3 勝手に傾く男爵家
マリカの予想どおり、しばらくの間男爵家はテラスト子爵家のティモをヴェルナの婿にする準備で忙しくなった。また王女ビルギッタに媚びへつらって甘い汁をすするのにも忙しいようで、マリカはいい意味で放置された。
……しかし、である。
「ビルギッタ様が失脚……!?」
突如もたらされた凶報に男爵家の三人は震えた。
もちろんその中にマリカは入っておらず、真っ青な顔でテーブルを囲む三人を少し離れたところから見守ることにしていた。
「ああ。……半年前に、シルヴェン伯爵がビルギッタ殿下を暴行したという事件があっただろう? あれは誤報で、伯爵は無実だったと証明されたそうなのだ」
城から届いたらしい書類を握りしめて、父はもう片方の手で拳を握ってテーブルに叩きつけた。
「ビルギッタ殿下は幽閉処分となってしまった……なんということだ……!」
「え、え? あの、あなた。それってつまり、どういうことですの?」
焦りつつも事情が飲み込めていない様子のハンネレの腕を、青い顔のヴェルナが掴んだ。
「わ、私、ビルギッタ様がいなくなったらどうすればいいの!? 私、シルヴェン伯爵家の適当な噂をでっち上げて流したりしていたのよ!」
「……陛下は、ビルギッタ殿下に同調していただけの我々に直接おとがめをなさるつもりはないようだ。だが、無実だった伯爵家を貶めたとして社交界で悪評を流されかねない……」
「そんなの嫌よ! あなた、どうにかしてよ!」
今になって事の重大さが分かったらしいハンネレが泣いて父に縋るが、父はテーブルに突っ伏してうめくだけだった。
(……自業自得、なのかしら?)
これ以上ここにいても収穫はなさそうだし、阿鼻叫喚の三人を鎮める役目は使用人たちに丸投げした方がいい。
八つ当たりされる前にとさっさと自室に戻ったマリカは、ベッドに腰掛けて深いため息をついた。
国王がビルギッタ派の貴族を見逃してくれたのは不幸中の幸いだろうが、父の言うとおりこれからハットネン男爵家は「王女に同調して無実のシルヴェン伯爵家を貶めた者」として後ろ指を指されていくだろう。
マリカはそっと、サイドテーブルの引き出しを開けて中から一通の手紙を出した。それは数ヶ月ほど前に、伯爵家の令嬢から届いたものだった。
父親の無罪を信じる伯爵家の姉弟は、自分たちにできることをしてきた。この手紙も伯爵令嬢リューディアから男爵邸に届いたものだが、父たちは一笑に付し、「伯爵家の名誉も地に落ちたものだ」と馬鹿にしていた。
……だがマリカは捨てられる前にこの手紙を回収し、こっそりリューディアに返事を送っていた。
自分は無力な男爵家の次女だから何もできないが、王女の証言を信じていない。あなたたちの名誉が回復することを願っている、と書いた。
マリカの状況を慮ったのかその手紙に対する返事はなかったが、あのとき自分を信じてリューディアに返事を書いてよかったと思えた。
(私だけ誹謗中傷から守ってもらう……なんてのはおこがましいし、私ごときの手紙なんてもうお忘れになっているだろうけれど)
それでも、正義に味方できたということだけでも、マリカは救われる気持ちだった。
ビルギッタ王女は処分を受けたのみならず、その後も執拗にリューディアを狙ったこともあり、とうとう彼女は僻地へ追放されることになった。
このことにより、セルミア王国の貴族の中での力関係が大きく変動した。
シルヴェン伯爵家は国王からも謝罪され、それを受けて伯爵たちが改めて国への忠誠を誓ったことにより、ほぼ無敵の存在となった。
かつて伯爵家を貶めた者たちは震えて過ごすか、もしくは手のひらを返して伯爵家にすり寄ろうとした。だが一度でも伯爵家をこき下ろした者たちが見逃されるはずもなく、社交界でも爪弾きにされているという。
そんな話題の一家である伯爵家に、是非お近づきになりたいと思う者も少なくなかった。
伯爵令嬢であるリューディアやその弟であるアスラクには婚約者がおらず、国王から信頼される伯爵家姉弟を手に入れようと企む者もいた。
