鬼のマダム
そろそろシンディにも家庭教師をつけなくてはね。
そんなお父様の言葉に笑顔で固まってから数日。その人は私の前に現れた。
まだ病み上がりなので、を理由に断るかどうか悩む暇はなかった。いや、社交界デビュー出来ないとしても16歳まで生き残ればその後の人生は続くのだ。それを考えると全くの未教育はまずい。仮にも侯爵家のご令嬢がそれではいけないと、思い直しはしたのだが如何せん。
「エッッックセレント! 素晴らしいですわお嬢様! 本日が初めてとは思えません!」
この人、我が強い……。
「……そ、そうですか……?」
「ええ! 本当、勿体ないですわね……。レッスンの時間をもっといただけましたら、この国で一番の弾き手だって夢じゃありませんのに」
「仕方がないですわ。体が弱いもので」
きりっ。いけしゃあしゃあと受け答えをして、私は額の汗を誤魔化した。国一番の弾き手ですって? そんな面倒そうな肩書きはいりません……。
真っ赤なルージュと大きな眼鏡が特徴的な彼女はマダム・アンバー。
私の体調が良さそうな時だけ、週に1度くらいの頻度で家にやってくることになったこの国1番と評判の家庭教師だ。
ありとあらゆる令嬢の教育を施してきたことで有名な彼女は、「どんな身分のどこの誰であっても自分が認めた生徒以外には何も教えない」というのがポリシーらしく、実際に彼女に教育を断られたことで名前に傷がつき、社交界デビューも失敗したという貴族令嬢は珍しくないらしい。
そんな彼女についた異名は「鬼のマダム」。今となっては自分の子に相当の自信がない限りはどの家もマダムに教育をお願いすることはないという。……そんな彼女にだ。まだ6歳になったばかりの引きこもり娘をお任せしますかね、お父様。
「初めは週に一度だけだなんて一体どんなご令嬢かと、寧ろ期待に胸を膨らませておりましたが……そんな期待を上回る優秀さに、私、久方ぶりに胸が震えましたわ」
「そ、そこまでおっしゃるほどでは……」
「いいえ! 今まで数多くのご令嬢に教育を施してきた私の目に狂いはありません! シンディお嬢様こそ、いずれこの国で誰もが羨むご令嬢になられるお方……」
「……」
なんかさっきよりももっと面倒な肩書きつけられた……。
最初のレッスンはピアノだった。シンディはこの時鍵盤に初めて触れたのだが……勿論それはこの世界ではの話。
私は前世ではエレクトーンを習っていたので、大抵のものは楽譜を見ればそこそこ弾けてしまう。が、流石にそんなことしたら目立つだろうと、余計なことはせず、先生の指が示す通りに弾くだけという誰でも出来るようなことをしたはずなのに……。……それだけでもここまで騒がれる始末。おかしいでしょ……。
……いや、そもそもマダム・アンバーは初対面の挨拶の時点でちょっとおかしかったな。ただ本で読んだ通りの手法でドレスの裾を摘み普通に挨拶をしただけなのに、その瞬間目を輝かせて凄い勢いで褒め千切ってきたし。
まぁ、多分毎日やることがなくて退屈している娘に父が気を利かせてくれただけなんだろうな。最近では余程のことがないとそもそもご令嬢に会うことすらしないと聞いていたし……。
(噂は所詮、噂ってことか……)
家庭教師のマダム・アンバーと言えば、生徒を滅多に褒めない上、例え相手が王族であろうとお世辞は言わないという教育理念が王様に気にいられているこの国一番の家庭教師だという噂だったが……。
「完璧な言葉遣い! 一糸乱れぬ所作! とても未教育の……それも6歳のご令嬢とは思えませんわ! ああ、引退を前にしてまさかここまでの生徒に出会えるだなんて私はなんて幸せ者なんでしょう……」
「……」
褒め殺しである。お世辞と分かっていても思わず照れるほど。しかも勢いが凄いのだ。思わず圧倒されて否定も出来なくなってしまう。いや、正確にはしないことにした。最初にそんなことないですよと言ったら凄い仰け反りながら「謙遜?! このお歳で?!」と言われたのが怖かったからだ。……あれは本当に怖かったです……。
