45話:慟哭の果て、エピローグを想う
帰ってきた無人の病院、昨晩までミアの治療に使われていた大部屋に明かりはなく、外の光もか細くしか入ってこない薄暗さ。
背中に担いだミアの薄い吐息を聞きながら、人の気配が一切しない部屋の真ん中、卓上に置かれていた紙片に視線が吸い寄せられていた。
『さよならだ』と、実に簡素な書き出しで始まっている、おそらくはあの『医者』からの置き手紙である。
「……なんでだよ」
いつものベッドにミアを寝かせた。
紙片の束を手に取ってぱらぱら捲る。
『ここを出ることにした』
『遠くに行く』
『ニーナをミアに会わせてしまったのは君との契約に反するところだから、貰っていた前金はここ返しておくことにする』
『治療自体は完遂している。後遺症もゼロだと確約する』
『二度と戻ることはないだろうから、この病院は自由に使って貰って構わない』
『その上での注意事項を記しておく』
『病院全体の生活用水とガスの補充は――――に設置してある魔石で行っている為、一日50秒は触ってマナを通しておくこと』
『緊急時の避難経路は……』
『医薬品の置き場所は……』
『ありがちな怪我への処置の方法も……』
等々、エトセトラエトセトラ。
「なんでだよ」
紙束を放る。
滑る紙片の止まった隣、同じく卓上に置いてある袋からは、ぎっしり詰まった白金貨が頭を覗かせていた。
何故『医者』は消えたのか。
何故帰ってこないと断言するのか。それだけの事情が急に降って湧いたというのか。
何故約束を破ったのか。彼女になんの得もないだろうに。
何故金を返すのか。ミアを治してくれたことに変わりはないのに。
何故こっちの心配をしてくれるのか。数日話しただけの間柄なのに。
次から次へと疑問は浮かび、何がなんだかわからなかった。
「……………………あ゛ぁ」
頭が痛くて疲労感がこみ上げ、思わず近くの壁にもたれかかった。
服の血が壁につき、べちゃりと水っぽい音がして、脚に力を入れるのが面倒で、少しずつずり落ちていく視界の中、ミアの顔が見えた。
何の悩みもなさそうな澄ました顔で静かに眠るこの少女は、猫のようで、裏切り者で、詩音よりはるかに賢いはずだ。
「……お前ならわかるのかよ、なぁ」
答えは返ってこなかった。
眠っているので当然である。
よりかかる壁からずり落ちるままに腰を下ろし、思慮にふける頭の中がぐるぐると回って、じっと思慮にふけっていても、答えがぱっと出てくるわけもない。
無気力に浸りながら、しばらく座ってぼうっとしていた。
ここは暗くて物静かで、呆けているには都合がいい。
5分ほど経って足音が鳴る。
こつこつこつ、と始めはもたれかかった壁からしか聞こえなかった小さな音が、徐々に大きく近づいてきて、横の扉の前で止まる。
ぎい、と軋んだ扉が耳に障った。
「コト……じゃなくてシオン、アルラ寝かせてきたよー……って!?」
入るなり部屋を眺め回した少女の視線が詩音に止まり、びくりと跳ねた。
「……ニーナ?どうしたそんな引きつった顔……」
「……びっくりした一瞬死んでるかと思った!!やめてよそんな血まみれでぼーっと倒れてたら死体にしか見えない!!」
「…………いやそんな簡単に死なねえよ……?」
荒く呼吸をして自身を落ち着かせる彼女の様に、困惑を覚えながらも立ち上がる。
「大丈夫……?」とまた声をかけてきて、彼女のほうこそ心配しすぎなのではないかと思ったが、座っていた形にべったり残った血の跡を見ると、案外的外れではないのかもという気が湧いてくる。
「……まあでも、確かにこの服は流石にどうにかしないとだよなぁ。街で仕入れてた分は全部乾かしてる最中だし……『医者』のでも借りるしかないか……?」
「あぁ、うん、そうしたほうが――――え?……え゛!???」
「……いや、ここにあるもの全部自由に使っていいって家主がさ。そりゃ多少不味いとこはあるだろうけど、かといってそれ以外どうしようも……」
「あの糞女の服着るの!?コトノが!?女の子の服を!??」
「…………男が着ても違和感ないのが一着ぐらいはあるもんじゃねえの?ってか糞女って……」
「女子感溢れるやつにしよう!!」
「――――は?」
「人格を疑うくらいフリフリがついた少女趣味のやつを着よう!!そうだ、手始めにボクが始めにきてたやつ!!アルラが作ったアレ着よう!!」
「――――!???」
ニーナが初対面に着ていた姫衣装が頭をよぎった。
脳が理解を拒む。
その一瞬の隙を突かれ、目をぐるぐるさせたニーナに手を掴まれた。
「ボクっ、ボクがコトノの服決める!!ボクにできる全力を尽くして女の子にしか見えないようにコトノをコーディネートしてみせる!!それってもうコトノが女の子ってことだよね!??まずいよそれは!!興奮してきた!!」
