19話:2日目⑥
馬車の中、両側面に付いた窓からうっすらと差し込んでくる自然光。
あの怪草の強靱なツタが石の建造物をぶち壊す音がずっと遠くで鳴っている。比較的安全らしいここにも四方八方から地響きが絶え間なく流れてくる――それだけ、この街の置かれている状況は危険であるはずなのである。
しかし、自ずと危機感を抱くべき騒音の中に詩音はいるはずなのに、なぜだか辺りが静まり返ったような気さえしてしまう。
そんな、もはや緊張感と言い換えてもいい重たい空気が、この車内には漂っていた。
客席隣に座っている唯一の同乗者であるニーナが、外に出ようとしていた詩音の腕を掴んで引き留めている。
少女は表情を失って、強く握った己の左手をじっと見つめて固まっている。
「――――どうした?」
「…………………………」
返答はない。少女の反応そのものが無い。
『ただのしかばねのようだ』とか、そんな陳腐で世俗的な表現がしっくりきてしまう程に、静かで、黙って、固まっている。
無論、沈黙する彼女が一体何を思ってこんな行動に至ったのか詩音に欠片たりとも理解できるはずもなく、並んで黙って席について、互いに身動ぎ一つできない奇妙な二人組がそこにいる。
僅かに床に擦らせた靴裏が、サリ、と鳴くのが聞こえた。
車外からの「コトノ……?」と、窺うようなアルラの声に「――すぐ行く!」と叫んで返す。
そう叫ぶ内も、ニーナは固まって動かない。
だから、アルラの声がまだ耳に残っているのに、あの怪草が地響きを上げているのに、この空間以上に静かなところはないと断言できる気がするくらいに、ニーナの沈黙が耳に痛い。
わけのわからない静寂は続く。
「――――――。」
未だ状況を掴めない詩音であったが、黙っていて解決する状況でないことだけは察しがついた。
「――――あの、ニーナさん?このカッコかわいい左手についてご説明いただいても?」
己のことながら軽々しい問かけである。
「………………えっと」
対して視線も寄越さず返されるのは、全く意味を成さない2音節。
あとはほんの小さな息を一つだけ吐き、少女はまたすぐ沈黙に沈む。
押し固めたような無表情は崩れないままに、痛みさえ感じる程、強く強く詩音の腕を握りしめている。
そんな目の前の光景に、勿論詩音の理解は追いつかない。
――どういう状況だこれ…………『アルラのこと嫌いだからコトノが協力するのもダメ!!』なんてのは……ないよな、流石に。基本的にはまともなヤツだし……
では、ニーナがここで詩音を引き留める理由はなんなのだろう。
……本当になんなのだろうか。
彼女からすれば詩音の行動ひとつに執着する理由はそれほどない。
いや、こちらの都合で無理矢理に同行を強いているのに、出会って3日であるはずなのに、不自然な程に優しくしてもらっているという自覚は重々あるのだが、それでも流石にニーナ自身の安全の方が100倍大切はず。
さっさと街から脱出することが第一優先となるのは自明の理のように思える。
が、現実問題、彼女の取っている行動はその真逆、放っておけばいい詩音を無理に引き留めるというモノで。
――あーもうわけわかんねぇ……こんなメンタリズムが志無崎詩音にわかるわけないだろ……?適材適所って言葉知らねえの……?
いるかいないか分からない神様に心中文句を垂れつつ、必死になって頭を回す。
が、浮かんでくるのは尋ねる前から疑わしい候補ばかり。
あれかこれかと行き来して、オーバーヒートする脳随が知恵熱を上げる。
ずっと遠くで巻き上げられる瓦礫がまばらに破壊音をまき散らし、まるで小雨でも振っているようで、いっそう静かだ。
数瞬思考の海に溺れていた詩音は、半信半疑の解を携え、ダメ元で口を開いた。
「――――昨日お前が言ってたアレなんだけどな、図星だよ。大当たりだ。俺は離れた生き物の場所が大雑把にだけどわかる」
「…………うん」
「もちろん色々制限はあるし、絶対秘密にしておきたいってのもあって乱用はできないんだけど…………頼むから内緒な?」
「うん」
「で、それ使って確認した。アルラが言ってた経路の安全は保証できる。途中で生えだして馬車ごと喰われるさっきのパターンも絶対にない」
「…………ん」
「……証拠は出せないから、信じて貰うしかないんだけどさ」
「…………うん」
ニーナが軽く俯いた。重力に引かれて垂れた金の前髪が少女の表情をさっと隠す。
左手は離れない。
「……なんとな、外に出たならもっと安全だ」
「…………どうして?」
「避難が済みのやつらは外周の一カ所に集められてて、この経路だと出てすぐのとこは人がいない。速攻で馬車から抜け出せばこれ以上の面倒事に巻き込まれる可能性はゼロ。どうよこの理論」
