血糊の幽霊猫
これは、アパートで一人暮らしをしている、ある女子学生の話。
その女子学生はアパートで一人暮らし。
学校の近所の、単身者向けアパートが建ち並ぶ地域で暮らしている。
新しい学校に進学してしばらく経つが、学校で友人らしい友人もいない。
住んでいるアパートと学校を結ぶ地区には同じ学生が多く住んでいて、
外に出かけてもどことなく居心地が悪い。
だから、学校の授業が終わると、
最低限の買い出しなどをして、
後は一人で真っ直ぐ家に帰ることが多い。
そんな孤独な生活をしているその女子学生の、数少ない話し相手、
それは、アパートのベランダに現れる野良猫だった。
その女子学生が暮らしている地域には野良猫が多い。
野良猫は人間の都合などお構いなしで、
アパートのベランダや庭先などに入り込んでは、悠々と通過していく。
その女子学生が住んでいるアパートも同様で、
ベランダを見慣れぬ野良猫が通過していくのは慣れたものだった。
そんなある日。
ベランダに入り込んできた野良猫の一匹が、
その女子学生の目に留まった。
その野良猫は毛並みが悪く、毛皮はぼさぼさ。
白地の毛皮の背中に真っ赤な斑点が広がっているのが印象的で、
その模様はまるで、背中に血糊をぶちまけたようだった。
餌に困っていたようで、ありあわせの餌にもがっついてきた。
「かわいそうに、お腹が空いていたのね。
餌が欲しかったら、またここにいらっしゃい。
その代わり、私の話し相手になってくれるかしら。」
その野良猫が餌を食べている間、その女子学生は独り言のように話しかける。
そうして背中に血糊をぶちまけたようなその野良猫は、
その女子学生の話し相手となったのだった。
今日も学校が終わってアパートに帰ると、
丁度ベランダをその野良猫が歩いているところだった。
その女子学生は部屋の中に取って返すと、
買い物袋の中から猫の餌になりそうな小魚を手にベランダへやってきた。
その野良猫は足を止め、差し出された餌に鼻を向ける。
危険がないと判断したようで、嬉しそうに餌を啄み始めた。
その女子学生は嬉しそうな笑顔で言う。
「よしよし。
急がなくてもご飯は逃げないから、落ち着いてお食べ。」
餌を食べるその野良猫の背中に、そっと手を伸ばす。
今日は機嫌が良いようで、背中の毛皮に触っても逃げることはなかった。
その女子学生は愛おしそうにその野良猫の背中を撫でている。
日常的に餌を与えるようになって、
こうして背中を撫でられる程度には親しい間柄になっていた。
それからその女子学生は独り言のように話しかける。
「今日ね、学校でまた失敗しちゃった。
共同作業で同じ班の人達の足を引っ張っちゃって。
さっき帰りにスーパーで買い物してたら、
丁度その人達も店に入ってきてね、
私、居辛くなっちゃって、買い物籠を置いて逃げてきちゃったの。
だから今日のご飯は、缶詰しかないの。」
その女子学生が愚痴を溢している間に、その野良猫は餌を食べ終えていた。
くるくると舌を巻いて口の周りを掃除すると、
その女子学生の顔を一瞥してから、身を翻してどこかへ行ってしまった。
「・・・あの子、どこかへ行っちゃった。
私、また独りぼっちね。」
その女子学生は、その野良猫が去っていった方をしょんぼりと見つめていた。
学校でも外でも最低限の会話をするだけで、
たまにベランダに現れる野良猫だけが話し相手。
そんな生活を続けていたある日。
今日も餌をねだりにベランダに現れたその野良猫の、
血糊をぶちまけたような背中を見て、
その女子学生に、ふと魔が差す瞬間がやってきた。
無意識に口から言葉が漏れ落ちる。
「この子、餌を食べ終わったら、
またどこかに行ってしまうんだろうな。
こうして一緒にいられるのは、この子が餌を食べている間だけ。
もっとずっと私の傍にいてくれたらいいのに。」
