渾名の意味
2022年11月1日に、角川ビーンズ文庫より書籍化します
ありがとうございます!
「そういえば、聞きたいことがあるのだけれど」
ある昼下がり。
婚約者の肩にもたれかかってのんびりとしていたリューディアがおもむろに言ったため、そわそわしながら彼女に肩を貸していたレジェスはぎょっとした。
「は、はい! 何なりとどうぞ! 年収ですか、靴のサイズですか、それともこれまでに倒した魔物の数ですか!?」
「魔物の数や靴のサイズについては、また今度教えてほしいわ。今回はそうじゃなくて……ほら、私たちが再会した日のことよ」
「はぁ……」
「あなた、自分のことを『闇ワカメ』とか何やらと言っていたじゃない。あれは何のことだったの?」
リューディアが杏色の目をこちらに向けて問うてくるので、その可憐さに昇天しそうになりながらもなんとか魂をこの世に留め、レジェスは低く笑った。
「ククク……そんなの文字の通りでしょう」
「なるほど、あなたはワカメが好きなのね! 分かったわ、今度新鮮なものを取り寄せて……」
「あ、いえ、そうじゃないので、わざわざ取り寄せなくて結構です。そうではなくて……私の髪がこんなぼさぼさでワカメのようだからです。それに闇属性の魔術師なので、合体して闇ワカメです」
「……ああ、そういうことだったのね」
ふむ、とリューディアは考え込んでいる。
伯爵令嬢として美しいものに囲まれて清く正しく生きてきた彼女は、あの「闇ワカメ」がレジェスに対する暴言だとは思っていなかったようで、少し複雑そうな表情だ。
「……ごめんなさい。そうとも知らず、こんなことを聞いて……」
「い、いえ、お気になさらず。あれは城の者が勝手に言い始めたことではありますが……私自身、自分を卑下するためにわざわざ言っているというのもありますから」
「そう……。あなたの髪はふわふわで柔らかそうで、とっても素敵なのに。……あなたにはもっと素敵な渾名が付いてほしいわ」
リューディアが悲しそうに目を伏せたので、レジェスはぶんぶん首を横に振る。
「滅相もございません! 私なんかは闇ワカメで十分です!」
「そうなの?」
「はい。ですからどうか、あなたがそんな悲しそうな顔をなさらないでください」
レジェスが懇願するように言うと、そこでやっとリューディアはこわばっていた表情を緩めてくれた。
「……あなたがそう言うのなら、分かったわ」
「……」
「……あ、そうだ。これを機に、お互い素敵な渾名を付けてみるのはどうかしら?」
「え?」
笑顔になったリューディアに提案されて、レジェスは裏返った声を上げてしまう。
「渾名……? お互い……?」
「ええ! 私があなたに付けるなら……そうね。『新月の救世主』なんてどうかしら?」
「な、なんですかそれは!?」
そういうのを言うのはリューディアではなくて、彼女の弟の仕事ではないのか。
だがリューディアは無邪気に笑っている。
「だってほら、あなたは私たちにとっての救世主だもの。それに、衣装もだけど髪が黒くて、新月の夜みたいでしょう。ちょっと格好良くない?」
楽しそうに言われるとついほだされてしまいそうになるが、レジェスはぷるぷる震えながら「それは……」と言葉を濁す。
「あの、そんな、恐れ多くて……その、私なんかにそんなたいそうな名前は……」
「もう、そんな真面目に受け取らないで。遊びだと思って付き合ってほしいの」
「あ、遊びですか……」
なるほど、これも貴族の言葉遊びの一種なのかもしれない、と思うとレジェスは一気に冷静になれた。こういう遊びをしたことはないが、リューディアと一緒にできるのなら大大大歓迎だ。
「かしこまりました。では、あなたの渾名ですが――」
レジェスは、考えた。
そして、すぐに思いついた。
『光の女神』
『春の妖精』
『慈愛の天使』
「……」
「……どう? 何かいいの、思いついた?」
「……。……いえ、全く」
我ながらロマンチックな渾名がたくさん思いついたが、残念なことにそれらを口にする勇気は出てこなかった。
そんなレジェスの胸中を察するべくもなく、レジェスにとって女神であり妖精であり天使でもあるリューディアはおっとりと笑う。
「あら、それじゃあまた今度になるかしら。あなたが私のことをどう思っているのか知りたいわね」
「えぅう……す、すみません。その……気の利いたことが言えなくて」
「ふふ、気にしないで」
口ごもってしまったがリューディアはとても幸せそうに笑ったので、まあこれでもいいかな、とレジェスは思った。
レジェスは、朝が嫌いだ。
元々夜行性で低血圧気味なのもあるが、自分の癖の強い髪はすぐに寝癖がつくので、朝になって鏡を見るたびにため息をついてしまうからだ。普段からワカメなのに朝はワカメパワーが増幅するのが、たまらなく憂鬱だった。
リューディアと渾名について語らった翌朝、レジェスはいつも通り起きて鏡の前に立ち、そこに映る自分の頭が見事に爆発しているのを見て苦々しい気持ちになった。
だが。
『あなたの髪はふわふわで柔らかそうで、とっても素敵なのに』
『「新月の救世主」なんてどうかしら?』
『衣装もだけど髪が黒くて、新月の夜みたいでしょう』
リューディアの優しい声が頭の中によみがえり、つい口元がだらしなく緩んでしまう。そうして改めて鏡を見ると……なんだかいつもよりは少しだけ、自分のこの頭が好きになれそうな気がしてきた。
「……私の、女神。私の、妖精。私の……天使」
まるで大切な大切な宝物を愛でているかのようにつぶやいて、レジェスは朝の仕度を始めたのだった。