伯爵令嬢は、婚約者におねだりしたい②
「そういえば先ほど、あなたはいくつか悩みがあるとおっしゃいましたね」
「ええ。……でも呼び捨てにしてくれただけで十分嬉しいし、一度にたくさん言うのははばかられるわ」
「私は苦手な食材は先に食べる方なので、ひと思いに言ってしまってください」
その理屈はよく分からないが、レジェスの方の意志が強いようなのでお言葉に甘えることにした。
「それじゃあ、二つ目だけれど。……あなたはいつも、手袋をしているわよね」
「ええ、まあ。これも魔術師団の制服の一部なので」
それはリューディアも知っている。
魔術師団では属性ごとに色が違うローブを着ているが、白い手袋も標準装備だった。今日の彼は屋敷に来たときは白手袋を嵌めていたが、茶を飲むことになったので今は外してポケットに入れている。
伯爵家自慢の美しい花柄のティーカップを摘まむレジェスの手は、ごつごつしている。肉が薄いので血管が浮き出ており、指も節ばかりが目立っていた。
だが、この手が闇魔術を操り仕事をして――そしてリューディアの手を取ってくれるのだ。リューディアの手を取るときの彼の手つきはとても優しいので、彼女はレジェスのこの手が大好きだった。
……大好きだからこそ、直接触れたい。
「……私、あなたの肌に直接触れたい」
「……」
「手もそうだし……できれば、頬とかにも触れたいわ」
「……。……それは」
さしものレジェスも、言いよどんだ。カップを下ろし、申し訳なさそうにうつむいている。
「……難しいかしら」
「……。……嫌なわけでは、ないのです」
レジェスは首を振り、自分の両手のひらを広げてそこに視線を落とした。
「……そんなことはない、と分かっていても……あなたの肌に直に触れたら、闇に染まったこの体が焼けただれてしまうような気がして」
「……」
「それに、私の肌はなめらかではありません。どうやら人よりも体温が低めらしいですし……こんな体であなたに触れるなんて、恐れ多くて……」
「……ええと。でも、私と結婚したら肌を重ねることもあるわよね?」
リューディアが指摘すると、とたんにレジェスはばっと顔を上げて土気色の頬を赤らめた。
「そ、れは……え、ええ、まあ、可能性としては……あり得なくもない話ですが……」
「そのときもずっと、手袋をしているの?」
「……い、いえ……そういうわけでは……」
ぶんぶんと首を横に振った後、レジェスははっと自分の両手のひらを見て恥じらうように視線を逸らした。
「い、いえ、一生このままというわけではありません! ありませんが……」
「……」
「……あなたに触れても、よいのですか……?」
「大歓迎よ!」
レジェスが前向きなことを言ってくれたのが嬉しくてずいっと身を前に出すと、その分レジェスは身を引いた。おかげで、二人の距離はあまり変わらなかった。
「あなたは私の旦那様になるのだからね。さあ、今からどうぞ! 顔も手も大歓迎よ!」
「な、なんて破廉恥なことをおっしゃるのですか!」
「顔と手でも破廉恥なのね……」
「あ、え、いえ、その……」
真っ赤になったレジェスはぷるぷる震えながら、意味もなく両手をわきわきさせている。
(婚約者の顔や手に触れるだけでも破廉恥だと言うわりに、前は手を付けるとか孕むとか平気で言っていたわよね……)
だがそれを指摘するといよいよレジェスを泣かせるかもしれないので、言わないことにした。
「それで……今日はやっぱり、触れるのはやめておく?」
「い、いえ、触れます!」
半ば勢いで言ったようだが、これくらいでないとレジェスは動けないのかもしれない。
ではどうぞ、とリューディアがテーブルに身を乗り出すと、レジェスはきゅっと唇を引き結んだ。そしてかなり長い間逡巡した後、「……失礼します」と蚊の鳴くような声で断ってから手を伸ばしてきた。
彼の薄っぺらい手はしばらくの間、リューディアの頬と手の間をうろうろとさまよっていたが――まだこちらの方が難易度が低いと判断したのか、テーブルに乗せている右手にそっと触れてきた。
初めて直に触れたレジェスの指先は、ひんやりとしていた。
父のように分厚くてがっしりしているわけでも、アスラクのようにみずみずしいわけでもない。人間の指というより木の枝の先で触れられたかのような感覚だ。
リューディアの目の高さにあるレジェスの喉仏がゴクリと動き、そのまま彼はそっと指を滑らせた。
おそるおそる慎重に動く彼の指がリューディアの手の甲のラインをなぞり、第二関節を辿り、そして意を決したように手を広げて、重ね合わせてきた。
レジェスは緊張の面持ちでリューディアの手を握っていたが、やがて今にも泣きそうに顔をくしゃりとゆがめた。
「……あなたの手は、小さくて温かいですね」
「あなたの手は大きくて、ちょっとだけひんやりしているわね」
「……。……こうしていると……あなたのぬくもりが、分け与えられるような気がします」
しみじみと呟いたレジェスに、リューディアは微笑みかけた。
「そうね。……ねぇ、レジェス。あなたの手のひら、焼けただれてなんかいないでしょう?」
「……そう、ですね」
「私は、もっともっとあなたに触れてほしい。あなたには、私に触れる権利がある。あなたの体温が低めなら……私の熱でちょっとでもいいから、あなたを温めたい」
「……リュー、ディア……」
いつもガラガラにひび割れているレジェスの声が、震えている。
彼はこくっと唾を呑むと、思い切った様子で顔を上げた。
「……その。頬にも……触れていいですか?」
「ええ。……嬉しい」
レジェスが触れやすいように首をかしげると、彼は空いている方の手でリューディアの頬に触れて――ほっとしたように微笑んだ。
「……。……本当は、もっと早くあなたに触れたかった。あなたのなめらかな肌を直接感じて……そのぬくもりに包まれたかった」
「……ふふ。それじゃあ今日、勇気を出しておねだりしてよかったのね?」
「ククク……ええ、感謝しておりますよ」
レジェスは笑う。笑い方自体はいつも彼が自嘲するときと同じだが……その声音は優しくて、表情もとろけていた。
「これからは、たまにでいいからこうして触れてほしいわ」
「……あなたのお望みのままに。それで、リュ……リューディア。他に、してほしいことはないですか?」
リューディアのおねだりを二つとも叶えられて、彼はかなり自信が持てたようだ。
どこか余裕の感じられる微笑みを向けられて、リューディアは首をかしげた。
「あるけれど……言ってもいいの?」
「ククク……ええ、もちろんですとも」
「まあ、ありがとう! 実は私、あなたとキスもしたくて」
「……」
「……」
「……」
「……レジェス?」
返事がない。本格的に固まってしまったようだ。
どうやら自分たちにまだキスは早かったようだ、とレジェスが我に返るのをのんびり待ちながらも、リューディアは幸せな気持ちに浸っていた。