闇魔術師は、光を見守る
本編開始前、大切な女の子をこっそり見守る闇魔術師のお話。
セルミア王国の闇魔術師であるレジェス・ケトラは、十六歳の晩夏に運命的な出会いを果たした。
『名乗りなさい。そして、あなたの王国魔術師団における所属を述べなさい』
杖の先でレジェスの背中にある王宮魔術師団の紋章に触れる少女は、凜とした態度で命じた。
濃い金色の髪はひどい癖毛のレジェスがうらやましくなるほどの直毛で、目尻が少しつり上がった杏色の目からは意志の強さが見て取れる。
このとき、顔を上げて少女を見たレジェスは、彼女の年齢は十四歳か十五歳くらいだろうと思っていた。だが彼女――シルヴェン伯爵令嬢・リューディアは当時まだ十二歳だったと後に分かった。
『あなたはあなたが生まれ持った闇の魔術で、自分にできることをしているのでしょう? それは汚れ仕事ではなくて、あなたにしかできない尊い仕事だと思うわ』
ベッドに腰を下ろすレジェスに、リューディアはそう言った。
皆に忌み嫌われるこの闇の力を、リューディアは肯定してくれた。レジェスが請け負う汚れ仕事を、「尊い仕事」と言ってくれた。
そんな少女が、眩しかった。
眩しくて、神々しくて……慕わしかった。
だが、嫌われ者の自分がリューディアに触れてはならない。
自分の命を拾い上げただけでなくてその生き様を肯定してくれた彼女には、いつまでも笑顔でいてほしい。
レジェスの願いは、それだけだった。
後にレジェスは、魔術師団に戻った。
同じ遠征部隊にいた仲間――とも呼びたくない連中――たちは、けろっとして帰ってきたレジェスを見て真っ青になった。どうやらあと数日遅かったら、彼らによって勝手にレジェスの戦死報告が出されていたようだ。
レジェスはまずそんな薄情な元仲間たちに報復をしてから、仕事に戻った。
相変わらず彼はぼっちで、人付き合いも悪く、周りの者からひそひそされがちだった。
だが、外野の騒ぎなんて耳に入らない。
レジェスは、自分の中だけで灯る小さな光を手に入れたのだから。
雨の日の出会いから、四年経った。
二十歳になったレジェスは、半年ほど前にシルヴェン伯爵令嬢が社交界デビューをしたという噂を耳にした。
現在のリューディアは、十五歳から十六歳くらいだろう。セルミア王国の貴族令嬢のデビュー時期としては平均的で、あちこちで彼女の噂を聞くようになった。
というのも、リューディアの父であるシルヴェン伯爵はそこまで国王から重用されているわけではないが、人格者で人当たりもいいため支持者が多い。
そんな伯爵の娘――しかもなかなかの美人となれば、皆が噂するのも仕方のないことだ。
魔術師団でも、貴族階級にいる者がしばしばリューディアの名を出すようになっていた。
年頃の男性たちは、「今度のパーティーで一曲お相手してもらえないだろうか」と口にし、女性たちも「伯爵のご息女は、いつも礼儀正しい方よね」と噂している。
レジェスがそんな彼らの会話の中に入ることはなかったが、リューディアを褒め称える言葉やお付き合い願いたいと恋情を抱く者たちの呟きなどを聞くと……なぜだか、誇らしい気持ちになった。
自分がリューディアと並ぼうとか、パーティーで踊ろうとか、そんな大それたことは願わない。
ただ、自分を拾い上げてくれたあの優しい少女は大人になってもなお、素敵な女性なのだと思うと――妙に嬉しかった。
ある日、レジェスは偶然城の中庭を歩くリューディアを発見した。傍らには弟らしき少年がいて、二人仲よさそうに手を繋いでいる。
十六歳になったリューディアは、眩しいばかりに美しい女性に成長していた。相変わらず少し「強そう」な顔立ちだが、甘いだけではない凜とした一面を持つ彼女にぴったりだと思う。
……ふと、リューディアが顔を上げて、レジェスがいる方を見てきた。
すぐに彼はさっと身を翻し、緊張でばくばく鳴る薄い胸板をぎゅっと手で押さえる。
しばらくしてそっと覗き込むと、リューディアは何もなかったかのように弟と談笑していた。「そろそろお父様のご用事も終わるかしら」と言って二人して去って行ったので、これから父のもとに行くのだろう。
のぞき見ていたことがバレなかったと安堵し、レジェスは地面に座り込んだ。
まだ胸の鼓動は激しくて、顔は熱い。きっと真っ赤になっている。彼はいつも不健康な顔色だから、この熱が引くまでは魔術師団に戻れない。
優しくて凜とした、リューディア・シルヴェン伯爵令嬢。
たとえその記憶の中に自分の存在はなかったとしても、彼女にはいつまでも幸せでいてほしかった。
……とはいえ。
レジェスにも、やらねばならぬときというものがある。