餌を食べ終わったその野良猫が、口の周りをペロペロと舐め上げている。
そんなその野良猫が、何かの予感を感じたのか、
ピタリと動きを止めて、上を見上げた。
血糊をぶちまけたような背中を、薄暗い影が覆っていく。
影の主は、その女子学生。
その女子学生が大きな買い物袋を広げて、目の前に立っていたのだった。
バサッと買い物袋が振り下ろされて、その野良猫に被せられる。
その野良猫は買い物袋に包まれて身動きが取れなくなった。
買い物袋の下でモゴモゴと何かを言っている。
そんなことにはお構い無しに、
その女子学生はその野良猫を買い物袋で包んで抱え上げた。
「ごめん、ごめんね。」
そんな言葉を呟きながら、
しかし買い物袋で包み込んだその野良猫を、
買い物袋ごと強引に部屋の中に引き入れてしまったのだった。
すぐにベランダに続く引き戸の窓がピシャリと閉められて、
外界と完全に遮断されてしまった。
そうしてその野良猫は、野良猫としての自由を失った。
「ごめんね・・・ごめんね・・・。」
買い物袋の中で必死に暴れるその野良猫に、
その女子学生は何度も懺悔の言葉を口にしていたのだった。
そうしてその野良猫は、その女子学生の虜とされた。
その女子学生は、捕まえる時こそ手荒だったが、
後はその野良猫にたくさんの愛情を注いだ。
ペット用品店に通うのが日課になり、
猫専用のベッドを買い与えたり、餌は缶詰だけではなく生魚を用意したり。
その女子学生が家にいる時は、その野良猫といつも一緒だった。
しかしその愛情にも例外があって、
その野良猫が部屋の外に逃げようとした時は、必死で引き止めた。
どんなに可愛がっても、
その野良猫を無理矢理捕まえて部屋に閉じ込めていることに変わりはない。
もしも部屋の外に出してしまったら、
もう二度とここへ戻って来てくれはしないだろう。
そんな恐怖心と強迫観念から、
その女子学生はその野良猫がベランダに出ることすら許さず、
決して部屋の外へ出しはしなかった。
柵を買ってきて玄関のドアは二重にした。
ベランダへ出るための引き戸の窓が閉じっぱなしでは換気が滞るので、
脆い網戸を外して丈夫な金網に交換してしまった。
金網は網戸よりは目が粗いが、猫が出入りできるほどの隙間は無い。
そうしてその野良猫は、その女子学生の部屋で不自由こそ無いものの、
野良猫としての自由は完全に奪われてしまったのだった。
しばらくしてその野良猫は、観念して諦めたのか、
部屋の外に出ようとすることはなくなっていった。
ただその野良猫は、その女子学生を恨んでいるのか、
餌を貰ってもその女子学生に馴れるでも避けるでもなく、
食事の時以外は窓際に座って、
開けられた窓の金網越しに、恨めしそうに外を眺めていたのだった。
そうしてその女子学生がその野良猫と住むようになってしばらく。
その日の朝、その女子学生は起床すると、
いつものように学校へ登校する準備をしていた。
その女子学生が通う学校はアパートから程近い所にあるが、
それでも休み時間の度に帰宅するわけにはいかない。
昼を学校で過ごす日は、
猫の餌などを半日分は用意して出かけなければならない。
その女子学生は台所に立つと、部屋に閉じ込めているその野良猫の、
半日分の餌などを用意していた。
台所から居間の方を振り返って、その野良猫に向かって声をかける。
「私、今日は帰りがちょっと遅くなるから。
ご飯は用意したものを順番に食べてね。
一度に全部食べたら駄目よ。
聞いてるの?」
居間を覗き込んで、その女子学生が絶句する。
今日もベランダの窓際に座って、
開いた窓の金網越しにじっと外を眺めているはずの、その野良猫が、
窓の外のベランダにいるのが目に入ったからだった。
その女子学生は泡を食って、エプロンで手を拭いながら駆け寄る。
「何で!?どうして?
