伯爵令嬢は、新居の準備をする②
領民たちへの挨拶を終えてから、リューディアたちは屋敷に向かった。
ここにリューディアは大人になってからはあまり来なくなったが、アスラクはたまにふらっと顔を出しては泊まっていたようだ。
門の前に立ったレジェスが、しげしげと屋敷の外観を眺めた。
「……当時は雨の中でしたし去るときもじっくり見なかったのですが……こういう屋敷だったのですね」
「ええ。お祖父様の代に建てられたから、あまり新しいものではないけれど……こぢんまりとしていて、とても住みやすい場所なのよ」
「……。……ええ。私も……この場所が、好きになれそうです」
普段はあまり使わない屋敷だが、使用人たちはまめに掃除をしてくれている。
それにこれからリューディアとレジェスが住む可能性が高いということで、父が使用人を新しく採用してくれることになっていた。ひとまず現在は、普段伯爵邸にいる使用人たちを連れてきている。
だが彼らには掃除や食事の仕度だけ任せ、部屋案内は幼少期にここで過ごしていたリューディア自らが買って出た。
「本当に、懐かしいわ……あっ、見て、ここ!」
「これは……壁紙が少し剥がれていますね」
廊下の真ん中でリューディアがしゃがむと、レジェスも腰をかがめて視線を低くしてくれた。
リューディアが示す先の壁は少しへこんでおり、壁紙も一部剥がれていた。
「ここね、私が八歳くらいの頃にモップをぶつけてしまったの。お父様に、『ここだけは壁紙を張り替えないから、反省しなさい!』って叱られて……それでずっと残っているの」
「なるほど。……ククク。どうやら幼い頃のあなたは、とてもおてんばだったようですね」
「そ、それは……まあ、人並みくらいよ!」
「どうでしょうか? ……そういえば私も何度か、あなたに杖で叩かれたことがあるような……」
「あれは、あなたがいきなり闇魔術で足首を掴んできたからでしょう!」
クツクツと笑うレジェスに言い返し、立ち上がったリューディアはくいっとレジェスのジャケットの袖を掴んだ。
「……あのときは怒ってしまったけれど、今は触っても怒らないわよ」
「……えっ……え?」
「足首のこと。……ふふ、でも今考えれば、当時の私は未来の旦那様に足首を掴まれていたことになるのね」
そう言ってリューディアが自分の右足を軽く持ち上げると、その意味を察したらしいレジェスの頬がほんのり赤くなった。
「え、い、いえ、その……本当に、当時の私はそんなこと、何も考えておらず……」
「ふふ、分かっているわよ。……ちなみにあなたのこれまでの人生で、足首を掴んだことのある女性は私だけ?」
「はい! 過去も未来も、私が掴む足首はあなたのだけです!」
「ありがとう。……私も、あなた以外の男性に触れられたことはないし……これからもあなただけ、だからね?」
微笑んでそう言うと、レジェスは「みゃっ……」と小さな悲鳴を上げていうつむいてしまった。右手で顔を覆っているが、隠しきれなかった真っ赤な耳の端が見えている。
「……レジェス、可愛いわね」
「なっ!? そんな、何を……!?」
「うふふ。それじゃあ、部屋を見ていきましょうか」
ドレスの裾を翻してリューディアが歩き出すと、レジェスは「待ってください!」と小走りで追いかけてきた。
屋敷は二階建てで、一階には使用人の部屋や食堂、居間などがあり、個人用の部屋は二階にあった。
「まずは、私たちの寝室だけど……やっぱり、一番広い部屋がいいかしら」
「私……たちの、寝室……?」
「えっ? 結婚したら一緒に寝るでしょう?」
鍵束を手にしたリューディアが言うと、レジェスはぷるっと震えた。
「あ、そ、そうですね……私たちが、一緒に……ええ……んぐっ……」
「ああ、もちろん嫌だったら別の部屋にしましょう」
「嫌ではありません!」
「そう、よかった。それなら、大きめのベッドが置ける部屋がいいわよね」
そうしてリューディアがまず開けたのは、二階の中で一番広い部屋。
ここは元々伯爵夫妻である両親用だが、二人がこの屋敷に泊まることはあまりないのでキングサイズのベッドにはシーツなどは敷かれていない。
大きなベッドを置いても十分広さに余裕があるし、南向きの大きな窓があるので日当たりも一番よさそうだ。
「一番の候補は、ここかしら。ここなら他にも家具を置けるし、いろいろアレンジできそうだわ」
「……そうですね」
「レジェスはどう?」
リューディアが尋ねると、寝室内を歩いていたレジェスは足を止めた。
「……。……その。できれば、ですが。私が七年前に使っていた部屋、あれを見てもいいですか?」
「えっ? ええ、いいわ。こっちよ」
寝室のドアは開けたままにしておいて、リューディアは鍵を繰りながら廊下を歩いた。
(……そう。七年前も私は、レジェスの部屋に通うためにここを通ったわ)
レジェスを寝かせたのは、二階の端にある部屋。
リューディアが鍵穴に鍵を差し込んでドアノブを回す動作を、レジェスはじっと見つめていた。