「お身体が弱いため毎日本ばかりお読みになっているとお聞きしましたが、まさかこれだけのものをお読みになられているだなんて驚きですわ」
「いえ、読んでると言っても眺めているだけで理解しているわけでは……」
「私が今まで担当してきたご令嬢の中でも、その年で文字を読み、このような分厚い本を手に取った者などおりません」
「……読める文字は少しだけで、読めないところはなんとなくなので……」
「お嬢様。確かに、人は5歳ほどで自分の名前を書いたり、簡単な絵本を読むことは出来ます。けれど誰かに言われるまでもなく本に興味を持ち、文字を理解し、持ち上げるのがやっとな本を開きその本を一日中眺めるようなことはいたしません。……いえ、出来ませんわ」
「……っ」
……そうだ。こうやって並べられれば確かに気持ちの悪い子供。奇妙で、歪。普通じゃないと、誰もが思う。そうだ、今までは侯爵家にいる人間にしか会ったことがないから分からなかった。色眼鏡なしで見れば、シンディ・トワールは、誰からみても異質な存在――。
「……そうですよね、私は、やっぱり、」
「ええ。つまりお嬢様は……天才なのでございます。まさに神がこの世に産み落とした奇跡の御子。神童でございます」
「……えっ?」
「ああ、その御子をこの手で磨き上げる大役を下さった神に感謝します……」
「……」
うん。やっぱりこの人、大分変わってる。
だって私は誰から見ても"気持ち悪い子供"なはずだ。マダムのいうとおり、私は普通じゃない。前世の記憶がある時点で既に普通ではないのだから仕方がないけれど、その感覚が抜けずに子供らしさを保っていられない私はやはりとても違和感のある存在のはずだ。
天才。そう言いきれたらどれだけよかったか。だけどそれって、普通は教えてすぐ文字を覚えるとか、そういうレベルのはず。教えていないことを知っているのは天才ではなく、……。
だけど、よくよく考えるとこの世界のこれくらいの時代なら、こういうこともあったのかもしれない。
未来が見えるとか、雨を降らせるとか、そんな能力を持って生まれた人間は私の世界にも存在していたと言われている。勿論それが本当なのかは分からない。だけど私の時代にだって預言者はいたし、超能力や霊能力を自称する人も沢山いる。私はその中の数人くらいは本物なんじゃないかなって思ってた。
では、実際に目の前にそんな人がいたらどうだろう? 凄い! って素直に思える人は多い。だけどその中にはその力を利用しようとか、甘い蜜を分けてもらおうとかって人も少なくないはずだ。だけど実はそんな人たちはまだマシな方で。
普通じゃない人。普通にはない力。普通とは逸外れた、違う存在。違う人間。そんな人を前に、自分という人間や周りの人間の数だけを平均化して、多い方が普通だって認識して、少数派を異物だと決めつける人もいる。
そんな人がもし今の私を見たらこういうだろう。
"化け物"だって。
きっと指を指されるだけでは済まされない。状況によっては石を投げられ、時代が時代なら火にかけられる。
異とは、そういうことだ。
「……」
「そもそも初めて鍵盤に触れた方ならあんなにリズミカルに指し示す指を追いかけられませんわ私が教えるまでもなく手の形は丸を掴むよう意識されておりましたし座る時の姿勢は勿論腰かける深さもばっちりでとても初めてだなんて(つらつら)」
「……先生、あの……」
「リズムの取り方まで完璧だなんてもう正に音楽の申し子としか……はい? なんでしょう?」
「あの、いきなりで申し訳ないんですがその……私って、少し、変……じゃないですか?」
「……」
「自分でも意識していなかったんですけど、先生に言われて少し、そう、思ってしまいまして……」
最後には尻すぼみになっていった私の言葉にきょとんとするマダム。しかしその顔が少しずつ私の言葉の意図を理解したのか、先ほど自分を賛辞していた光悦とした色は消え、初めに会った時の国一番の家庭教師の顔になった。
「……ええそうですわね。確かに。そう言う解釈もございますわね。けれど私はですね、そのような言葉は使わないのですよ。そう言う時こそ、胸を張って"特別"だとおっしゃるべきです。……丁度お嬢様のご両親が、私にお嬢様をそうご紹介して下さった時のように」
