伯爵令嬢は、婚約者とキスがしたい①
本編終了後、婚約者にキスしてもらいたくて作戦を練る伯爵令嬢のお話。
シルヴェン伯爵令嬢・リューディアには悩みがあった。
(うーん……あれからまだ、キスできそうな雰囲気にならないわね……)
先日、リューディアは婚約者のレジェスにおねだりをして、「リューディア」と呼び捨てにしてもらうことと素肌で触れあうことの二つのお願いを叶えてもらった。
恥ずかしがり屋なレジェスが頑張って叶えてくれたのがとても嬉しかったのだが――三つ目のお願いである「キスがしたい」についてはあれ以降、進展が見られなかった。
無論、暇人のリューディアと違って仕事をしているレジェスは多忙なので、そんな暇はないというのが一番の理由だろう。実際、あれから彼はかなり面倒くさい仕事が入ったようだった。
……ということで、リューディアは「婚約者とキスがしたいのだけれど、どうすればいいだろうか」という悩みについて、知識人に相談してみることにした。
今回相談相手に選んだのは、リューディアと同い年で二ヶ月前に結婚したばかりの子爵夫人だ。
彼女は辺境伯の姪で、リューディアの令嬢仲間だった。
彼女の伯父である辺境伯はシルヴェン伯爵家が窮地に陥った際も密かに支援をしてくれて、今でも家族ぐるみで懇意にしている。辺境伯家の子息とリューディアの弟も同い年で、二人は同時期に騎士団に入ることになっていた。
「婚約者と、キスがしたい……?」
伯爵邸の庭で茶会を開いた際、リューディアの相談内容を聞いた子爵夫人は首をかしげた。
「あなたって確か、魔術師団の将来有望株と婚約したのよね? まだ、キスをしていなかったのね」
「そうなの。彼、とても慎ましいから」
レジェス本人は「私は卑屈なだけですよ……ククク」と言うのだが、リューディアからすると「照れている」ようなものだった。
子爵夫人は「そうねぇ」とお茶を飲みながら考え込んだ後、しばらくして顔を上げた。
「私の場合の話も、交えていいかしら?」
「ええ、もちろんよ!」
リューディアが身を乗り出すと、子爵夫人はスコーンを手で小さくちぎりながら話し始めた。
「私の夫も、あまり積極的なタイプではなくてね。……どうやら辺境伯の姪である私の方が立場が上だからと、恐縮してしまっていたそうなのよ」
「でも、子爵家子息と辺境伯家の姪ならそれほど身分差はないでしょう?」
「ええ。でも伯父様って結構財産があるし、騎士団にも顔が利くわ。だから夫は、辺境伯の姪御にベタベタ触れるなんてとんでもない……みたいなことを考えていたそうよ」
(それは……私たちにも似通ったところがあるわね)
伯爵家の娘と平民階級の魔術師ではまた違うところもあるが、男性側が女性側に対して必要以上に遠慮しているという点では同じだろう。
「どうすればいいかしら、と思っていたところに、伯父様の招待で観劇に行くことになったの。ほら、エンシャルン歌劇団、知っている?」
「知っているわ! 昔、家族で観に行ったわ!」
エンシャルン歌劇団といえば、セルミア王国で人気トップを争う歌劇団だ。
歌劇団は数多くあるが、エンシャルン歌劇団が人気を誇る理由の一つは、貴族と平民それぞれで席を分けていることだ。つまり、貴族しか観られないということがなく、幅広い階級層の者がまんべんなく観る機会を与えられる。
「そこに、夫と一緒に行ってね。当日は悲恋ものを上演していたのだけれど……そのキスシーンが切なくて美しくて、本当に素敵で。終わった後に馬車であれこれ感想を言い合っていたら……珍しく夫が、真剣な顔で考え込んで」
「ええ」
「それで、言ったの。『僕はあのヒーローのように、恋人とのキスが満足にできなかったことを後悔したまま死にたくない』って」
「まあ!」
「それで……まあ、そういう雰囲気になってファーストキスに至ったということよ」
「素敵!」
思わず歓声を上げると、子爵夫人は嬉しそうに微笑んだ。
「私も嬉しかったわ。今では、あのとき一緒に観劇に行ってよかったね、って言っているのよ」
「そうなのね。……ええと、それじゃあ私たちも、お芝居とかを観てそういう雰囲気になったら、キスができるかもしれない……?」
「十分いけると思うわ。ちなみにあなたの婚約者は、観劇とかに興味がありそう?」
すっかり調子づいていたリューディアだが、子爵夫人の質問にはたと動きを止めた。
(レジェスが、観劇を好きかどうか……?)
考えて、気づいた。
リューディアはレジェスの趣味も好きなことも、何も知らないのだと。
「わ、分からないわ……あの、わりと仕事人間な人で……」
「あらそうなの? それじゃあ、いい機会だし仕事の疲れを癒やすという名目で誘ってみれば?」
「……え、ええと」
レジェスが観劇に興味があるかどうかは、分からない。
だが……なんとなくだが、彼はあまり芸術全般に興味がないような気がした。というより、娯楽というものに関心がないかもしれない。
(私が誘ったら来てくれるかもしれないけれど……嫌々だったら申し訳ないわ……)
考え込むリューディアに、子爵夫人はにっこり笑いかけた。
「やってみないと分からないわよ? 案外彼も、これで観劇の面白さに気づくかもしれないし」
「そう……ね」
確かに、これでレジェスが観劇に関心を持てば、結婚してからもたびたびデートで芝居を見に行く……ということもできそうだ。
(そうよね。やってみないと分からないし……聞いてみよう!)
ということで、リューディアは数日後の夜にレジェスが来たときに思い切って尋ねてみた。
「レジェス、あなたってお芝居に興味はある?」
「お芝居? ……いえ、観たこともないし関心も特には――」
伯爵邸の居間でお茶を飲んでいたレジェスは最初怪訝そうな顔をした――が、言葉の途中で黙った。
彼はしばしその場で固まった後、ぱっと顔を上げた。
「いえ、とても興味があります!」
「ええと……無理はしなくていいからね?」
間違いなく、「リューディアが芝居について尋ねる」イコール「リューディアが芝居に行きたがっている」と頭の中で結びつけ、意見を変えたのだろう。
だがレジェスはクククと笑ってカップを下ろした。
「私はいつも、自分の気の向くままに行動しております。ゆえに、無理なんてしておりませんとも」
「それならいいのだけれど。……実はね、あなたと一緒に一度、エンシャルン歌劇団のお芝居を観たくて」
「もう一度言ってくれませんか」
「エンシャルン歌劇団」
「確かに記憶しました。……分かりました。では、あなたに最高の席をご準備いたしましょう!」
すっかり勢いづいたレジェスに、リューディアの方が慌てた。
「あの、そこまで張り切らなくていいわ。隅っこ席でもいいし……なんなら私の方で予約をするから」
「いいえ、あなたは心穏やかに待っていてください。必ずや、朗報をお持ちしましょう……ククク……」
そう言うレジェスは、本当に無理をしているわけではなくて心底楽しそうに笑っている。
それならばまあいいか、とリューディアは観劇についてはレジェスに任せることにした。