少しきしんだ音を立てて、ドアが開いた。
(……ああ、懐かしいわ)
目を細めて、リューディアはあまり広くない部屋を見回した。
長方形の部屋の奥にある、一人用のベッド。
あそこにレジェスが寝ていて、リューディアは彼に怪訝な顔をされながらも食事を持ってきたり、衣類を運んだりしたものだ。
リューディアに続いて部屋に入ってきたレジェスも、きょろきょろと辺りを見回した。
「……この部屋、でしたか」
「ええ。あそこにあなたが寝ていて……窓辺に、小鳥が来たことがあるわ」
「ええ、覚えております。あなたを怖がらせようと闇魔術で取り込んだら……泣かれましたね」
「そうだったわね。……それから、あのあたりだったかしら。私が朝食の載ったトレイを倒してしまったのは」
「もう少し右ですね。……それから、あなたが私用の着替えを置いたのは、そこのテーブルで」
「ええ。あなたのローブを洗って干したものは、そこのクローゼットに入れておいて……」
穏やかな声で、リューディアとレジェスは七年前の思い出を辿る。
狭い部屋で、しかも過ごしたのは一日と少しという短い時間。
だがあの日はリューディアにとってもレジェスにとっても忘れられない時間になり――そして、こうして二人を結びつけることに繋がった。
思い出話をしながら部屋を歩き、最後に二人はマットレスだけのベッドに腰を下ろした。
「……このベッド、今のあなたには小さいわね」
「ですね。身長だけは無駄に伸びたので、これでは足が出てしまいそうです」
「昔もこうやって、あなたは腰掛けていたわね」
「ええ。当時のあなたは、このあたりに椅子を置いて話していましたが。今は、隣に……」
そこでレジェスは口を閉ざし、何やら考え込み始めた。
隣でその横顔を見ながらリューディアが待っていると、やがてレジェスはおずおずと口を開いた。
「そ、その、リューディア。一つ……提案なのですが」
「ええ、どうぞ」
「この部屋を……私たちの寝室にしませんか」
思い切った様子で言うレジェスを、リューディアは目を細めて見つめた。
……ふわり、と胸の奥から温かなものがあふれる。
「……ここがいいのね?」
「いえ、その……でもここは、暗いですし、狭いですし。あの、先ほど見た大きな部屋の方が、ゆったりできますし……」
「いいえ、ここにしましょう。……他でもない、あなたが選んだ部屋だもの」
ここはあくまでも一人部屋なので、二人用のベッドを置くのには少し狭いかもしれない。
だが……レジェスが提案した場所であり、七年前に二人が心を交わした場所であるここで眠れるというのは、リューディアにとっても素敵なことだった。
レジェスはぎょろっとした目をリューディアに向けて、膝の上で拳を固めた。
「……よろしいのですか?」
「ええ。……ここで、一緒に眠りましょう。一緒に夢を見て、一緒に朝を迎えましょう」
「リューディア……」
しばし見つめ合った後、そっとレジェスの手がリューディアの手を握ってきた。
骨張った手には手袋をはめておらず、ごつごつとした手のひらの感覚が直に感じられて多幸感で胸がいっぱいになる。
「……ありがとうございます。でも……そうすると、あの立派な大部屋が余ってしまいますね」
「あら、いくらでも有効活用できるでしょう?」
レジェスの手をぎゅっと握り、リューディアは婚約者の顔を見上げて微笑んだ。
「たとえば……そうね。子どもが生まれたら、あそこを遊び場にするとか?」
「……。……う、ん?」
「ええ、それがいいわ! あそこなら日当たりもいいし、たくさんおもちゃを置けそうだわ! 少し大きくなったら、皆でお茶をする部屋に変えてもいいわね」
「……え、あ、は、はぁ、そう、ですね……?」
リューディアの勢いに呑まれている様子のレジェスだったが、彼はふと、自分が座っているのがベッドだと再認識したのかぴゃっと悲鳴を上げて飛び上がった。
「あ、そ、その、リューディア……」
「……そういう未来を、ちょっとずつ考えていきたいわ。あなたと一緒に」
リューディアも立ち上がって言うと、最初はあわあわしていたレジェスもしばらくして大人しくなり、やがてこっくりと頷いた。
「……は、はい。あの……リューディア」
「ええ」
「私も……考えたいです。あなたと……それから、場合によっては、その……子どもたちと過ごす未来のことも」
「……レジェス……!」
いつもどこか悲観的な婚約者からそんな言葉をもらえたのが嬉しくて、リューディアはぎゅっとレジェスに抱きついた。
案の定彼はがちっと固まり、「あ」「え」「お」と意味をなさない言葉が唇から漏れた。
「……ありがとう、レジェス」
「え、は、い。どういたし、まして……?」
「この屋敷でたくさん、思い出を作りましょうね」
そう言ってリューディアがジャケットの胸もとに頬を寄せると、ふ、と柔らかい息を吐き出したレジェスの片手がリューディアの腰を抱き、もう片方の手が優しく髪を撫でてくれた。