窓には金網があるから、
窓が開いていてもあの子は外に出られないはずなのに!」
信じられないと窓を確認する。
窓こそ開いてはいるが、網戸の代わりに金網がはめられている。
鼠程度なら金網の目の間から通り抜けられるかもしれないが、
猫が通り抜けられるような余地はどこにもなかった。
そんな窓の向こうのベランダに、その野良猫は立っていた。
口には鼠か何かを咥えていて、
背中には血糊をぶちまけたような模様がある。
その女子学生が血相を変えて駆け寄って来たせいか、
驚いたその野良猫は、ベランダから駆け出していってしまった。
「待って!行かないで!」
その女子学生は悲鳴のような言葉をあげて、玄関から外へ飛び出した。
エプロンをしたまま、つっかけサンダルを履いて、
アパートの周囲を駆け回る。
茂みの中や塀の上を探すが、あの野良猫の姿は見当たらない。
通勤や通学で道行く人達が、
その女子学生の様子に何事かと目を見張っている。
そうして小一時間ほども探し回っただろうか。
逃げ出した野良猫はどうしても見当たらず、
その女子学生は仕方がなく、一旦アパートへ引き上げることにした。
あちこちを探し回ったせいで、顔や手は泥だらけになっていた。
「あの子に、逃げられちゃった。
こうならないように、窓には金網をはめておいたはずだったのに。
あの子はどうやって金網をすり抜けたんだろう。」
しょんぼりと肩を落として言葉を漏らす。
玄関のドアを開け、
二重扉を開けて部屋に入るとそこには、
その野良猫が、部屋の中でちょこんと座って待っていたのだった。
部屋に閉じ込めていたその野良猫が、
どういうわけかベランダの外に出てしまっていた。
探しに出るも見つからず、仕方がなく部屋に戻るとそこには、
その野良猫が部屋の中で座って待っていたのだった。
その女子学生は目を丸くして言った。
「あなた!
外に逃げていったんじゃなかったの。
帰ってきてくれたのなら嬉しいけど。
でも、どうやって部屋の中に入ってきたのかしら。」
その野良猫が帰ってきてくれて嬉しいやら、
どうやって部屋の中に入ってこられたのか、
その女子学生はべランドの窓を確認する。
窓は開いているが金網がはめられていて、
猫が通り抜けられるような隙間は、やはり見当たらないように見えた。
その女子学生は首を捻る。
「おかしいわね。
さっきは確かに、この子は窓の外にいたはずだったのに。
でも窓の金網には猫が通れるような隙間は無いわ。
見間違いだったのかしら。
他の野良猫がベランダに来ていたとか。
・・・ううん、そんなこと無い。
この子の背中の模様は特徴的だから、見間違えるはずないわ。」
部屋の中にいるその野良猫の姿をもう一度確認する。
機嫌が良さそうにしているその背中の毛皮には、
血糊をぶちまけたような模様が確かにある。
更にその野良猫の目の前には、鼠の死骸が置いてあるのだ。
それは、ベランダに出たその野良猫が咥えていたもののように思える。
納得半分、その女子学生は悲鳴を上げた。
「きゃっ!
あなた、なんて物を持って帰ってきたの!
鼠の死骸なんて、部屋に持って帰ってきたら駄目よ。」
箒とちりとりで鼠の死骸を片付け、
出かける時に持って出るはずだったごみ袋を開けて入れる。
鼠の死骸を気味悪く思いながらも考える。
今までこの部屋に鼠が出たことはない。
都会には今でも鼠が住んでいると耳にするが、
それでもこのアパートでは鼠が出たという話は聞かない。
この鼠は、どこからやってきたのだろう。
窓の金網の隙間から入ってきたのだろうか。
金網の目はそれほど細かくないので、
猫はともかく鼠くらいなら通り抜けられるかもしれない。
外から入ってきた鼠を、その野良猫が捕ったのだろうか。
そうかもしれないが、もう一つの可能性が引っかかる。
それは、その野良猫が部屋の外に出て、
どこかから鼠を捕ってきて部屋の中に持ち込んだ可能性。
さっき、窓の外に出ていたように見えたその野良猫は、
鼠の死骸のようなものを咥えていた。
その野良猫が、咥えていた鼠の死骸と一緒に、
金網をすり抜けて部屋の中に入ったのではないか。
実際に目撃したものを総合すると、そう思えてくる。
しかし、窓の金網には猫が通り抜けられるような隙間は無い。
頭がこんがらがってくる。
その女子学生の疑問は深まるばかり。
腕組みをして、うんうんと頭を捻って、
それから視界内の時計に気が付いて、あっと声を上げた。
「いっけない!
