WCC10. 朽ちた聖堂跡にて(1)
これで元の世界に戻れるとホッとしている場合ではなかった。
ゼイラギエンは今、エンジンが止まっている。海や山の中に戻った場合、離陸あるいは脱出が非常に難しくなるという心配はある。けれども、想定される中で最悪の可能性に比べればよっぽどマシだ――つまり、空中にいきなり放り出されるケースよりは。
ランスは艦長に連れられて操舵室に駆け込み、彼が緊急エンジン始動を試みている間にニノ達を叩き起こす任務を与えられた。
しかし、二人の心配は杞憂だったとわかった。
窓から見える視界が柔らかいオレンジ色の光に戻ったとき、ゼイラギエンは元通りに飛行していた。
眼下には雲。ひとまずほっとした二人を、ニノとルガーが驚いた顔で見た。
「艦長にランス? 一体どうされたんですか? 怪我されてるじゃないですか」
二人とも外套は血で汚れているし、艦長は額に包帯を巻いていた。
「大丈夫だ。それより、今いる場所は?」
「ええと、空港跡地の上空ですが?」
「もとに戻っただけか。喜ぶべきか、それとも……」
モニターには、リアナが乗っていた敵機を示す赤いポインタが光っていた。
それを目にした艦長は渋面を作る。
「あちらから通信が入っています」
ルガーに言われ、艦長は通信音声をスピーカーに切り替えて受信した。
『ゼイラギエン号の皆さん、はじめまして。僕は鮫の部下で、梟と呼ばれている者です。いま鮫と連絡が取れないところを見ると、どうやら鮫になにかあったようですね』
中性的で感情の抜けた声は、どこか自動音声を思わせた。
『その場合は各自の判断で行動するよう言われております。僕個人としては、現状況下での命の奪い合いにはメリットを感じません。ハミルトン家の人質の方々は、地下施設にいます。早急にそちらに引き取っていただきたい』
緊張が走っていた操舵室の空気が、わずかに緩む。
『ですが、覚えていてください。かつて僕を人工知能としてしか生きられない身に変えたゼイラギエン号と、その操縦者だった方々には、必ず報復します』
◆
梟と名乗る敵からの通信を受けて、艦長は艦内通信で、鮫を封じ込めたことを知らせ、空港跡地への着陸を命じた。
また、着陸後は巡礼像の破壊と敵の研究施設での人質救助をおこない、その間に北部国境支部局からの給油を受けると告げた。
アーノルドとレベッカをそれぞれ修理班と医務室に任せてから、ランスと艦長は艦長室に入った。
腕組みをしたブレンが、二人を待ち構えていた。
「俺がいねえとこで無茶しやがって」
艦長は肩をすくめ、壁のモニターに映る赤いレーダーが圏外に去っていくのを睨んだ。
「あの機体、せいぜい二人乗りだ。でも最初に見た映像ではリアナとベッキーの家族二人も乗っていた。つまり最初の映像は別の場所からのものだったんだ。ヘッケルに発信位置の解析を依頼しよう」
ブレンは苦々しげに舌打ちした。
「ああ、なんで気付けなかったんだ」
ブレンは机上の機器を操作しはじめた。壁面のモニターに次々とウインドウが並んでいく。
ランスの記憶では、いつもはアーノルドがやっている仕事だ。
アーノルドの損壊については、自分にも非がある。申し訳ない気持ちになった。
ブレンは、意外にも慣れた様子で機器を操作していた。
「いま人質が施設内のどこにいるかも分かればいいが」
「うちの敏腕研究者なら何とかしてくれるかもしれない。あと、北部に給油と支援依頼を」
「給油は、いっぺん断ったろ」
「日が沈むまでに全部済めばいいが、ひと晩艦内を暖かく保ちつつ、かつ帝都に直接向かえるのならゲルマン野郎に頭を下げる価値はある。重傷で意識がない艦長の代理として、よろしく」
顎に手をやってモニターを見上げている艦長に、ブレンは人を殺せそうな目線を向けた。
「テメェが頭を下げるんだよ」
「うん、帝都でね。今あの顔を見たら頭の血管が切れそう」
「嘘をついたツケは自分で取れよ。つーか、ヘッケルには自分で音声通信で頼め」
ブレンは機器のキーボードを叩きながら唸るような声で言う。
「音声のほうはセキュリティが低い。敵は自称AIだし、念のため」
ブレンは舌打ちし、ひとしきりタイプしたのち、盛大なため息をついた。
「で? 返答が来るまでに、鮫がどうなったか詳しく聞こうじゃねーか」
艦長はランスを振り返る。不自然な笑顔だ。嫌な予感がした。
「操舵室と相談があるから、ランスに聞いて」
このために連れてきたのか。やっぱり人遣いが荒い!