「…………ッ!???……!?なぁっ、っ……!?ひ……ッッ、正気に戻れニーナ!!自分で何言ってんのかわかってんのか!?」
「わかってるッッ!!絶対コトノにストレスはかけない!!むしろ鏡を見た自分自身に見とれるくらいの超絶美少女に作り替えて今後の女装を安息の時にしてみせる!!人生に潤いを与えてみせる!!!ボクに任せろ!!それじゃあまずはシャワーを浴びて血を落とそう、そうしよう!!」
部屋の外へと歩き出すニーナに引っ張られる。
力が強い。いくら抵抗しても扉にちょっとずつ近づいていく、絶望的な自分の肉体。
「……ッッ!!…………ッッ!??!?」
力負け。
つい忘れそうになるが、単純な肉体スペックは向こうが上なのだ。
確信した。今この場を支配する捕食者はニーナのほうである。
「ひぃっ……!!はっ、放……って今後!??今後の女装ってなんだ!??」
「うん!!コトノはね、これからもちょくちょく女の子になるんだよ!!素材がいいから絶対にできる!!約束する!!ボクを信じて女の子になって!!」
「……なるわけねえだろ女の子にも安息の時にも!!全員がお前みたいな常識で生きてると思うなよ!??」
「やってみなきゃわかんないよ常識に縛られちゃ駄目なんだよ何事も挑戦だよ舐めてるの!??舐めてるなら素人が口を出さないでもらいたいね、絶対に幸せにしてみせるから大人しく女の子になって!!ほらッ!!」
「わかる!!絶対に安らかな時にはならない俺にはわかるッッ!!放せとりあえず放してから話し合おうか!!あっそうだ俺ニーナ自身のカッコかわいいコーディネートが見てみたいなぁ!!」
「――――って、あぁ、そうだ……」
「思い直してくれたか!???」
突然歩みを止めたニーナが、数瞬止まり、ゆっくりこちらに振り返った。
「ああうん、そうだった、そうだったよね……」
「――――ニーナ……?」
呼んだ名前に疑問符がついたのは、彼女の表情が一瞬前までの興奮状態からかけ離れた、とても静かなものだったからである。
挙動不審というよりは、まるで気持ちよく泥酔していた酔っ払いがいきなり水をぶっかけて現実に引き戻されたような、冷めて、揺らいで、申し訳なさそうな顔。
「…………えっとね。……シオンにこんなこと言うのは、結構、心苦しいものがあるんだけど」
「衝撃だよ。女装を強要する以上に罪悪感を覚えることがあるとでも?」
「…………………」
「…………まあ、とりあえず言えよ。何をしたいのかわからないと手の付けようが無いし」
ニーナは困った様にアハハと笑った。
慎ましやかな笑みだった。
「……ミアに協力してもらう対価にボクが提案したのは復讐の協力。最終的には『ラヴェルの殺害とヴェートの生け捕り』が条件になったんだよね」
「…………シオン。……シオン」
「……………………っ」
「……シオン、大丈夫?」
「……ああ、うん、なるほどな」
2度目の隙はさっきよりもかなり大きかったはずだけど、ニーナは特に何をするというわけでもなく、こっちを窺うように見つめながら、ぎゅうと腕を掴みながら、ぽつりぽつりと言葉を零した。
「…………ラヴェルの方は露払い。ヴェートを捕らえるのにどうやっても邪魔になるからって理由らしい。約束通り女王様を丸腰にしてミアに差し出さなきゃ、ボクを殺すって」
「『貴方の匂いは覚えたからどこに逃げても絶対に殺します。手足をもいでも構わないですけど、絶対生かして連れてきてください』って言われた」
「……って言っても、カッコかわいいだけのボクにそれができるわけがなくて、あの時はミアのこと舐めてて、最悪シオンにやってもらうつもりで『できる』って言ったんだけどね。あの時はシオンが死ぬのが一番怖かったし」
「シオンもヴェートを恨んでるだろうって、その仲間を殺すのもどうにか協力してくれるだろうって、そのときのボクは思ってた」
「……それで、なんだけどさ」
「…………このままじゃ殺されるから、助けてほしいな」
『助けて』とはどういう行為を指すのだろうか。
口調からしてこれはあまり言いたくなかったことで、忘れていたかった話題なのだろうというのを踏まえて考えると、大体の察しがつくまでに時間は要らない。
言葉を選び、直接的な表現を避けて話す彼女は配慮に満ちていた。
優しい。まるで天使のようである。
「………………」
「………………」
止まった思考が故しばらく続いた沈黙に、ニーナは後ろのベッドに振り返り、件の猫の少女を見た。
「……一応、ボクが今のうちにミアを殺しても解決する話なんだけど」