もう授業が始まってる時間だわ。
あなた、お昼ごはんは置いてあるから、
お昼になってから食べるのよ。
いってきます!」
そうしてその女子学生は、鞄を抱えて慌ただしく玄関から出ていった。
その後姿を、その野良猫は恨めしそうに眺めていた。
朝の授業にこそ遅刻してしまったが、
それ以外は平和なもので、退屈な学校の一日は過ぎていった。
友人が乏しい学生にとって、
欠席した授業のノートを確保するのは大変なものだが、
運良く面識がある学生にノートを借りることが出来て事なきを得た。
その日の授業を終えて、時刻は夕方。
その女子学生は学校を出ると、
買い物のために近所の商店街へ向かった。
夕飯のための食材をいくらか買い込んでいく。
それから、猫のための買い物をするために、
商店街にあるペット用品店に立ち寄ることになった。
そのペット用品店は、
広さは小振りのスーパーマーケットくらいで、
近辺では一番大きい。
その女子学生がその野良猫を部屋に閉じ込めてから、
足繁く通うようになった店だった。
数日分の猫の餌と、
もしかしたら鼠取りを用意した方が良いかも知れない。
その女子学生は店内を歩きながら、
その野良猫が気に入りそうな小物などを買い物籠に収めていく。
そうしている間にも今朝の出来事の記憶が蘇って、
その女子学生は難しい顔をしている。
「それにしても妙ね。
あの子、どうやってベランダに出たり入ったり出来たのかしら。
窓は開いてるけど金網をはめてあったのに。
鼠の死骸が部屋の中にあったのだから、
あの子が部屋の外に出たのは間違いないはずよねぇ。
だって、もしも部屋の中に入ってきた鼠を捕っただけなら、
ベランダにいた猫は何だったのかって話になるもの。
あんな特徴的な背中の模様を、見間違えるわけがない。」
そんなことをつらつらと考えていると、
ペット用品店の店内のどこからか、
買い物客らしい中年の女達の会話が聞こえてきた。
「そういえば最近、幽霊猫を見かけなくなったわねぇ。
お宅、ご存じない?」
「幽霊猫って、あの気味の悪い模様の野良猫?」
「そう。
背中の毛皮が、まるで血糊を溢したみたいな模様の野良猫。
あの猫って、ご近所で知る人ぞ知る噂があるのよ。」
「まあ、わたしは知らないわ。
どんな噂なの?」
「なんでも、以前に車に轢かれて死んだはずの猫なんですって。」
「まあ怖い。
それって、死んだ猫が幽霊になって現れたってこと?」
「そういう噂なのよ。
以前に車に轢かれて死んだ猫がいたのは確からしくって。
何せ特徴的な模様をしているでしょう?
だから、見間違えようが無いって。
あの猫は車に轢かれて死んだはずの猫だって、そういう話なの。」
「じゃあ、背中の血糊みたいな模様は、事故の時の?」
「そういう噂よ。
死んだはずの猫が、またひょっこり姿を現すようになって、
背中の血糊みたいな模様と相まって、気味が悪いって言われてるのよ。
お隣さんなんて、何度も追い払ったはずなのに、
気が付いたら家の中に入っていたんですって。
戸締まりはしっかりしていたのに。
だから、幽霊猫なんじゃないかって。」
「まあ恐ろしい。」
聞こえてきた会話に、
その女子学生はいつの間にか聞き入っていた。
会話の内容には、心当たりがあるものばかりだった。
小声で小さく言葉を漏らす。
「幽霊猫なんて、まさか。
でも、背中に血糊の模様がある野良猫って、
きっとあの子のことよね。
最近見かけなくなったのは、私が部屋に閉じ込めてるせいだわ。
じゃあ、あの子が金網をすり抜けて部屋を出入りできたのは、
あの子が幽霊猫だから?」
その女子学生は軽く身震いする。
では自分は、死んだ幽霊猫を部屋に匿っていることになるのではないか。
そう考えると、あの野良猫がいる部屋に帰るのが恐ろしくなってくる。
あるいは、あの野良猫が幽霊猫なのならば、
今頃は窓の金網をすり抜けて部屋の外に出ていってしまっただろうか。
それとも、部屋に閉じ込めたことを恨んで、
自分を呪い殺そうとするだろうか。
その女子学生の背中を、冷たいものが滑り落ちる。
ともかく、あの野良猫が何であれ、家に帰らないわけにはいかない。
