闇魔術師は、お泊まりをする④
「お嬢様。ケトラ様が就寝前のご挨拶にいらっしゃいました」
「ええ、どうぞ」
リューディアの声がしたので、メイドがドアを開けて一歩下がった。
ごくっと唾を呑んでから、深呼吸。そして意を決してきりっとした顔でリューディアの部屋に入ったレジェスだが――
「ふふ。来てくれてありがとう」
そう言って鏡台前の椅子から立ち上がったリューディアは――寝間着姿だった。
セルミア王国の男性の寝間着はシャツとスラックスが基本だが、女性用にはいくつか種類がある。
中には動きやすさなどを優先させてワンピースタイプのものにする人もいるし、ドロワーズが少し長くなったようなものを穿く人もいる。
そして……リューディアは、ふんわりとした柔らかそうな素材のネグリジェ姿だった。
今は冬なのでさすがに生地に透け感はないが、普段着よりも襟ぐりの深い胸もとには可愛らしいリボンが飾られ、長袖の袖口や裾にはフリルがたっぷりついている。
派手すぎず甘すぎずきわどすぎない、清楚ささえ感じられる上品なネグリジェ。年頃の貴族令嬢の寝間着としては王道なものであるが、残念ながらレジェスには若干刺激が強かった。
いつもは結っている髪を下ろしルームシューズを履いただけで足首をさらしているのも、実にけしからんとレジェスには感じられた。
婚約者の愛らしい姿にレジェスは数秒固まり――いつの間にか目の前までリューディアが迫ってきたため、「ひゃんっ!?」と悲鳴を上げた。
「りゅ、りゅ、ディア!? ああああの、この、格好は……!?」
「可愛いでしょう?」
「可愛いです!」
腹の底から声を出してから、レジェスは咳払いをした。
「い、いえ、その、可愛らしいのは確かですが……ええと、これでは寝間着として少々心許ない気がします」
「あら、これって案外温かいのよ? レジェスこそ、部屋は寒くない? ゆっくり寝られそう?」
「あ、はい。何から何までしていただき、感謝します」
「ふふ、よかったわ」
小さく笑った後、リューディアはそっと手を伸ばしてレジェスのシャツに触れてきた。
どくん、と心臓が跳ねる。
「レジェス……あなたからもらいたいもの、覚えている?」
「お、覚えていますとも!」
んんっと喉を鳴らしてから、レジェスはリューディアの肩を掴んで顔を近づけた。
……ふわり、と漂うのは甘い石けんの香り。レジェスがアスラクから借りた石けんよりも華やかで愛らしい匂いがして――くらくらしそうになる。
だがそんな醜い心は必死に押しとどめ、レジェスはあくまでも紳士的にリューディアの唇にキスをしてから、洗い立てでつややかな髪を撫でた。
「……おやすみなさい、リューディア」
「ええ、おやすみ、レジェス。夢の中でも、あなたに会えますように」
「……ええ。それから……明日もこうして、あなたに口づけられますように」
思い切ってレジェスが言うと、リューディアは不意を受けたように息を呑んで、ほんのり頬を赤らめたのだった。
……レジェスは、あまり朝に強くない。
どちらかというと夜更かし朝寝坊が好きなので、いつもだるだるな気持ちで起きて仕事の準備をするのだが――今日の彼は一日の休みを取っている。
伯爵家のふんわりベッドは寝心地が最高で、夜はすこんと眠りに落ちて朝はさっと目覚められた。これほどまですがすがしい気持ちで目覚めたのは、人生で初めてかもしれない。
……もしかするとリューディアと結婚してからは毎朝こんな感じで目覚められ、朝が好きになれるかもしれない。
そんなことを考えながらシャツを脱いでいたら、ドアがノックされた。
「失礼します、ケトラ様。……お嬢様がもうすぐお目覚めになります」
女性の声がしたのでドアを開けると、昨夜と同じ若いメイドがそこにいた。
「あ、どうも。おは――」
「お待ちください」
メイドはピシッとレジェスを止めて、きょとんとする彼にほんのり笑みを向けた。
「……昨夜、お嬢様からお願いをされまして。お嬢様は誰よりも最初にケトラ様に朝の挨拶をして、同じくケトラ様からの挨拶もご自分が一番に聞きたいと仰せです」
「……っ」
「ご準備ができましたら、お呼びください」
「……は、はい。すぐに仕度します!」
言ったとおりレジェスはかつてないほどの速度で着替えて髪も整え、メイドを伴ってリューディアの部屋に向かった。
「失礼します、お嬢様」
先にメイドがドアをノックして、部屋に入っていった。
普通なら、「おはようございます」と言うべきだろうが……リューディアのお願いを叶えるためにあえて言わないようにしているのだ。
しばらくすると、昨日と同じネグリジェを少しだけ乱したリューディアが小走りにやって来た。
……春に結婚をすれば、朝起きて一番にこのしどけない愛らしいリューディアを見ることができるのだろう。
リューディアはそわそわと長い髪をてでくしけずり、照れたように微笑んだ。
「レジェス……」
「リューディア」
レジェスが腕を広げると、ぽすん、とリューディアがそこに収まった。
重ねた唇は少しだけ乾いていたが、昨夜よりも濃いリューディアの香りがした。
「おはようございます、リューディア」
「おはよう、レジェス」
今日という日になって初めての挨拶をお互いに贈り、二人は顔を見合わせてクスッと笑った。
「……知らなかったわ。あなた、髭が生えるのね」
「えっ!? あ、す、すみません! 整えたつもりだったのですが……当たりましたか!?」
「ええ、ちょっとだけじょりっとしたわ。……これまでの私が知らなかったあなたが見られて、嬉しい」
リューディアはうっとりと目を細めてそう言い、レジェスの頬に指を滑らせた。息を呑みつつも、レジェスも負けじとリューディアの髪を指先で摘まんだ。
「……わ、私も知らなかったです。ここに……寝癖ができているなんて」
「あ、あらやだ! そんなところにあったの!?」
「ええ。……結婚したら、これまでは知らなかったあなたの顔を……もっと見せてください」
レジェスが熱っぽく言うと、そわそわしていたリューディアは動きを止めて潤む杏色の目で見つめてきた。
「……ええ。たくさん、見て。同時に……あなたのいろいろな顔も、私に見せてくれる?」
「……他でもない、あなたのためなら」
「……ありがとう」
もう一度、唇が重なった。
二人が式を挙げて夫婦になるまで――あと少し。