序章
東京の街をイメージしてほしい。どこか一部分の風景ではなく、全体を眺めることができる俯瞰したイメージだ。
俺は生まれてからずっと、空から見た時のそれはいつも夜だった。闇夜の底で煌めく街並みを思い浮かべて、それこそが東京であると大した根拠もなく確信していた。赤、青、白、黄色……黒以外のあらゆる色を内包しているとさえ思えるほどに、色彩豊かに輝く街。夜景。俺の中で、東京はそんな姿をしていた。
☆
靴ひもをしっかりと結んで立ち上がり、つま先で軽く地面を叩く。そうすることで、明るい青色をしたナイキのスニーカーが、俺の足に馴染む感じがする。逆に言えばどんなに履き慣れた靴でも、この動作をしてからでないと足裏に上手く馴染まない。どうにも浮いているような、そういう奇妙な不安定さに襲われる。
「忘れ物ない?」
僅かに汗の滲む手で、引き戸の取っ手を握ると同時に、背後から母親の声が飛んでくる。
「大丈夫だよ」
多分、と心の中で付け加える。
大丈夫なはずだ。確信を決定づけるようにして、キャリーバックの取っ手部分を握る左手に力を込める。ヌルリとした手汗の感触が伝わってくる。
3日周期で回せる分の衣服(お気に入りのものを厳選した)、タオルとバスタオルはそれぞれ5日分、洗面用具、本、その他思い付きで適当に。問題ないはずだ、必要最低限の分はキチンと入れた。再三確認したはずだ。きっと大丈夫。不安がる必要はない。
「本当に東京まで行けるの? 新幹線乗れる?」
見送りに来た幼馴染の女友達が心配そうに声を掛ける。本当に、心底不安そうな様子で。
「なぁけい、俺たちは今年でいくつだ?」
「22歳」
「そうだ。大抵の人間は、二十歳を超えれば何とか新幹線に乗れる」
俺がうんざりしてそう言うと、けいは腑に落ちない様子で「そうかな?」と首を傾げている。
吉岡けい。俺の幼馴染。
浅黒い肌と、小柄だが引き締まったアスリート体型が特徴のスポーツ少女。「けい」なんて春らしい名前をしているが、その人柄はどう転んでも夏を想起させる。水泳の府大会で優勝した経験もあるくらいには、サマーガールの色が強い。
しかしそれは逆説的に筋肉バカともいえる。上腕二頭筋が盛り上がっているとか腹筋が割れているとかではないが、例えばこういう俺のデタラメな小言に対しても真に受ける節がある(しかも気の利いた返しをしてこない)。
もちろん、上京に際して見送りに来てくれるのは素直に嬉しい。持つべきものは友達である。というより、ほとんどの幼馴染の例に漏れず、俺はけいに片思いをしている。あるいは両想いかもしれない。
いやそこはどうでもよくて、重要なのは俺が彼女に何か言うチャンスはここにしかなく、そしてそのチャンスを活かす勇気が、いまの俺には出涸らしほどもないということだ。
これを逃せば、きっとチャンスは二度とない。
「とにかく、お前が心配しなくても俺は大丈夫だから」
大嘘である。なんだったらついて来てほしい。そんなことは口が裂けても言えないが。
「でも料理できないじゃん?」
「冷凍食品でなんとかなる」
キャリーバッグの取っ手を伸ばしながらそう言うと、けいはもう一度「そうかな?」と呟いた。今度のはデタラメじゃない。欲を言えば「じゃあお前が作ってくれよ」とか言ってみたい。むしろそれを言う機会はここしかないのだろう、言わないが。
「残りの分は明日にでも届くと思うから。他に何か必要なものがあったら、いつでも連絡してちょうだい」
母親が口を開いたのを皮切りに、俺の中の何かが止めどなく滑らかに動き出す。引き戸を勢いよく開け、キャリーバッグを引きながら1歩踏み出す。
「大丈夫だよ」
口元を綻ばせながらそう返し、2人に片手を上げて実家を出る。
もうこの先の動作は止められない。寂しくなったら、東京にいる友人を訪ねればいい。実家には、まとまった休みが取れれば帰るつもりだ。けいには……また今度いい機会があるだろう。いまはタイミングじゃない。
いまはタイミングじゃない。
――今から俺は、東京で新しい生活を始める。
穏やかな陽光を顔に受けながら、脳内でそんな風に言語化して決意に代える。心機一転。心を入れ替えて、俺は東京へ行くという新たな状態へ自分を入れ替えていく。
「絵葉書送るねー」
「元気でやんなさいよー」
けいと母親のエールを背に受ける。次の瞬間には、俺の姿はそこから消えて別の場所に現れている。