その女子学生は覚悟を決める。
ペット用品店の会計を済ますと、店を後にした。
程なくしてアパートの自分の部屋に到着。
玄関の扉を開けて部屋の中に入ると、
薄暗くなった部屋の中で、
その野良猫が恨めしそうに目を光らせていたのだった。
帰宅したその女子学生を待ち受けていたのは、
恨めしそうに目を光らせたその野良猫だった。
幽霊猫の呪いか、
咄嗟にそう思ったが、それは違った。
その野良猫は単にお腹を空かせていただけのようだ。
買ってきたばかりの猫の餌を与えると、無心で餌を頬張り、
餌を食べ終わった後は、機嫌が良さそうに毛皮を掃除するのだった。
その様子を見て、その女子学生は安心して言う。
「やっぱり、幽霊猫なんているわけがないわよね。
噂話なんて、あてにならないものね。」
ほっと肩の力が抜けていく。
それからその女子学生は、日々の家事と勉強をこなすと、
夜も早々に布団の中に潜ったのだった。
その日の晩、夜遅く。
布団の中のその女子学生は、額に汗の粒を浮かべて苦しんでいた。
体が重い。
痛い。
腹に杭を刺されたみたい。
自分が体調不良に見舞われていることに気が付いて、薄っすらと目を開ける。
すると、胸の上にその野良猫が乗っているのが見えた。
夜の暗闇に冷たく光る瞳が見下ろしている。
その女子学生は苦しそうに掠れた声で話しかけた。
「苦しい・・・。
私、具合が悪いみたい。
きっと、あなたを部屋に閉じ込めた罰が当たったのね。
それとも、幽霊猫の呪いかしら。
今更遅いかもしれないけれど、
あなたを無理矢理この部屋に閉じ込めて、ごめんなさいね。
私にはあなたしか話し相手がいなくて、
どうしても寂しくて、それで魔が差してしまったの。
あなたにひどいことをするつもりじゃなかった。
でもあなたはきっと、私を恨んでいるでしょうね。
ごめんね、ごめんね・・・。」
意識が遠のいていく。
その女子学生のぼやけた視界に、その野良猫の姿が薄っすらと映る。
その野良猫は、乗っていたその女子学生の胸の上から降りると、
小走りにベランダの窓へと駆けていった。
換気のために手の平ほどに開けられていた窓の金網越しの外に、
滅多に聞かせることのなかった、鋭く丸い鳴き声を上げる。
するとしばらくして、
窓際にいるその野良猫の体が、もこもこと膨らんだかと思うと、
金網の外に姿を移したのだった。
霞む目に映った光景に、その女子学生が弱々しく言う。
「金網を抜けられるなんて、
あなたはやっぱり幽霊猫だったのね・・・」
そこまで口にしたところで、その女子学生の意識が途切れた。
その女子学生が最後に目にしたその野良猫は、
尻尾が二叉に分かれた姿をしていた。
翌朝。
その女子学生は、ベッドの上で目を覚ました。
自分の部屋の布団ではない。
驚いて体を起こそうとして、走る腹痛に顔を顰めた。
「あ痛たたた・・。
私、どうしてここに?」
その女子学生の疑問に、ベッドの脇から応える声があった。
「起きたのね、良かった。
ここは病院よ。」
その声は、中年の女の声。
その女子学生にはすぐに誰だか分かる。
自分が住んでいるアパートの大家である、中年の女の声だった。
横を見ると、見慣れた大家が椅子に座ってこちらを見ていた。
その女子学生は体を動かさないようにして、大家に向かって話しかけた。
「大家さん、どうしてここに?
私、どうしたんでしょう。」
大家は肩を一つ竦めて、話を始めた。
「ここは病院。
あたしはあなたの付き添い。
あなた、昨日の夜遅くに具合が悪くなったのよ。
あなたの部屋のお隣さんから、
あなたの部屋の玄関とベランダで猫が鳴いていてうるさいって、
苦情が来たの。
それで様子を見に玄関を開けたら、部屋であなたが倒れていたのよ。
驚いちゃったわ。
すぐに救急車を呼んで、この病院に運んでもらったわけ。」
言われて記憶が蘇る。
昨夜、寝ている時に、激し腹痛に見舞われたのだった。
見下ろすあの野良猫の冷たい目を思い出して、その女子学生は口を開く。
「大家さんが来てくれなかったら、
私、幽霊猫に呪い殺されるところだったんですね・・・。」
しかしそれを聞いた大家はキョトンとして応える。
「幽霊猫の呪い?
