ビッグシティ・ドリーム (1)
新幹線の席に乗り込んで自分の座席を探し、網棚にキャリーケースを載せて、脚にピタリと密着しているデニムと同じ紺色のシートに腰を下ろす。スマホを開いて時刻を確認すると、11時50分。出発まではまだ5分ほどある。
ふぅ、と一息吐きながらメッセージアプリを開く。チャットリストの上から母親、けい、父親、そして……
『東京で俺とひと稼ぎしようぜ』
堀木治からそんなメッセージが届いたのは、居心地の悪い実家の布団で寝つけずにいた夜のことだった。
治は中学時代からの旧友である。彼は高校卒業と同時に東京の大学に行ったので、俺たちの生活は大きく離れることになった。それは距離だけの話ではなく、心理的な意味でもそうだった。
東京の国立大へ経営学を学びに行った治とは対照的に、俺は地元の大学に落ちて見事に一浪。浪人生活の末にランクを下げた滑り止めの私大に合格したのだが、その頃には俺のモチベーション――IT関連に強い弁護士になるという夢があった――も冷めきっていた。そんな状態で、楽しい学生生活を過ごせるはずもない。1年間を空虚に過ごしている内に、気が付けば中退していた。
そんな折に治に誘われたのが、何かしらの『儲け話』である。窓から防砂林が見える慎ましい定食屋で細々とアルバイトをしていた俺にとって、『東京』にいる治からの『ひと稼ぎ』という単語は大変な金言に思えた。まさに示し合わせたかのような、素晴らしいタイミングである。一攫千金、アメリカンドリーム、100億万円。そんな言葉に脳を支配され、一も二もなく治の誘いに乗った。
両親もまた、フリーターから転身して上京しようという決意には理解を示してくれた。いつから貯めていたのか、50万円を手元金として渡して、
「その代わりもう家には住ませないわよ」
茶封筒を渡す母のその言葉に初めは感動したものだが、今になって考えると寒気がする。早い話が家を追い出されたのだ。通りで実家の居心地が悪かったわけだ。
しかし特に心配事があるわけでもない。
治の話では社宅が既に用意されているらしく、仕事もいわゆるブラックな感じではないらしい(その辺りは俺たちの特異性のおかげだろう)。不定期だが休みはきっちり確保されていて、福利厚生も整っているとのこと。
『いくら稼げる見込み?』
気になるところはやはりそれである。
『下手すりゃ億単位で狙える』
……これは怪しい。
そう考えるのが普通だが、俺の堕落した生活はとっくの昔に正常な思考力を奪っていた。
☆
東京駅の新幹線ホームに降り立ったと同時に押し寄せてくる人の波は、改札を抜けてからもそのうねりを抑えることはなかった。豪雨の後の河川さながらに動くその中で、俺は一切の行動意思を放棄して流されるままになっていた。天井に吊るされていたり壁に掛けられていたりする案内表示には目もくれず、必要最小限の動き――改札機に切符を通したくらいだが――以外は一切能動的に行なわなかった。時刻を確認することすらしなかった。ただひたすらにキャリーケースをガラガラと引いて、流されていた。
人間の河川に呑まれること数分。ガラス張りになっているドーム型天井の真下に放り出された。大群衆のうねりから解放されて、ようやくパーソナルスペースを確保できたその時、
「蓮!」
短く、しかしはっきりと名前を呼ばれた。
俺はそこでようやく、自分の意思で足を止めて声のした方へ踏み出していく。
「久しぶりだな」
2年ぶりに再会した治の第一声は、愚直すぎるほどに素直な挨拶の言葉だった。
昔から真っ直ぐな奴だったな、とぼんやり思っていると、照れくさい懐かしさがこみあげてくる。
「変わらないな」
俺はそう返した。意図してその言葉を選んだというより、言葉が自然と浮かんでそのまま口をついて出た感じだ。そして、それは事実だ。
堀木治の外見を構成するほとんどのマテリアルがそうであるように、短く切りそろえた焦げ茶の髪は生まれつきのものだ。高校時代は伸ばしていたのでやや暗黒色に見えていたが、髪を切って毛量が軽くなったので本来の色を取り戻したように見える。
