08
進撃の伯爵令嬢
この場に同席していた高齢官僚は、後にこう語った。
「あのレジェス・ケトラが五歳児のようなあどけない顔で呆然とするのを、初めて見ました」と。
リューディアによる渾身のプロポーズを受けたレジェスは、一瞬で笑みを消して硬直していた。
(……聞こえなかったのかしら?)
対するリューディアは、なるべくはっきりと大きな声で言ったつもりの求婚の言葉が滑ってしまったのかと思うと、恥ずかしくなってきた。
だがリューディアがほんのり赤面する間に、レジェスの土気色の頬がじわじわと赤くなっていった。
「……その、リューディア嬢。今、なんと?」
「頑張ってプロポーズしたのに、もう一度繰り返せということ……?」
「そ、いや、あなたを責めるわけでは……その、幻聴かと思って……」
ここでレジェスも自分の耳がおかしくなったわけではないと確信を持ったようで、リューディアとは比べものにならない速度で顔の血色がよくなり、やがて真っ赤になった。
傍らにいた侍従が「茹でワカメ……」と呟いたのをぎろっと睨んだ後、レジェスは咳払いをしてリューディアに向き直った。
「その、リューディア嬢。つまりあなたは私に結婚を申し込んだと」
「ええ」
「……ク、ククク。これはまた……なんともひどい人ですね、あなたは」
「あら、ごめんなさい。やはり男性もこういうのは、星降るバルコニーとかでされるのがよかったかしら? もしくは、薔薇の花束でも準備した方がよかった?」
「そこに文句を言いたいのではありません。……何がどういうことで、あなたと私がケッ……結婚することになるのですか?」
「それがしっくりくると思ったからよ」
リューディアは「よくぞ聞いてくれました」とばかりに微笑み、右手の人差し指を立てた。
「私とあなたが結婚すれば、あなたの財産は夫婦の共同財産ということで実質私のものにもなる。その点では、あなたの狙い通り。でも共同財産なのだから、あなたにも使う権利がある。この点では、私の希望通りになるわ」
「はぁ……まあ、それはまあそうですが。あなた、結婚が何か分かっているのですか?」
「未婚だけれど、大体のことは分かっているわ。あなたはもっと詳しいことを知っているの?」
「知っ――」
言葉の途中で、レジェスは黙り込んだ。おそらくリューディアと違いこれまで結婚とは一切縁のない生活を送ってきたのだろう彼は、自分が「結婚」なる単語についてリューディアに偉そうに語れる立場ではないと気づいたのだろう。
彼は気を取り直すようにくしゃくしゃの髪を振るい、クク、と小さく笑った。
「……あなたは何も分かってらっしゃらない。結婚すれば確かに財産の点では私とあなた両方の要望を叶えられますが、その代償にあなたは私の妻になるのですよ」
「そうね。そして、あなたは私の旦那様になるわ」
「ダン……。……ええ、そうですね。伯爵令嬢とあろう方が皆に疎まれる闇魔術師に嫁ぐなんて、正気の沙汰ではありません。あなたの愛するご両親や弟君が、皆の嘲笑の的になるやもしれませんよ……?」
「それはないわ。だって、私たちの今後は国王陛下が保証してくださるもの」
レジェスは知らなかったかもしれないが。
娘のせいで伯爵家取り潰し直前の展開にまでしてしまったことを猛省し、国王は「令嬢リューディアならびに令息アスラクの結婚において、王族が後援する」という旨を約束してくれた。
つまりリューディアが選んだ相手なら誰だろうと、国王自らが後援者となって支援してくれるのだ。王族の承認と庇護のもとで結ばれた婚姻にケチを付ける猛者は、そうそうおるまい。
それにリューディアの両親も、「結婚するなら伯爵家と懇意にしている貴族か、もしくは政敵にはならない平民などにするように」と言っている。レジェスは平民なので、彼と結婚しても親族関係などに煩わされることはない。