「そうなんだよ。シルヴェン伯爵家のご令嬢、この前優しく誘ってやったってのに、突っぱねやがって!」
「でもさぁ、ああいう澄ましたお嬢様って案外、押しには弱かったりするんだぜ?」
「そうそう。それにお嬢様育ちみたいだし、一度遊んでやったら案外コロッと落ちるかもしれないぞ?」
「確かにな! それじゃあ今度、お高くとまった伯爵令嬢に楽しいことを教えてやろうかな……」
……最近、リューディア・シルヴェン伯爵令嬢の表情が浮かない。
そんな噂を耳にしたレジェスは、こっそりと情報を集め――そして、リューディアの懸念の種となっている不届き者たちの存在を突き止めた。
闇魔術で盗聴していたレジェスは、貴族の子息たちのえげつない内容の会話に、ぎりりと歯を噛みしめた。
あの連中は普段のパーティーなどでも女あさりをして、純真な令嬢たちを食い物にしているともっぱらの噂だ。伯爵家や侯爵家などと縁があり身分だけ高いのがまた厄介で、穢されもてあそばれた身分の低い令嬢などは、泣き寝入りしかできないのだとか。
その矛先が、リューディアにも向こうとしている。
レジェスは拳を固めると、身を翻した。
数日後の、王城の庭園にて。
「……本当にここにいれば、シルヴェン伯爵令嬢が来るのか?」
「ああ、間違いない。途中で弟と合流するって言っていたからな」
庭園に潜むのは、例の貴族子息たち。
どうやら連中はここでリューディアを連れ込み、暴行しようとしているのだろう。
だが、そんなことを許すレジェスではない。
彼は貴族子息たちとは別の茂みの奥に闇の隠れ場所を作り、そこに潜んでいた。あの馬鹿ボンボンたちに魔術師は一人もいないので、誰もレジェスが潜んでいることに気づいていなかった。
しばらくすると、リューディアとその侍女らしい女性の声が聞こえてきた。パーティー会場を抜け出して弟を探しに来たのだろう。
貴族子息たちがにやりと笑い、リューディアと侍女を捕まえるべく身を乗り出した――瞬間、レジェスの闇魔術が発動した。
どろりとした闇は素早く草地を這い、男たちの足をするすると上ってゆき――
「ひっ!?」
「うっ、わ……!」
「な、なんだこれ……!?」
男たちは悲鳴を上げると――ほぼ全員、股間を手で押さえて内股になるという情けない格好になった。中には、そのまま倒れた者もいる。
直後、リューディアと侍女がやって来た。
彼女は一瞬だけ、庭園でのたうち回る男たちを見たが――何かを察したらしい侍女がさっと扇でリューディアの視界を隠した。
「な、なんて破廉恥な……! お嬢様、アスラク様と合流したらすぐに、報告しましょう!」
「そ、そうね……」
「待っ――!」
男の一人が哀れな悲鳴を上げるが、リューディアはゴミ虫を見るような目で男たちを一瞥してから侍女を伴いきびすを返した。すぐに弟とも合流できたようで、「行くわよ、アスラク!」と足早に去って行く音がする。
ほっと安堵の息を吐いたレジェスは闇の中から頭だけ出し、苦悶の声を上げる男たちを睥睨した。
彼らには、ちょっと複雑な闇魔術を施した。簡単に言うと、女性に対して下劣な感情を抱いたときに体のある部分に痛みが生じるというものだ。
既に何人かはゼエゼエ息をつきながらも立ち直れたようだが、主犯格の男などは倒れたままピクピク震えるだけだ。こんな状況になってもなお、頭の中がお花畑であるという証拠だ。
しばらくすると、リューディアたちが呼んだらしい警備兵が到着した。彼らは、股間を押さえたままもだえる貴族子息を前にして、かわいそうなものを見る目になった。
後は彼らに任せよう、とレジェスは闇の中にとぷんと浸かってその場から離れた。
なお、あの闇魔術は自分の行いを深く反省すれば自然に消えるようにしている。だがあまりにも懲りないのであればいつまで経っても解消されず、女性に不埒な思いを抱くたびに体のどこかが激しく痛むようになるだろう。
もしかすると今後社交界で困るかもしれないが、そんなのレジェスの知ったことではない。
彼が大切に思う光を穢そうとした罪が、これくらいで済むのだと思ってほしいくらいだ。
あれから十日ほど経過した頃。
レジェスはまた、リューディアの噂を聞いた。
「昨夜お会いしたシルヴェン伯爵令嬢ですが、とてもお元気そうでしたよ」
「悩みがおありだったようですが解消されたらしく、ご友人と楽しそうに歓談されていました」
廊下で貴族たちの立ち話を耳にしたレジェスは、ふっと息を吐き出し――それまでよりも少しだけ軽い足取りで、彼らの隣を通り過ぎた。
たとえ、リューディアがレジェスの存在を忘れていてもいい。
レジェスが彼女のために何をしたのか知らなくても、いい。
彼女がずっと、笑っていられるのなら。