貴族に生まれた私にとって縁のない物と思っていたけれど
大好きな貴方に会えてそんな考えは変わりました。
死んでも良いと貴方のためならそう思えた。
手紙は使用人の前で書いているから見られるのは恥ずかしいけれど
言わなければ一生後悔すると思って書きます。
伝えたいことはただ一つ。
まだ私は貴方を想っているわ。
でもお願いだから私を忘れてちょうだい。
もっといい女性が貴方には現れるはずよ。
全く女心に気付かないのは悪い所だから直してね。
掴んだ手を離さないでと思うのが女性なの。
手を思い出すわ。貴方の大きくて優しい手。
いつもその手が私を安心させてくれた。
瑠璃色となった二人の運命だったけれど
私はそれでも愛されて幸せでした。
貴方のことはいつまでも忘れない。
一緒にいてくれてありがとう。
死が私を迎えに来ても最後に思い出すのは貴方のことよ。
天国では貴方と一緒になります。その時は今世の分まで貴方を幸せにするわ。
流転の先でまた会いましょう 』
アルヴィスは手紙を畳むと潤んだ瞳で宙を見上げた。
難しい言葉遣いは博識な女性らしいと今でも思う。
女性は今でも公国で暮らしているのだろうか。
一度だけ休みをもらって向かったことがあるが、怖くて会うことが出来なかった。
もし幸せに暮らしているのならば、それだけで良いとアルヴィスは思う。
酒を飲みながら何度も読み返す内に瞼が重くなっていく。
コンコンコン。
そんなノックの音でアルヴィスは目を覚ました。
酒のせいかそのままテーブルで寝てしまっていたらしい。
手紙が無事だったことにホッとしながらドアへと向かうと自分を呼ぶ女性の声が聞こえてきた。
どうやら頼んでいた家政婦が来てくれたらしい。
そのどこか聞き覚えのある声にドアを開くとヘリオトロープの香りがした。