3話:馬鹿と不憫と醜悪と
もたれかかった壁越しに水音を聞き、窓の中にある景色を眺め、ニーナはぼーっと思慮にふける。
水音の正体はシャワーの音。取っ手を捻ればちょうどいい温水が出てくるなんて謎のファンタジー装置にはアルラも大層ご満悦なようであり、軽い鼻歌が一緒に壁の向こうから聞こえてくる。
先刻浴びた血の雨の匂いが気になると言い出したので案内してやったわけだ。
寝てる途中に軽く体は拭いてやったが、魔人の自分と比べても、アルラはかなり鼻が利く。
たん、たたん、と細かな水音の中、軽い足音が細かく鳴る。
アルラがその場で小さく足踏みをしたらしい。これほどまでに調子に乗った妹を見たのは初めてかもしれない。機嫌がよくて何よりである。
……そう、足踏み、だった。
――いや、骨折だよ……?あんな簡単に治るってずるくない……?
思い出すのは10分前の光景。
アルラの要求に最後まで抵抗を示していたミアだったが、帰ってきてまたゴネたら即刻拷問を開始することを条件に合意した。『できるだけ早く済ませてください』と言いながら尻尾で触れると、刹那に完治するアルラの左脚。『割れたのを繋げるだけだから簡単な部類です』らしい。『叡智』を封じる集中の阻害も一緒に解いておいたとのこと。
前世はシオンの仲間だったらしいが、なんともまあ、彼も便利な同僚を持ったものである。
さっさと前世を明かせばいいのにと思わないこともないが、事情があってそれは不可能らしい。
一体何がどうなればそんな事態に陥るのか、大雑把にしか話を聞かされていない以上見当づけることもできないというのが、現在ニーナの抱えるモヤモヤの1つ目。
2つ目。
「……ねえ、アルラ」
「んー?どうしたの?」
「デートなんかしてどうするつもり?前のはシオンを油断させるためだって言ってたけど、今となったらそれも望めないでしょ?はっきり殺そうとした相手なんだし」
彼の偽名に気を遣うのに煩わしさを感じる今日この頃、アルラの要求の意図が読めないというのが2つ目の疑問点。
あれだけ強情だったのにデートひとつで意志を曲げるなんて、アルラをよく知る自分としては、何より納得できない出来事なのである。
シャワーの水音がピタリと止まった。
「……ふっふっふー。聞きたい?」
浴室から飛ぶ返答が反響する。
僅ながらもうわずった声。高揚感が手に取るようにわかる。
『うざっ……!』と余計一言を飲み込める自分は、とっても大人で偉いと思う。
「……うん、聞きたい聞きたい」
「お姉ちゃんが言ったようにね、私、コトノのことを殺そうとしたじゃない?」
「だね」
「騙して燃やして追い回して罵ったじゃない?」
「……うんうんそうだね、ついさっきね。まったくもってその通りだ、アルラは現状をよーくわかってる」
「……でしょ!まあこのくらいは当然よ!」
浴場から脱衣所へ足音が続く。
水滴が滴ってポタポタと鳴った。
「……でも、黒塊に殺されそうになった時、コトノは身を挺して私を守った」
「私を拷問しようって言われても、駄目って言い張って一歩も引かなかった」
「私はコトノを裏切ったのにね」
タオルの擦れる音が少女の輪郭に沿って流れてくる。
「……うん」と相槌を打ち、窓枠にかかる赤い陽光が徐々に地面に沈んでいくのを見送った。
慌ただしかった今日という日にも、もうすぐ夜がやって来る。
「なんでだと思う?」
「――っ!?」
瞬間、緩みきっていた背筋に走る悪寒。
なんだろう、この感覚は。
いや、まさか、彼女の語気に妙な既視感があるような……
「なっ……なんでだろう……!?」
「奴隷が欲しいのよ」
「…………!?」
「裏切られた相手なのに優しくしてあげたら、とっても優しい人だと思われるだろうって打算が無意識にあるからこその理不尽よ。あんな目にあったのに、コトノはまだまだ私に好かれようと必死ってこと!」
「……ッ!??……!??!?」
「……そうなってきたら一度さよならしようとしたのだって、私の気を引くためのポーズだった公算が高い!やっぱり私の方針は間違っていなかった!ここ数日間の積み重ねでコトノの脳内は取り返しのつかないくらい私一色に染め上げられてる!!」
「……www」
「今頃は私のデートが待ちきれなくて浮き足立ってるんでしょうね!判断能力の無くなった動物を操るなんて楽勝よ!適当に言いくるめて駆け落ちして、何も喋らず拷問からも逃げ切ってやるっ!!」
堂々宣言しながら脱衣所から出てきたアルラ。
ちょっと躊躇い、くるりと回って、全身をニーナに見せつけてきた。
「………………えっと、どうかしら?他人の服だし、時間もあんまりなかったから、あんまり自信があるわけじゃないんだけど……」
「………………………………」
『医者』の残した服に身を包むアルラの問いかけは、何故かここにきて不安気である。
「お姉ちゃん……?……私、デートできそう?」
「………………93点。コトノはもうちょっと落ち着いたのが好みかな」
「……選び直してくるっ!!」
勢いよく飛び出すアルラ。
彼女の背中を見送った後、色々な感情を整理する為、大きく一つ深呼吸をした。
それでも一切まとまりのつかない心境と一緒に、静かに逆方向へと歩き出す。
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1分もかからずに辿り付いた先は、元いた部屋の扉の前。
「コトノー?調子はどう?」
扉を押して部屋を覗く。
ミアの姿は消えていて、少年が1人、部屋の角にうずくまっているだけである。
かけた言葉に反応は無く、死んだ魚のような目で、何も無い虚空をじっと見つめている。
「……コトノ?」
「……………………殺される」
視線はちっとも動かない。
虚な目が宙を向きながら、少年の唇だけがゆっくりと動いた。
「…………アルラは俺の死体を欲しがっていた。唐突な要求の狙いはそれだ」
「拷問から逃れるのにも、金を稼ぐにも、俺を殺すのが一番手っ取り早い」
「……この土壇場で言い出したってことは、向こうにもそれだけの勝算があるってことになる」
「俺が死んだ時何が起こるかはよくわかってる、生きて帰って来れるようできる限りのことはする」
「けど、ほら、万が一ってこともあるからさ」
「……………………」
「…………色々優しくしてくれて、ありがとな」
光が消えたままの目を向けて、シオンは弱々しく不器用に笑った。
『浮き足立つ』とは正反対、死期を悟った悲哀を感じさせる表情であった。
「……………………そっか」
それを見たニーナに浮かぶ感想は一つ。
身体を伝う冷や汗の情動。『焦燥感』である。
――まずいまずいこれはまずい……!またシオンが精神的ダメージを受けてる……!!あの馬鹿どれだけシオンにストレスかければ気が済むんだ……!?