ランスはブレンに、これまでの経緯を説明した。
レベッカが鮫の手先となっていたこと。
アーノルドと撃ち合いになり、ランスがそれを止めるために白桜刀で空間移動したこと。
ゼイラギエンごと移動したあと、リアナが姿を現したこと。
鮫がランスを待ち受けていると聞き、船外に出たランスは母の遺品とアズサの身体を発見したこと。
そして、シロタエはアズサの霊魂であり、彼女が鮫だったこと。
彼女を封じることには成功したが、負傷したリアナの跡をレベッカが継いだこと。
ブレンは額を押さえた。
「レベッカが、そうか。でもランス、お前もよく無事でいてくれた」
ランスは彼の傷跡だらけの頬と手を見ていた。
この人も、村の誰かを殺しただろうか。
船員の誰かと村のことを話したことはない。思い出すのがつらいだろうという配慮で、村での生活については何も聞かれなかったのだと思っていた。
でも実際は、皆はランスが村で囚われていて、つらい目に遭わされていたと考えていたのかもしれない。
そうであってほしかった。
そうじゃなかったのなら。
ブレンは立ち上がると、ランスの肩を軽く叩いた。
「顔色が悪いぞ。着陸まで適当に休んでろ」
「あ、うん」
◆
ランスが艦長室から出ていったあと、帝都にいるヘッケルから音声通信が掛かってきた。
『いやー、やっと繋がりました。艦長、皆ご無事ですか? 朗報です。地下施設のセキュリティを突破しました。どうやらロストテクノロジーの開発施設だったようで、アンドロイドを含む機械兵器の開発にも使われていたようです』
ヘッケルは、興奮気味の口調でまくし立てた。
「ご苦労さま。こちらは無事だ。ベッキーの母上と弟は見つかった?」
『ただいま全フロアの電源設備をハッキング中です。もし監視カメラが設置されていて、作動していれば確認は可能かと。おっ、ありますな。ん? 何やら離れの倉庫に人影が。画像を転送いたします。……この二人でしょうか?』
画像は荒いが、服装と姿かたちは確認が取れた。
「おそらく。位置を共有してくれ。二人の写真は局の共有データ内に保存してあるから、確認を続けてほしい。本部への報告も頼む。施設への突入は、いずれ北部がやることになるだろう。その際はサポートを」
ヘッケルは新たな情報を得られたら知らせると告げ、通信を切った。
ブレンはモニターを見上げる艦長の背中に向かって声を掛けた。
「まだ人質の安全は確保されてねえ。割ける人員も少ない。先に救助、それからランスの仕事にしたらどうだ。だいぶ疲れてるみてえだった」
「いや、日が沈むまでにしないとランスが凍え死にしちゃうだろう。だから人質救助もザワークラウトに頼めないかなと思ってね。ああ嫌だな。でも背に腹は代えられない、仕方ない」
艦長はブツブツ言いながら、ブレンに物言いたげな視線を向けた。
「テメー、貸しふたつだぞ!」
「ありがとう、愛してるよ」
艦長は全く心の籠らない調子で言いながら、モニターに映らない位置に隠れた。
着信のビープ音が鳴る。ブレンは舌打ちして壁面のスイッチを押して応答した。
モニターに映ったヴェッティン艦長は、尊大な態度で口を開いた。
『先ほどは断っておきながら、今さらやっぱり燃料補給と支援に来いだと? こちらはもう帝都に向かっているところだぞ。大した度胸だな。で、ホーエンシュタウフェンの具合は大丈夫なのか』
「ご迷惑と心配をおかけして申し訳ありません。うちのクソ艦長なら生きてますんで大丈夫です。非常に心苦しいのですが、人質の救援にも手を貸していただけませんか。例の研究施設についてはそちらにも通達があったかと。その脇の倉庫に、うちの者の家族が囚われているようです。病人でして……」
『研究施設の件は聞いている。人質と言うが……うちの者が中央のお使いとやらに関わって問題はないのか? 上の許可は?』
ヴェッティンの態度が軟化した。
「そこはご安心を。このご恩はいずれ」
『貸し一つ、いや二つだ。給油と救助に一機ずつ回す』
「ありがとうございます。詳細はこれからお送りします」
通信が切れると、持つべきものは良き友だね、と言いながら艦長が部屋の隅から出てきた。ブレンは指の関節を鳴らした。
「んじゃ、次からはその良き友とやらと仲良くやれよ、な?」
「何言ってるんだ、友はきみのことであってザワークラウトじゃあない」
「俺もそのザワークラウトだ、アルビオン野郎!」
ブレンは艦長の襟元を掴んだ。
「照れ隠ししなくていいのに」
彼は口調に反して冷え切った目で笑っている。
ブレンは、その瞳に既視感を覚えて手を離した。
彼がこの国に来たばかりで、ろくに言葉が通じなかった頃によく向けてきた目だ。
「リアナのこともレベッカのことも聞いた。お前のせいじゃねーだろ。ランスと鮫のこともだ」
艦長は首元の乱れを直し、執務机の端にもたれかかった。
「もうそんなことで一々悩んだりしなくなったと言ったら、きみは失望するかな」
「頭では納得してても心のほうはそうとは限らねえ」
「君の愛って、ときどき重くて勘違いしそうになる。あんまり優しくしないでくれ。アストラが僕らのやり取りを見ているときの目は、なんだか変だから」
「変? あいつはテメェなんかに嫉妬しねえよ」
「わかってないなあ」
軽い口調で話を逸らすということは、弱音を吐きたくないから触れるなと言いたいのだろう。
ときどき、こうして拒絶される。そのたびにブレンは歯痒く思う。
たしかに、心を許した女の前でしか吐けない弱音はあるけれど。
それが永遠に失われてしまったときに、友人じゃ不足だっていうのかよ。
つい癖でズボンのポケットをまさぐるが、煙草は勿論、キャンディもなかった。ブレンは舌打ちした。
艦長は、卓上の箱からチョコレートの包みを取り出すと、投げて寄越した。ブレンは片手で捻って中身を口に放り込む。
甘ったるいホワイトチョコだ。一粒で十分。
相変わらず高級品ばかり食ってやがる。
「あ、貸しふたつだったか」
言いながらもう一つ出そうとするので、「これでチャラになるわけねぇだろうが!」と、ブレンが再び襟首を掴もうとしたとき。
ノックもそこそこにモニカが入ってきた。
「やあ、モニカ。止めてくれる人がいなくてちょうど絶望してたところだ」
彼女は二人の様子を見ると、不安げに目を瞬いた。
「え、えと、絶望していらっしゃるようには見えませんが……。その、アーノルドの仮修復が済みましたのでご報告に」




