伯爵令嬢は、婚約者とキスがしたい④
馬車が伯爵邸に着き、リューディアたちは地面に下りた。
この頃になるとレジェスも大分持ち直したようで、まだ少々視線はさまよっているがかなりいつも通りになっていた。
「今日は一緒にお芝居を観に行けてよかったわ。ありがとう、レジェス」
「ククク……私も、自分一人では劇を見に行こうなんて発想にもならなかったので、新鮮な体験ができました。こちらこそ、ありがとうございます」
「ふふ、それならよかったわ。それじゃあ……」
「……リューディア」
レジェスの精神状態のためにも、今日はさっさと解散するべきだろう――と思いきや、真面目な声で名を呼ばれた。
レジェスはいつものクツクツ笑いをやめ、じっとリューディアを見てきていた。
「……もう少しだけ、時間をもらえませんか」
「……ええ、もちろんよ」
「ありがとうございます」
二人で少し歩きたいと言うので、リューディアはレジェスを伯爵邸の中庭に誘った。夜なのであたりは薄暗いが、自分の家の一部のようなものなので歩いていても躓くことなどはない。
何か話でもするのかと思いきや、レジェスは黙ったままさくさくと足を進めていた。りり、とどこかで虫が鳴く音が聞こえる中、二人は特に会話もなく中庭を歩く。
「……その、リューディア」
「はい」
「……。……先ほどは本当に、失礼しました」
切り出したレジェスが頭を下げたので、リューディアは首を横に振った。
「あなたが謝ることではないわ。私も……もっといい場所でお願いをすればよかったのだし」
「あなたの責任ではありません。ですが……」
「……」
「……よろしかったら、もう一度だけ機会をくれませんか? ここなら……足下が揺れることもありませんし」
「レジェス……」
夜風に黒髪を遊ばせながらこちらを見るレジェスは、顔はほんのり赤いが真剣な眼差しをしている。
ファーストキス失敗というのは、彼にとってかなりのショックだったようだが……それでも彼は、リューディアにキスをしたいと思ってくれている。
「……一度、なんてことはないわ。何度でも、あなたにキスをしてもらいたい」
「……」
レジェスは恥じらうようにきゅっと唇を引き結んだ後、一歩リューディアに近づいた。
リューディアも歩み寄って腕を伸ばし、レジェスの薄い胸板にそっと手を添えた。
今度は彼に何も言われずとも、目を閉じた。レジェスの右手がリューディアの腰を、左手が頬骨のあたりを支え、ぐいっと抱き寄せられる。
「リューディア……」
「……レジェス」
「……愛しています」
かすれた声でささやいた後、二人の唇が重なった。
初めて触れるレジェスの唇は、リューディアのそれとは厚みが全然違った。
薄っぺらくて、冷たい。小説に書かれていた「甘くてとろけるような味」というのも、特にはしない。
だが、リューディアにとって初めて与えられたその感触は……限りなく、愛おしかった。
ただ押しつけるだけで芸のない動作ではあるけれど、恥ずかしがり屋なレジェスが自分からしてくれたファーストキスの感触はきっと、一生忘れられないだろう。
唇が触れあっていたのは時間にして五秒程度で、すぐにレジェスは顔を離してしまった。
まぶたを開くと、全力疾走した後かのようにゼイゼイ息をつきながら赤い顔でこちらを見つめるレジェスが。
「レジェス……ありがとう」
「……すみません、もっと、上手にできればよかったのですが……」
「上手下手なんて関係ないし……正直、私にはその差が分からないわ。だって、こういうことをするのは初めてで……これから先も、あなただけだから」
「っ……!」
「あなたがしてくれたことに、意味があるの。だから……とっても嬉しい」
そう言ってレジェスの胸に頬ずりすると、彼はゴクッと唾を呑んでからおずおずとリューディアの背中に手を回した。
「リューディア……」
「……私も、あなたを愛しているわ。ずっと、あなただけを」
「くっ……。……いいのですか、そんな……だけ、なんて言葉を使って」
「ええ。キスをしてほしいのも、愛していると言ってほしいのも、愛していると言いたいのも……あなただけだから」
「リューディ、ア……」
「……ねぇ、レジェス。おやすみなさいの前に……もう一回だけ、いい?」
顔を上げたリューディアがおねだりをすると、レジェスは「ぬぐっ」と喉に何か詰まったかのような悲鳴を上げた後、ニヤリと笑った。
「ククク……あなたはなんとも、慎ましいですね」
「そう?」
「そうです。……今日という日がお互いにとって忘れられないものになるよう、あなたに口づけという呪いを贈りましょう。……一度と言わず、何度でも」
先ほど自分が発した言葉を返され、リューディアはにっこりと笑った。
「ええ。あなたに呪ってもらえるのなら……幸せよ」
「……。……本当に、あなたは……」
「何?」
「何でも。……さあ、いい子だから目を閉じてください」
「私が悪い子になったら、目を開けたままでもしてくれる?」
「そ、それはまた、後日ということで!」
リューディアはクスクス笑い、目を閉じた。
レジェスが施してくれた幸せな呪いはきっと、一生解けることはない。
リューディアの体はきっとこれから先、何度も彼に幸福な呪いを掛けられ――幸せを積み重ねていくのだろうから。
ファーストキスおめでとう