1秒あればわかる、当たり前な話だ。
背中を焼いて殺意を向け罵倒してきた裏切り者とのデートを楽しみにする奴はいない。アルラが助けられたのはひとえにシオンの甘さが理由。好意に換言できるものではない。
乳幼児でもわかりそうなことだが、仮に好意が理由と無理矢理仮定すれば、『コトノは未だアルラのことが大好き!』と『何も喋らず拷問もされず逃げ切れる!』の二つが両立し、アルラにとって都合のいいお話が出来上がる。
つまるところ、アルラはまた、都合のいい理屈を作り上げて馬鹿みたいにはしゃいでいるのである。馬鹿だから。
ニーナの拷問をスルーしてるのも同じ理由。都合が悪いことは見て見ぬ振りだ、馬鹿だから。
馬鹿の馬鹿げた妄言に付き合わされ憔悴するシオンを、心の底から気の毒に思う。
――って、考えてる暇があったらシオンにフォロー入れた方がいいよね……!ストレス源を放っておくのは今後の精神衛生上よくないに決まってる……!!
事細かに事情を説明するのは無しだ。
馬鹿の馬鹿加減は常識を超える。口頭では100%の納得はされないだろうし、結局懸念は後々に残る。
「あぁ、くそっ、そろそろ時間だよな……行かなきゃ……」
「待ってコトノ!」
だから、よろよろと立ち上がるシオンが、ふらつきながらも扉に手をかけた時。
止まって振り返る少年に向かって、大きく一つ息を吸い。
それより急務の別件に取り掛かる。
「……あの『医者』のことなんだけ
右目が見えなくなった。
「……………………っ」
喉から出そうになる悲鳴を全力で押さえつける。
なんの前触れもなく消えた視覚に、動揺を表に出さなかったニーナは、きっととっても器量がいい。
「……………………ニーナ?」
半分になった視界の中、心配そうに覗き込んでくる少年。
「…………なんでもないよ。低血圧。あぁそうだ、一個アドバイスするとしたら、多分アルラが殺しに来ることはないから、気楽にデートしてくればいいと思うよって感じかな」
「…………えぇ……?多分ってなんだよ多分って……」
「……勘だけど。」
「……参考にしまぁす」
ぐったりとした返事を寄越し、ぐったり部屋を出ていく少年。
乾いた音を立てて扉が閉まった、全くの同時。
「賢明で助かる。私も自らがコトノを刺激するのは避けたいところで、お前を殺すなんてもっての他だからな」
自分1人になったはずのベッドが並んだ部屋の中、さっきからずっと差し込んでいた赤い日に、人型の影がさしていた。
「ああ、コトノじゃなくてシオンだったか?……名前なんかどうでもいいか」
あの『医者』が窓枠に腰掛けている。
彼女の姿を認識した瞬間、一度にこみ上げてくる吐き気と目眩と頭痛と動悸。
半分しかない視覚がぐちゃぐちゃに歪む。
「ぅ゛、っ……!」
やっぱりどう考えても異常な肉体の拒絶に、予想できていても堪えられずに唸る。
「で、今の様子からして私のことはそこまで詳細に話してはいないと。いやあ良かった、元々口止めは行うつもりだったんだが、アルラが向かった場所が誤算でさ」
気持ち悪い。
ニーナの反応を無視して、気さくに話しを続ける彼女が気持ち悪くてたまらない。
胃の中を全て吐き出してしまいたい衝動に駆られる。
「暗闇の中での会話は視えなかったから、その間に告げ口されてたらと思うと気が気じゃなかったんだ。嫌われるのは嫌いだからな」
けれどもこいつはミアの怪我を魔法で治し、傷を癒やす魔法なんて聞いたことがなくて、それだけ魔法に精通しているということで、何より魔人が頼れるのは魔人くらい。
手段を選んではいられない。時間はどれだけ残っているのかわからないのだから。
「で、何が目的だ?」
「…………ボクを強くして」
「……オーケー。対価はコトノの情報。これからあいつの発言は些細なものでも逐一報告すること」
「……私物を盗んでこいって言われると思った。ボクに頼らなくても元から監視はしてるんじゃないの?」
「そうしたいのは山々なんだけどな。こっちも色々大変なんだよ」
コトノが捨てたものはちゃんと回収してるしな、ほら。と血濡れた少年の服を見せつけてくる彼女は、やっぱりとっても気色が悪い。