彫の深い精悍な顔立ちも昔のままで、瞳の中に残るあどけない輝きも昔のままだ。
スポーツメーカー――昔はアディダスかプーマだったのが今はKELEMEになっているので、多少嗜好は変わっているようだ――を好むファッションスタイルもそのままだ。
ただし眩しいくらいに白いアウターシャツは別だ。おそらくスポーツブランドのものではない。他に見える数少ない変わったところと言えば、体格が少しガッシリとしたくらいか。そしてそれは良い変化に思えた。
「変わんないかな? これでもだいぶ生活は変わったんだけど」
「そりゃ東京で億単位狙って稼いでるんだから……生活は変わるだろう」
「でも俺自身は?」
「昔のまま」
そうか、と言って治は顔いっぱいに笑みを浮かべた。
治の案内で、俺は職場へ向かうことになった。道すがら治は仕事について事細かに説明してくれた。
「社宅があるから、当分はそこに泊まってくれ。ま、これはメッセージで送った通りだ」
キャリーケースをガラガラと引く俺を先導する治が、雑踏に押し流されないよう踏ん張りながら言う。
「そうだね」
話を聞いているサインとはぐれていないサインを兼ねて、俺は必要以上に相槌を打つ。天井がガラス張りなので日光が差し込むが、やはり屋外とはかけ離れた空気感だ。人混みのせいで喚起が滞っているのかもしれない。とうてい快適とは言い難い。
イメージしていた通りの東京といった感じだった。つまり、ダーティなイメージだ。
「仕事はまぁ、いわゆるブラックってやつとは違う。特殊っちゃ特殊だから、楽ではないけど、なんていうか……」
治は困ったように頬を掻きながら、「ほら、分かるだろ? 俺たちの……」と口ごもっている。
「分かるよ。その辺は理解できてる」
俺が努めて穏やかにそう返すと、治はホッとしたように「助かる」と答えた。
「あとはえっと、給料は弾むけど働き次第。早い話が完全出来高制」
「じゃあ上手くいけば、俺でもバリバリ稼げるってこと?」
「もちろん。億単位狙えるってのは嘘じゃない」
俺の気分は一気に高まった。ここが東京駅でもなく雑踏の中でもなければ小躍りしていたかもしれない。そのくらいの高揚だ。
「あと福利厚生の件だけど、これは本当にデカい」
「どんな?」
「まず仕事中のはもちろん、怪我・病気の治療費は全額支給だ。というより専属の医師がいるからわざわざ病院に行く必要がない。あとは設備も良い。ジムもあるし図書館もあるし、食堂もカフェもある。それに休暇。これも仕事ぶりによるけど、ボスに言えば基本はオッケーしてくれる。あとは、研修だな。慣れるまでは絶対に1人で仕事させない。後は先輩が個人的に稽古つけてくれたりもする」
「なるほど」
なるほど、とは言ったが覚えきれるわけがない。だがとりあえず相当な大企業なのは分かった。それに家を探す必要がなくなったのは良い。しかもそれが無料で支給されるなんて、本当にラッキーだ。
これだけ充実していると逆に不安になるものだが、治がこれだけ信頼しているなら問題ないだろう。
「正直ピンと来てないだろ?」
「まぁ正直」
素直かよ、と治は笑って言った。笑い上戸なのも変わらない。
☆
駅舎を出ると同時に雑踏からは解放されて、代わりに爽やかな春の陽気と都会の煙たい空気の混じった街に放り出された。
――ここが東京か。
予想していた、とは言わないが、やはりイメージしていたダーティな印象そのままという感じだ。空気が淀んでいるし、人も皆どこか忙しないようで、外国人ですら観光というよりもビジネスが目的で来ているように見える。
なんというか、遊びがない。それが、この都市に降り立って抱いた初めての感想だ。
「ここ。真っ直ぐに自然が広がってるだろ?」
隣にいる治が、真っ直ぐに前方を指さす。そちらを見ると、確かにそこには広めの公園程度に緑木が茂っている。ただそこには何か、もっと異質で圧倒されるような何かがあった。
それはいわば、オーラのようなものだ。
「あれが皇居だ」
俺はなるほどと思った。