何を言ってるの。
虫垂炎よ、虫垂炎。
あなた、急性の虫垂炎になったのよ。
手術は無事に終わったから安心していいわよ。
親御さんにも連絡がついて、もうすぐ来てくれるって言ってたわ。」
「ちゅ、虫垂炎?
それって、盲腸ってことですか?」
てっきり幽霊猫の呪いだと思ったのに。
現実的な病名を言われて、その女子学生は目を白黒させている。
大家は頬に手を当てて、軽く叩くように手を振る。
「そうよぉ。
盲腸と言っても、甘く見ていたら危ないわよ。
あなた、ストレスでも溜まってたんじゃないの。
駄目よぉ、体は大事にしないと。
まだ若いんだから。」
その女子学生は、布団で覆った顔を赤く染めた。
幽霊猫の呪いなんて、あるはずがない。
妙なものを見たり聞いたりして、すっかり感化されてしまっていたようだ。
すると大家が何かを思い出したようで、ちょっと改まって言う。
「そうそう、猫と言えば、
あなたの部屋のドアを開けた時に、
部屋の中から外へ猫が飛び出していってしまったのよ。
背中に血糊みたいな模様がある猫だったわ。
あたし、猫がいるなんて知らなくて、玄関から逃してしまったみたい。
ごめんなさいね。」
済まなそうにしている大家に、その女子学生は慌てて顔の前で手を振る。
「いえいえ、そんな。
こうして病院に来られたのは、大家さんのおかげです。
謝らなければいけないのは、私の方です。」
「そう?
それなら良いのだけれど。
でもそれなら、お礼はあの猫に言った方が良いわね。
あの猫が鳴き声をあげて人を呼んだおかげで、
あたしはあなたが倒れているのを見つけられたのだから。
何があったのか知らないけれど、
幽霊猫とか猫の呪いなんて言ったら、罰が当たるわよ。」
大家は軽くウインクして言った。
それからまもなく、その女子学生の両親が病院へとやってきて、
その女子学生は一週間ほど入院することとなったのだった。
その女子学生が入院して一週間ほど後。
やっと退院の許可が下りて、その女子学生は、
およそ一週間ぶりにアパートへ戻ることになった。
玄関の鍵を開けて扉を引く。
そうして玄関をくぐった先は、ちょっと久しぶりに見る自分の部屋だった。
その女子学生が入院している間に、両親や大家が部屋を整えてくれていたようで、
室内に特に異常は見られなかった。
部屋を通り抜けて、ベランダの窓を覗き込む。
ベランダの窓は換気のために薄く開けられていて、
金網がはめられたままになっていた。
念の為に窓の金網を確認してみるが、
猫が通れそうな隙間や解れは見当たらなかった。
部屋の中にいるのはその女子学生だけ。
あの野良猫の姿はどこにもなくなっていた。
その女子学生は金網を指先で撫でながら、名残惜しそうに独り言を溢した。
「あの子、いなくなっちゃったのね。
これで私はまた、独りぼっちになっちゃった。」
金網から指先を離すと、部屋の中に戻る。
入院中に使った衣類の洗濯をしなければ。
欠席していた間の授業のノートも何とかしなければ。
たった一週間の入院だったが、やることは山積みだ。
しかし、その前に。
「その前に、あの野良猫のこと、
ううん。幽霊猫のことについて、考えてみよう。」
その女子学生は腕組みをすると、顎に指を当てて思案を始めた。
ペット用品店で耳にした噂話によれば、
かつて車に轢かれて死んだ野良猫がいて、
その野良猫が幽霊猫となって蘇ったという。
幽霊猫は背中の毛皮に、血糊のような模様があるという。
「それって、私が部屋に閉じ込めたあの野良猫のことよね。
背中の模様が一致するし、
ペット用品店のおばさんたちが幽霊猫を見かけなくなった時期が、
私があの野良猫を部屋に閉じ込めた時期と一致するもの。」
では、幽霊猫が窓の金網を抜けて、部屋を出入りしていたのだろうか。
自分が倒れている時に、幽霊猫の能力で外に出て、人を呼んでくれたのだろうか。
その女子学生は首を横に振る。
「いいえ。
幽霊猫の能力で部屋を出入りしていたとは思えない。