だが姉のリューディアは何を思ったのか平民の魔術師とあっという間に婚約し、半年後の春には結婚して王都を去ってしまった。
どうやらその魔術師こそが伯爵家の汚名を返上するきっかけになった証言者らしく、身分の低い男といえどこれなら伯爵令嬢の心を掴むのも仕方ないことか、と言われていた。
……そうしてリューディアがいなくなった後で残っているのが、次期シルヴェン伯爵夫人の座である。
ビルギッタの事件から、ティモの実家であるテラスト子爵家とハットネン男爵家は仲よく落ちぶれた。
かつてはティモとの仲をマリカにアピールしてはいつもの「いいこと、マリカ?」で精神的にいじめてきたヴェルナも、あのラブラブっぷりは何だったのかと思えるほどティモとの仲が険悪になった末に、喧嘩別れ同然に婚約解消していた。
「あんな他責しかできない男、私の方から願い下げよ!」
「ええ、そうよ。ヴェルナにはもっと素敵な男性がぴったりよ」
「そうそう。……ヴェルナ、おまえはこんなに可愛らしいのだから、きっとシルヴェン伯爵令息の心も掴めるだろう」
数年前よりもものが少なくなったリビングでそんなことを話す家族三人を、相変わらずマリカは離れたところで見ていた。
かつては壁際に立ってうつむいて話を聞かされていたのだが、十八歳になった今では自室から椅子を持ってきて読書をする片暇に戯れ言を聞けるくらい、マリカも精神的に落ち着いてきていた。
「伯爵家は、我々のことを勘違いしているのだ。誤解さえ解ければヴェルナはきっと、アスラク・シルヴェン殿に見初めていただけるだろう」
「ええ、そうよ! ヴェルナ、自信を持ちなさい。根のない噂なんかに負けるのではありません」
どの口が言っているのか、とマリカはため息をつき、読んでいた本を閉じた。
その音が聞こえたのか、三人がさっとこちらを振り返った気配がする。
「……ちょうどいいわ、マリカ。おまえもヴェルナと一緒に社交界に行きなさい」
「え、嫌です」
「生意気なことを言うな! いいか、これからヴェルナは我が家の未来を賭けた戦いに挑む。おまえは姉の補助をするんだ」
「マリカは優しくていい子だから、側にいてくれたら私も心強いわ。……ねえ、マリカ。来てくれるわよね?」
義母、父、義姉に順に言われ、マリカのこめかみがひくっと動いた。
……ビルギッタ王女が追放された頃から、マリカはだんだんと「いいこと、マリカ?」の呪縛に立ち向かえるようになった。
今でもあの義姉の声や眼差しを前にすると一瞬身がこわばるが、それでも前のように唯々諾々と応じることはなくなった。
(……私がこっそり叔父様のところに働きに出ているなんて、この人たちは知るはずもないわよね)
マリカには、傾きかけた――どころか既に俯角四十五度くらいまで沈んでいる男爵家を支える気なんて、さらさらない。
マリカは家を出て母の生家に行き、そこで叔父たちの商売の手伝いをしている。経営もかなり上向きになったようで、「男爵家が嫌になったら、いつでもうちに来るといい」と言ってもらっている。
男爵家が完全に泥船となって沈むようなら、遠慮なくこんなところ出させてもらう。
……昔は母との思い出のあるこの家を離れたくなかったが、たとえ離れたとしてもきちんと胸の奥には母の優しい声や手のひらの温かさの感覚が残っているから大丈夫だ、と思えるようになった。
(とはいえ叔父様のところで働いていることがばれたら監禁されかねないし、今は従順なふりをしておくべきね……)
世間から白い目で見られる三人と違い、マリカは伯爵家の件に関与していないため、それほど風当たりが強くない。
そんな、これまで放置していた次女に頼ろうとしている魂胆が見え見えだが、恥ずかしくないのだろうか。
「……分かりました。でも私、何もしませんからね」
マリカは短く答え、なおもぎゃあぎゃあ言う家族たちに背を向けた。
読書の続きは自室でして……それから、空想の世界に浸りたいところだった。