5 伯爵令息の危機?①
その日、ハットネン男爵家はやや盛り上がっていた。
「きっとヴェルナのことで間違いないわ!」
「ああ、そうだとも。きっと、おまえの姿を遠くからご覧になっていたのだろう」
「ええ、そうよね、お父様、お母様!」
いつもどおりリビングで、三人がはしゃいでいる。
今回は特に呼ばれていないがリビングにあるものを取りに来ていたマリカは、いつもカリカリしている三人がやけにご機嫌なことに一抹の不安を覚えていた。
(どうせ、ろくなことを考えていないわよね……)
そう思い、用事だけ済ませたら自室に戻ろうとしたのだが。
「まさか、アスラク・シルヴェン様がおまえを探しているとはな!」
「……え?」
聞き捨てならない名前が聞こえたのでうっかり反応して振り返ってしまったが、いつもなら「あっちに行け」と邪険にする父も今は機嫌がいいからか、「マリカか! おまえも聞いていきなさい」と手招きした。
「なんとアスラク・シルヴェン様が、この前のガーデンパーティーで出会ったという女性をお捜しなのだそうだ!」
「アスラク様は、とても素敵な絵を描かれていた令嬢を捜しているそうなの。でも名前が分からないしボンネットを被っていたので顔も見えなかったそうだから、あのパーティーに参加していた令嬢たちの家を回っているそうよ」
父に続き、ハンネレもご機嫌な様子で言う。
両親に挟まれて座るヴェルナもまた機嫌がいいようで、呆然とするマリカを見てふふんと胸を張った。
「アスラク様は、私のことを見初めてくださったのよ。だって私の絵はとっても素敵だって、いろいろな人に言われたもの!」
それは間違いなくお世辞だろう、とマリカは心の中で突っ込む。
マリカは空想好きなこともあって描く絵は変なものが多いが、それでも元々の絵画センスはヴェルナよりずっと上だと自分でも思っている。
(……もしかして、もしかしなくても……捜しているというのは、私のこと……?)
ひやり、と嫌な汗が肌を伝う。
アスラクは、「素敵な絵」を描いていた令嬢を捜しているという。
そしてあのガーデンパーティーの日、マリカの果樹おっさんの絵を絵を見たアスラクは、「独創的で素敵な絵」と言っていた。
(いや、でもひょっとしたら他のまともな絵を描いていた令嬢のことかもしれないわ。うん、むしろそうよ)
辛いものを食べたら、その次に食べた甘いものがいっそう甘く感じられる。
それと同じで、マリカの奇抜な絵を見たアスラクはその後にまともな絵を見たことでいっそう、その絵に惹かれたのではないか。
(伯爵令息のお越しということだから、こんなに盛り上がっていたのね……)
もはや自分が選ばれると信じて疑っていない様子のヴェルナやそんな義姉を持ち上げる父とハンネレをちらっと見てから、マリカはさっさとリビングを後にした。
アスラクの人捜しのことは気になるが、どうせマリカは関係のないこと――むしろ、関係があったら困ることだ。
(ヴェルナは違うでしょうけれど、すぐに相手の方は見つかるわよね)
……そうは思いつつも、マリカの絵を見て「素敵」と言ってくれたときのアスラクの瞳の輝きは、なかなか頭の中から消えてくれそうになかった。
マリカの予想どおり、「マリカは出てこないでね」とヴェルナに命令されて部屋にこもることしばらく。
昼食時にマリカが一階に降りたとき、ヴェルナたちはすっかり落ち込んでいた。
「目の前で絵を描けと言われたから描いたのに、違うと言われたの!」「何がいけないというの!?」ときいきいわめいて使用人に八つ当たりするヴェルナの声を遠くに聞きながら、マリカは「でしょうね」としか思わなかった。
なおアスラクは「この家にはもう一人、令嬢がいらっしゃるのでは」と聞いたそうだがすかさず父が、「妹の方は当日、アスラク様と一度も会っていないと申しておりました」と言ったそうだ。こればかりはマリカも、父に感謝した。
(まあどうせしばらくすれば、アスラク様が見いだされた令嬢が見つかるわよね)
そう信じるマリカだったが、それから何日経っても「伯爵令息の捜し人が見つかった」という知らせはなく――やがて、「伯爵令息は件の令嬢に会えない辛さのあまり、意気消沈してらっしゃる」という噂まで流れてくるのだった。
アスラク・シルヴェン、体調不良。
もうここまで来るとその原因はほぼ間違いなく、マリカである。
(なんでここまで引きずられているのよ……)
マリカは、重い気持ちで城下町の大通りを歩いていた。
今日も彼女は叔父の店で働いておりその帰りなのだが、仕事中に客が「アスラク・シルヴェン様が伏せってらっしゃるようだ」なんて噂話をしたものだから、マリカの胸はしくしく痛みっぱなしだった。
あのガーデンパーティーから、一ヶ月が経った。
すぐに見つかるだろうと思われたアスラクの捜し人は一向に現れず、彼はすっかり落ち込んでいるという。
ガーデンパーティーの招待客の誰かなのは間違いないのだが、「わたくしかもしれません」と名乗り出る令嬢たちに絵を描かせても皆違うし、その他の家からも「うちの家の娘ではない」と言われたという。
結果として、アスラクの人捜しは迷宮入りとなってしまったようだ。
ならばさっさと諦めればいいものを、アスラクはずっと件の令嬢のことを捜している様子だ。そしてついに、体調を崩すまでになってしまったとか。
(それじゃあやっぱり、アスラク様がおっしゃる「とても素敵な絵」を描いた令嬢というのは、私のこと……!?)
アスラクに絵を見られただけならまだしも、彼はあのときに間違いなく「素敵な絵」と言っていた。あの写生時に彼が「素敵」と評した絵が一枚だけなら、それはマリカの絵ということになる。
(そうだとしたら、罪悪感がすごいわ……)
アスラクがもっとさっぱり諦めてくれたのなら――もしくは別の令嬢でよしとしたのなら、マリカもここまで悩まなかったというのに。
(もしかしなくても、このままアスラク様がはかなくなられたら私のせい……?)
ガーデンパーティーで見たアスラクは健康そのものの青年だったが、中身も強かとは限らない。案外アスラクは繊細で、待ち人が一向に現れないことで心を摩耗してしまったのではないか。
そして「あの人にもう一度、会いたかった……」と言い残して息を引き取ったアスラクの手の中には、果樹おっさんの描かれた絵が握られていたのだった――
(それは無理!)
自分の空想に自分で突っ込みを入れたマリカは、すうはあ、と深呼吸した。
まさか自分のことではないだろう……そうでなくては困ると思って放置していたが、これはもう放っておくことはできないのではないか。
(だとしたら……私がきちんと、説明をしないと)
マリカは、空を見上げた。
太陽は徐々に西の空に沈もうとしているが、まだ日没まで十分時間はある。
(伯爵邸は……確かあっちね)
伯爵家についてヴェルナがああだこうだ言っていたので、場所は知っていた。だがそれなりに距離はあるためマリカは馬車を呼び、伯爵邸まで乗せてもらうことにした。
そうして到着した伯爵邸は、没落直前のハットネン男爵家の邸宅が納屋に思えるほど、立派な屋敷だった。
(す、すごい……! こんなところにお住まいなのね……! あ、でもどうやって入ればいいのかしら……)
思いつきでやってきたため、今の自分は質素なワンピース姿だ。
そもそもマリカにはきちんとしたドレスがほとんど与えられていないので、伯爵邸に入ることもできない。