もしも、あの野良猫に窓の金網をすり抜ける能力なんてものがあったのなら、
鼠の死骸を持って帰ってきた時に、
閉じ込められた部屋から脱出して、再び戻ってくる理由がないもの。
せっかく脱出できたのに、戻ってきたら意味が無いわ。
そして、私が倒れていた時のこと。
大家さんは言っていたわ。
玄関を開けたら、猫が飛び出していったって。
もしも、あの野良猫が幽霊猫の能力で窓の金網をすり抜けて外に出たのなら、
助けを呼んだ後に自分で部屋に戻ったとしても、
わざわざ玄関から飛び出していく必要が無いもの。
窓の金網をすり抜けてゆっくり出ていけばいいのに、
人から逃げるように玄関を走って出る必要がない。」
見知らぬ人から走って逃げてゆく姿を思い浮かべてみる。
それは幽霊猫などではなく、ただの野良猫の姿そのものだった。
ということは、自分が部屋に閉じ込めていたあの野良猫は、
幽霊猫などではなく、ただの野良猫だったということになる。
しかし自分は、部屋に閉じ込めていたあの野良猫が、
ベランダに出ているところを目撃している。
あの野良猫が幽霊猫ではないのなら、どうやって外に出たのだろう。
「あの野良猫は、部屋の中に鼠の死骸を持ち帰っていた。
窓の金網の目は、猫は無理でも鼠が通れる程度には隙間が空いてるから、
そこを通って部屋の中に入ってきた鼠を、
あの野良猫が部屋の中で捕ったのかしら。
それはあるかもしれない。
でも、ベランダにいたあの野良猫も鼠の死骸を咥えていたし、
無関係とは考えられないと思う。
鼠の死骸が同じものだとは断言できないけれど、
このアパートで鼠なんて見かけたことはないし、
鼠が都合よくそう何匹も見つかるとは思えない。
同じものだと考えても良いのではないかしら。」
ベランダにあった鼠の死骸と、
部屋の中にあった鼠の死骸が、同じものだったとして。
それが即ち、
あの野良猫がベランダから部屋の中に入ってきたことになるだろうか。
もしそうなら、あの野良猫が幽霊猫であるということになる。
しかし、あの野良猫が玄関のドアから出ていったことから、
幽霊猫ではないらしいという結論は既に出ている。
では、あの野良猫が幽霊猫ではなく、
鼠の死骸だけがベランダから部屋の中に入ってくる場合はどうだろう。
その女子学生はその手掛かりを、既に耳にしているように思う。
「手掛かりは大家さんの話ね。
大家さんは、こう言っていたわ。
私が部屋の中で倒れていた時、
お隣さんから、猫の鳴き声がうるさいって苦情があったって。
その苦情は確か、こうだったはずよ。
私の部屋の玄関とベランダで、猫が鳴いていてうるさいって。
ということは・・・。」
その女子学生の頭に、ある考えが過る。
それを補強するような光景を見た覚えもあった。
「私が意識を失う前に、見たような気がするわ。
あの野良猫が窓の金網の前に行ったら、尻尾が二叉になったように見えたの。
二叉の尻尾だなんて、まるで妖怪みたい。
あの野良猫は尻尾が二叉の幽霊猫だったのかしら。
ううん、違うわね。
あれは・・・」
その時、その女子学生が急に部屋の中をきょろきょろと見渡した。
何かの気配がする。
気配の元を探ると、それはベランダから。
窓からベランダを覗くと、そこには、
いつの間にか野良猫が姿を現していた。
その野良猫の背中には、血糊をぶちまけたような模様。
そんな特徴的な模様の野良猫が、
仲良く二匹並んで立っていたのだった。
それから一ヶ月ほどが経って。
その女子学生の部屋の中には、あの野良猫が座っていた。
背中の毛皮には、特徴的な血糊をぶちまけたような模様。
それは幽霊猫として噂されるものに間違いない。
幽霊猫が窓をすり抜けて、部屋の中に入ってきたのだろうか。
いや、そうではない。
だって窓の金網は、もう外してしまったのだから。
開いた窓から部屋の中に入るには、幽霊猫である必要はない。
野良猫ならどんな猫でも簡単に出入りができる。
その女子学生の部屋の中には今、