裏切り者は、憎い程安らかに眠っている。
微動だにしない彼女の姿は、それこそまさに死体と見紛う様で、しかし確かに生きている。
「…………それは、まあ、遠慮しとくかな」
「……だよね」
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迷子になった。
知らない街に出た自分は、あちこち行く宛てもなく歩き回っている内に、どっちが家に帰る道なのかも分からなくなってしまって、裏路地に力なく座り込んでいた。
陽の当たる表通りを覗くと、遠目にもたくさんの人が行き交っているのが見え、怖くて、恐ろしくて、切なくなって、ぎゅっと目を閉じ縮こまった。
裏路地は暗くて静かで安全で、遠くから聞こえてくる喧噪に耳を押さえて、ずっと黙って座っていた。
ずっと動かずじっとしていて、体が痛くなってきた頃、前触れなく誰かが肩を二度叩いた。
顔を上げると少年が自分を覗き込んでいた。
彼は2、3言の質問を投げかけてきて、途切れ途切れに返した返事を聞いた後、唐突に自分の手を取った。
戸惑いを露わにする自分の様子に気づいているのかいないのか、彼は躊躇いもなく手を引き、自分を連れて歩き出し、どんどん前へと進んでいく。
そのうち通りがかりのニーナにも出会い、一度は勝手な外出を怒った彼女も溜息を吐いてついてきて、三人並んで裏路地を歩いた。
わけのわからないまま引っ張られ、さっさと行くよと背中を押され、何故だか裏路地が明るいように感じてきた私は、こんなのもまあ悪くないかもと、小さく笑みを零したりして――――
そんなところで夢から醒めた。
「…………ぁ」
見知らぬ部屋の見知らぬベッドに寝ていた――薄く開けた目でアルラの状況を自覚する。
……病院、だろうか。
眼の前のベッドのシーツの眩しい白さ。
開いた窓から緩い風が吹き込んできている。
加えて言うに、部屋にはコトノもニーナもいなくて、ぽつんと置かれた一つのベッドに、自分一人が横たわるだけである。
「…………っ」
瞬間、目の奥からじわりと涙がにじんだ。
コトノを焼いた。
ニーナを殺そうとした。
二人がアルラの元から去るのは当然の選択だろう。
何か思うところがあるというわけでもない。別段彼らに興味があるわけではない。
「――――――――っあ、ああ……あああああっ……あああああああああ……!!」
ただ、脚が痛くて、我慢できないくらい痛かったから、どんどん溢れてくる涙は止まらなくて、眼の前がぼやけて見えなくなってきて――――
そして、ふわりと、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐった。
「――――ぁ」
何度も嗅いだ甘い匂い。
ニーナの匂いが部屋に残っていた。
微かなコトノの匂いにも気が付いて、ここ数日間、彼らはこの部屋で過ごしているようだと見当づいた。
「…………………………」
そして、よくよく気をつけて嗅ぎ分けると、彼らは今もそう遠くない場所にいる。
なんともまあ、人騒がせなことだ。
「………………なんだ」
目を閉じると瞳に残った涙が零れていった。
真っ暗な視界に、疲れと眠気がどっとこみ上げ、再び意識は融けていく。
隣の部屋からみぃとシーナの鳴き声がする。
窓から差し込んでくる日差しが、なんだかとても安らかだった。
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3日前の3日後、この日魔物に食べられる少女は、小さな寝息を立てて眠っている。
これで本章は終わりを迎える。
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2日前の2日後、この日魔物に食べられる少女は、既に黒竜の口の中を通った身だ。
ぐちゃぐちゃに咀嚼され、血と肉片がまき散らされたのに、彼女は確かに生きている。
幸せそうに眠っている。
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昨日の明日、この日魔物に食べられたアルラは、詩音によって救われた。
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けれど結局、そう遠くない未来、裏切り者が創り出した地獄の中、目を背けたくなるほど残酷に、吐き気がするほど凄惨に、最悪最低の末路を辿る。
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アルラの最期を思い出すと、とても悲しい気持ちになるのだ。