「……なるほど」
「な?さらに言うと病院のところまではあの草は生えてない。あんなのわざわざ相手する義理もないし、直帰して寝てれば全部解決ってことだ」
「……………うん」
本当にちゃんと聞こえているのか、少しでも考えて答えているのか。そもそも意識がはっきりしているのかさえ疑わしくなってくる芯の欠けた相槌。
俯いたままに握られる左手。徐々に徐々に傾く窓枠の落陽。
「――それは確かに、すごく安全だね」
くぐもった声がこだました。
「…………だろ?」
なのに、左手は離れず、ニーナは動かない。
わざわざ隣に並んで座って、おてて繋いで向かいあっているのは中々に不自然で、これまで三度の人生の知識を総動員しても、やはりまったくもってわけがわからない状況だった。
そしてどうやら、わけのわからない状況にさらされ続けた人間は、不意にわけのわからないことを口走ってしまうものらしい。
「――――一緒に来る、とか……?」
意図せず出てきてしまった意味不明な一言。
何言ってるんだ俺は……!?という自省と後悔が脳内を駆け巡る。
が、その瞬間、ニーナが顔を上げた。
ようやく見せた、待ち望んでいたはずの少女の反応に、思わず詩音は狼狽える。
なぜならば、真っ直ぐにこちらを射抜く彼女の瞳が、あまりに形容しがたい、複雑怪奇に絡まり合った複雑な情動を垣間見せているような気がしたからだ。
まるで母を見失って泣き出す女児のような、姉の仇を前に殺意を吐き捨てる青年のような、娘の為に地に額を擦りつける父親のような、切羽詰まったことだけが共通した雑多な無作為な感情を無理矢理一つのるつぼに押し込んだような――――
「――――ボクのこと、どう思ってる?」
「……????どうって?」
「コトノってさ、ボクのこと嫌いでしょ?」
「はぁぁあ!??」
想定外の言葉に噴き出しかける。全くもってどこから沸いて出たか分からない冤罪である。
何をどうこじつければそういう結論に行き着くのか見当もつかないが、とにかく疑いを晴らすべく、己の全知力をもって自己弁護をかける。
「いやなんでそうなる!?命を助けて貰った上に色々協力してもらってんだぞこっちは!!俺は1回グーパン入れたのにも関わらずな!?むしろ天使じゃねえのかと疑ったわ一瞬!!」
「……多分あの子を刺し」
脳味噌が引き千切られたのかと思った。
苦しい。
自分が溺れているような状態にあることを自覚した。
なので、肺に貯まった空気を短く吐いて吸うと、息苦しさの大部分は緩和したが、今度は額に浮かんだ汗が気持ち悪い。直接手で脳髄を掻き回されているかのような頭痛も収まらない。
が、いつの間にか窓から入り込んできていた柔らかな風が肌を撫でて、それが少しだけ心地良かった。
と、眼前のニーナが幽霊でも見ているかのような眼でこちらを見ている。
今の少女の感情は、前と打って変わって分かりやすく『怯え』と『恐怖』が混ざっている。
だから、今回ばかりは原因も因果も責任も全部自身にあるとはっきり理解できたので、あぁ悪いことをしたなぁと思い、それでも依然として離れていない左手が相変わらず理解不能で苦笑した。
実際にどういう表情をつくっているのかは、あまりよくわからなかった。
乾いた口を動かした。
「――――ごめん」
「あのとき、目が覚めたのが、ちょうどお前がミアを刺し殺そうとしてたときでさ」
「…………血の海ができてて、死体が転がってて、直前のことを思い出して、でも今は思いっきり刺し殺そうとしてて」
「命の恩人ってのはわかってるんだけど、お前がそうしたおかげで今生きてるってわかってるんだけど、仲良くして欲しいって言ってくれたのに、ごめん、無理だ、どうしようもねえよ、こんなの」
「考えないようにはしてたんだけど」
「……あのときを思い出すだけで、もう、頭がおかしくなりそうなんだ」
と。
そんなことを言った。
正確にその通りに言葉を紡げたかにまで言及すると、これも正直あまり自信がないのだが、とにかく詩音自身はそう言ったつもりだ。
「………………うん」
その間黙ってこちらを見ていたらしいニーナは、少し遅れて、小さく一つ頷いた。
数秒ほどして、左手がそっと離れる。
「――――冗談だよ冗談!ちょっと意地悪してみたくなっただけ!かわいいお茶目心だって、そんな真面目な顔しないでよ!」
あはは、と両手を振って否定して、いっそ爽やかな清々しい笑い方を見せ、
「――ほら、アルラのとこ行ってあげないと。まったくもう、こんな危ないところに女の子を待たせてちゃ駄目なんだよ?」
いつも通りのニーナが、いつも通りに、無邪気に悪戯に笑っていた。




