伯爵令嬢は、婚約者とキスがしたい③
伯爵令嬢、色気で迫る。
上演時間は二時間ほどで、拍手喝采の中で幕が閉じられた。
(はあぁ……久しぶりのお芝居だけれど、すっごく素敵だったわ……!)
劇の途中から握りしめていたハンカチでこっそり目元を拭うリューディアは、感動で胸がいっぱいだった。
今回の演目は、二百年ほど前の実話をもとにした恋愛ものだった。身分違いの恋に悩む王子と女性魔術師が、一度は引き離されながらも最後には結ばれるという王道物語である。
ただ、このストーリーのモデルになった王子と魔術師は半ば駆け落ちだったそうだが、彼らが皆に認められて幸福な結婚ができていれば……という願いを込めてこの台本が作られたのだと、最後の挨拶のときに劇団長が語っていた。
(……あっ! レジェスはどうかしら……?)
劇にのめり込んでいて、レジェスの様子を見るのを怠っていた。
そうっと横目で見ると……レジェスはリューディアほど感動していないようで半目になっているが、眠いというより何やら考え込んでいる様子だった。
「素敵なお芝居だったわね。レジェスはどうだった?」
「ふむ……そうですね。恋愛話としての出来は……私はその方面に疎いのでなんとも申せませんが、あの史実から、いかにすれば主役二人が幸福になれたのかということについて熟考を重ねられたのだろうということがよく分かる脚本だったと感心しております」
どうやらレジェスは、リューディアとは全く違う観点で劇を見ていたようだ。
リューディアがまじまじと見つめていると、彼ははっとした様子で目を瞬かせた。
「……あ、す、すみません。あなたが望んでいるのは、こういう感想ではないですよね……」
「いえ、むしろ私ではそこまで考察できなかったから、感心してしまったわ」
レジェスはどちらかというと研究者肌なので、リューディアとは見方考え方が違うというのがまた斬新だ。
(……それはいいけれど、恋愛ストーリーとして楽しめたわけではないみたいね……)
となると、先日子爵夫人が語っていたような「劇の感想で盛り上がって、馬車でファーストキス」という展開に持ち込むのは難しいかもしれない。
(……というか、私の方から何か動かないといけないわよね)
チケットを取るのも馬車を呼ぶのもレジェスに頼りっぱなしで、リューディアからは動いていない。
レジェスは元々恋愛のあれこれには疎いようだし、彼にあまりにも頼りすぎるのはフェアとは言えないだろう。
(こ、ここは思い切ってみるべきかしら……?)
そんなことを考えながら会場を出て、迎えの馬車に乗った。
帰宅する人で道がごった返す中、ヒールのある靴を履いたリューディアが転ばないように手を貸し、歩調をそろえてゆっくり歩いてくれるレジェスはやはりとても素敵だと思えた。
二人で馬車に乗り、レジェスがシルヴェン伯爵邸に向かうよう御者に指示を出した。
馬車が動き出した。車内は暖かいので、リューディアがショールを一旦外すと――ちらっとこちらを見たレジェスがほんのり頬を赤らめたのが分かった。
「……そ、その、リューディア。いくら衆目がない場所とはいえ、あまり無防備な格好をするのは褒められたものではありませんよ」
「無防備って……ショールを脱いだだけでしょう?」
確かにショールを外せば慎ましめの胸もとが見えるだろうが、はしたないほど露出があるわけではない。これくらいの女性ならパーティーに行けばいくらでも目にする。
だが、貴族のパーティーとは縁のない生活を送ってきたからかレジェスはそのあたりに関して硬派らしく、目尻をつり上げた。
「だけ、ではありません。……あなたは、その……ご自分が魅力的であることを、もっと理解するべきです」
「うーん……でもそうだとしても、ここにいるのはレジェスだけじゃない」
言い返したところで、ふと、リューディアは出発前に伯爵邸の玄関で行ったやり取りを思い出した。
(……よし、ここで押してみましょう!)
意気込んだリューディアはショールを畳んでそばに置き、ずいっとレジェスの方に身を寄せた。
「ねぇ、レジェス。私……言ったわよね? このドレスで誘惑したいのは、あなただけだって」
「えっ!? あ、はい……おっしゃい……ましたね……」
「今晩、一緒に過ごして……私に誘惑されてくれた?」
「……! ……っ!?」
馬車の座席に両手を突いて猫が伸びをするような格好でレジェスを見上げながら言うと、彼はぎょっと目を見開いて唇を震わせた。
薄暗い馬車の中でも、彼の頬が急激な速度で赤くなっていく様がよく見えた。
「リュッ……リューディア! そ、そのようなことをおっしゃっては……」
「だめ? ……こんなことを言うのも、あなただけなのよ?」
「で、え……う、んん……!?」
「……レジェス。この前……私がおねだりした三つ目のお願い、叶えてくれる?」
意味不明な音節を漏らすだけだったレジェスはリューディアの言葉の意味を理解したようで、「はぐっ!?」と悲鳴を上げて後じさった――が、狭い車内なのですぐに背中が壁にぶつかった。
「お、おねだり……え、ええと……く、口づけでしたっけ……?」
「そう、それ」
「い、今、ですか……!?」
「いつでもいいけれど……今、してほしいなぁって思って」
「っ……くっ……!」
レジェスは両手で顔を覆ってしばらくうめき声を上げた後、しんと静かになった。
馬車に揺られながら待つことしばらく、ククク、という笑い声が聞こえてきた。
「クク……そうですか、そうですか。私は……一生懸命おねだりをしてくれた婚約者の気持ちなんて何一つ、分かっていなかったということですね」
「今分かってくれたなら十分嬉しいわ」
「うっ……。……その……」
「……」
「……。……目を……閉じてくれませんか……?」
おずおずと言われ、ピンときたリューディアは嬉しさで身もだえしそうになりながらも、大人しく目を閉じてほんの少しだけ唇も突き出した。
(わ、わぁ……! キス、キスしてもらえるわ……!)
「リューディア……」
緊張とときめきと歓喜でどきどきと激しく胸を鳴らせるリューディアの肩に、骨張った手が乗った。震える吐息が頬をくすぐったため、レジェスが顔を近づけていることが分かる。
……今、ものすごく、目を開けたい。レジェスの顔を見たい。
だがそれをすればレジェスを泣かせそうなので堪え、彼の唇が触れてくるのを辛抱強く待つことにした。
この体勢になってもレジェスはかなり迷っているようだったが、やがて意を決したらしく、ぐいっと肩を引き寄せられ――
がこん
「きゃっ!?」
「ぶっ!?」
小石に乗り上げたのか馬車が揺れて、レジェスの鼻がぐにゃっとリューディアの額にぶつかる感触がした。
すぐさま目を開けるとそこには、両手で鼻を覆うレジェスが。
彼は最初、何が起きたのか分かっていなかったようでぽかんとしていたが――やがて体が揺れ、ぐてん、と座席の背もたれに倒れ込んだ。
「レ、レジェス!? 大丈夫!?」
「……。……すみません」
「あ、あの、謝ることは……」
「すみません……本当に……私は……だめな男です……ククク……焼こうと茹でようと、所詮はワカメ……陸に上がるのには、早すぎたのです……ククク……」
「な、何を言っているのかよく分からないけれど、私は何も気にしていないわ!」
「ククク……あなたは、いつもお優しい……本当に……ククク、ク……」
結局、馬車が伯爵邸に到着するまでレジェスは意味不明な言葉を言いながらクツクツ笑うだけだったので、リューディアは彼が落ち着くまで背中をよしよしと撫でることにしたのだった。
御者「大変失礼しました」