……などといった点をぽんぽんとリューディアが説明する間、レジェスは餌をねだる池の鯉のように口をぱくぱくさせていたが、音として発声するには至らなかった。
「ということで、あなたのもとに嫁いだことで私や私の実家にとって不都合になることは、何もなし。父や母も、あなたのことを救世主だとあがめているくらいだものね」
「……ク、クク、ハハハハ! なるほど、私はあなたの家では大英雄扱いされているというのですね! こんな闇魔術師が救世主だなんて、世も末です!」
レジェスは少し調子を取り戻したようで、前髪を掻き上げて笑い始めた。だが、まだ顔は赤いままだった。
「なるほど、なるほど。……あなたは合理的解決策のためなら、好きでもない男と添い遂げることも厭わないのですね。なんと気高い犠牲心をお持ちのことで……」
「あら、ごめんなさい、言い忘れていたわね。私、あなたのことが結構好きよ?」
「…………は?」
レジェスの口から、地の底を這うかのような低い声が出た。
「……好き? あなたが、私のことを? こんな……闇魔術しか能のない醜い男のことを、好きですって……!?」
「あのね、私はあなたの顔がどうのなんて思ったことは一度も……ああ、いえ、あるわ。もうちょっと太ればいいのに、とは思うわね。あなた痩せすぎだもの」
「……。……クク、あなたは何も分かっていない。私なんかと結婚して手を付けられた女性なんて、社交界でも笑いものになるだけです。再婚しようにも、闇に犯された女だと言われてもらい手がなくなってしまいますよ?」
「まあ、あなたは私に手を出してくれるのね」
「ちがっ……!? い、いや、違いませんが……いや、それはいいとして!」
レジェスはぎりっと歯がみした後、自分の癖の強い髪を指先で引っ張った。
「……あ、あなたは嫌ではないのですか!? 結婚していずれ、私なんかにだ……だか……」
「抱かれてもいいと思うくらいには好きよ」
「グェッ!?」
「あなたは、私のことが嫌い?」
「まさか! あ、いえ……あなたは貴族令嬢で、私は平民です。釣り合うわけがありませんし、世の者たちが認めません!」
「釣り合うかどうかは、外野が決めるものではないわ。さっき質問して確信を得たけれど、あなたは私の理想にぴったりだし、私はそんなあなたに隣にいてほしいと思っている。もっとあなたのことを知りたいし……未来のことも、たくさんお話ししたいの」
視界の端で、侍従と官僚が興奮気味に何やらこそこそ話しているのが見えた。
レジェスの位置からは彼らの会話内容が聞こえるようで彼は野次馬二人をにらみつけた後、リューディアの方を向いた――が、灰色の目は思いっきり逸らされていた。
「……ご存じかもしれませんが、闇魔術師は総じて短命です。現在の平均寿命は、三十代後半くらい。私ではあなたに長い間寄り添うことができません」
「でも、たとえ短かったとしてもあなたの人生を一緒に歩けるのなら私は十分よ」
「ピェッ!?」
「それに、私だって長生きできるという保証はないし。もちろん、おじいさんおばあさんになっても一緒にいるのが理想ではあるけれどね」
「し、しかし……私には本当に、金以外であなたに与えられるものがありません。貴族にとっての誇りになるような家名も……」
「ケトラ、という名字があるでしょう?」
リューディアが指摘すると、レジェスは嫌悪を表すかのように顔をしかめた。
「……あんなもの、セルミア人として生きていくために適当に付けたものです。愛着も意味もないこんな名を、あなたに名乗らせるわけにはいきません」
「そう? でもケトラの名前は、あなたが生きていく上で必要だったものでしょう? あなたが自分で名付け、あなたを何年も支え続けてきた名前を私も名乗れるのなら、とても嬉しいことだと思うわ」
「……」
「で、他に懸念事項はある?」
ずいっとリューディアが詰め寄ると、レジェスは少し身を引いた。まだ、彼の目はあらぬ方向をさまよっていた。