背中の毛皮に同じ模様がある野良猫が、二匹揃っていた。
片方が今、その女子学生の隣で座っている。
その血糊をぶちまけたような背中を撫でながら、その女子学生が話しかける。
「まさか、背中に同じ模様がある野良猫が二匹いただなんてね。
噂話に拠れば、同じような模様の猫が以前にもいたんですもの。
狭い地域内で繁殖を続ける野良猫だったら、
同じ模様の猫が何匹かいても不思議じゃないわ。
私が部屋の中に閉じ込めたのは、あなたたちの内の一匹だったのね。
そして、ベランダにいるのを見かけたのが、残った片割れ。
それを見た私は、てっきり部屋の中から逃げ出したのだと思って、
ちゃんと部屋の中を確認しないままに外へ飛び出して行ってしまった。
だから、同じ模様の猫が部屋の中にも残っていただなんて、
気が付かなかったみたい。
だって仕方がないわよね。
猫ってよく気配を消して、
人間に見つかりにくいところに入り込んでいくんですもの。
きっと、ベランダにいた片割れは、
部屋の中のもう一匹に獲物を届けに来たのね。
鼠の死骸は、金網の隙間から受け渡したんでしょう。」
その野良猫は最初から、窓も金網も通り抜けてはいなかったのだ。
同じような模様の猫が二匹、金網の隙間から獲物の受け渡しをしていただけ。
その前後、片方しかいないところを見たから、
同じその野良猫が鼠の死骸を咥えて、
窓の金網をすり抜けて部屋を出入りしているように錯覚したのだった。
その女子学生は口を尖らせる。
「でも無理もないでしょう?
同じ鼠の死骸を咥えて、部屋の内と外にいる片方ずつの猫を見たら、
窓の金網をすり抜けて出入りしてるって勘違いするわよ。
まったく、紛らわしいんだから。
でも、私が倒れた時は、
あなたたち二匹が揃って人を呼んでくれたのよね。
そのおかげで私は無事で済んだのだから、感謝してるわ。
あの時、暗いところで二匹の猫が窓の金網越しに隣り合って立っていたから、
遠目には二叉の尻尾を持つ一匹の猫に見えてしまったのね。」
隣に座っているその野良猫の背中を優しく撫でて、
それからもう一匹の方を心配そうに眺める。
もう一匹のその野良猫は今、薄いカバーが掛かった箱の中にいる。
箱の中からは時折、箱を引っかく音や呻き声が聞こえてくる。
その女子学生が、部屋に閉じ込めたその野良猫のお腹が大きいと知ったのは、
つい最近のこと。
その野良猫が、部屋の中に閉じ込められたにも関わらず、
途中から逃げようとしなくなったのは、
どうやら安全な巣を作る場所を探していたからのようだ。
そして、その女子学生の部屋を巣にすることにしたのだろう。
外にいたその野良猫の片割れは、
閉じ込められたその野良猫を助け出そうとしていたのではなく、
餌を運んでいただけだったようだ。
何故、その野良猫がそんな危険を冒してまで、
室内を出産場所にすることに拘ったのか、
それを調べる方法は無い。
猫に話を聞くわけにもいかないのだから。
でも、その女子学生には察するものがある。
それはきっと、幽霊猫の噂の元になったという、
以前、車に轢かれて死んだ猫のこと。
それが関係しているのではないか。
猫は猫なりに学習することがあるのだろう。
そう思うのだった。
「私の部屋に来た理由が、そんなことだったとはね。
まったく、人の部屋を何だと思ってるのかしら。」
笑顔とともに軽く鼻息を鳴らす。
そんなことをつらつらと考えていると、
その野良猫が入っている箱の中が静かになった気がした。
その女子学生が、箱の中をそっと確認してみる。
「わぁ・・・!」
すると、箱の中には、
背中の毛皮に血糊をぶちまけたような模様がある、
小さな幽霊猫が現れていたのだった。
終わり。
ベランダに現れる野良猫をテーマに、この話を作りました。
人間に捕まった猫が逃げるのを止めたり、
捕まった猫を助ける以外の目的で訪ねてきたり、
人間の理屈ではおかしく思えることを、
猫の理屈では正しくなるようにしようと思いました。
お読み頂きありがとうございました。