『シンディ……私たちの娘は、他とは違います。あの高熱で倒れた日以来……体は弱くなってしまいましたが、その代わりに別の何かを手に入れたようでした』
『別の何か、でございますか?』
『娘といればそのうち"それ"に気づかれることでしょう。……マダム・アンバー。親の贔屓目などとは思わないでいただきたい。真実、シンディは"特別"なのです。あの年では信じられないほど賢く、親の私から見ても時々とても子供とは思えないほど大人びていることがある。けれどそれでもあの子はまだまだ幼い子供……どうか、貴方のお力で、娘を導いてやっていただきたい』
『お願いします』
「あのトワール侯爵が私などに頭をお下げになるとは……そこまでされてお嬢様にお会いもしないなど、いくらこの私でも、そんな鬼にはなれませんことよ」
「……おとう、さま……」
この瞬間、私は自分が恵まれていることに気づいた。いや、気づいてはいたんだ。そうだ、分かっていたことじゃないか。今更認識するまでもない。
お父様は私がどんなことを言っても子供を理由に駄目だと言ったり、私の言動を嘘だと疑ったり、ましてや私を否定するようなことは一度もなかった。こんなにも普通じゃない娘なのにだ。
お母さまだって、病弱になりこのままでは社交界デビューさえ難しいという娘なんて家の恥でしかないだろうに、それでも一度だって私を叱ることなく、いつも味方でいてくれた。貴方が無事でいてくれればそれでいいのよって、優しく抱きしめてくれた。何も望まなかった。ただ私の幸せだけを願った。母の鑑のような人だ。私もそんな母になりたいとすら思った。
我が家の使用人たちだってそうだ。料理人は、私が拙い文字と文章で書いたレシピを見ても、一度だって子供が書いたものだと馬鹿にすることはなかった。丁寧にその紙に書かれている文字を読んで私に確認を取り、分かりましたとだけ言って、後日には完璧に再現された料理を出してくれた。他の使用人たちもそうだ。私を一度だってそんな目で見たことはない。大切に蝶よ花よと可愛がられてきた。誰も私を否定しなかった。怖がることはおろか、何故か尊敬までしていたのだ。本当に何でかは分からないけど。
悪役令嬢、シンディ・トワール。
彼女は将来美人だが傲慢で、我儘で、人の気持ちなんて考えずに自分の好きなようにする自分勝手なお嬢様に育つ。だけど、それはきっとこんな環境だったからなのだろう。
末っ子の娘。可愛くて可愛くて仕方なかったのだろう。なんでも与え、叱らず、好きにさせた。その結果なんでも手に入るのが当たり前だと思うような子供に育った。
(だけど、私は違う……)
私には前世の記憶がある。裕福ではなかったが家族には恵まれたと思っている。だけどそれだって、大きくなってから気づけたことだ。
学生の時に毎日お弁当を作ってくれていた母の大変さと有難さを知ったのは一人暮らしをして自炊の大変さを知ってから。毎朝誰よりも早く起きてお弁当を作る。学生の時は冷凍食品ばっかりだなんて文句言ったりもしたけれど、自分が自炊するようになって早3カ月でインスタント生活になってその偉大さを感じた。
好きな物を買ってもらえるのは誕生日とクリスマスだけ。だから高価なゲームなんかは家には少ししかなくて、おねだりしても買って貰えないことに「他の子たちは皆持ってる」なんて愚痴をこぼしたりもした。だけどそのおかげで私は物を大事にする人間に育った。年に二回しか買って貰えないものだからこそ、大事に大事に使ってすぐ飽きたりなんかしなかった。
今の私は確かにシンディ・トワール侯爵令嬢なのかもしれない。だけどその中身は"私"なのだ。だから上手くやっているつもりでも綻びが出てしまうし、どうしても周りからは浮いてしまう。
でも、そんな私でも受け入れてくれる人がいる。
それはとても幸せなこと。だけどそれだって、シンディに生まれ変わっていなければ気づけなかったことなのだ。
(ごめんなさいお父様お母さま。私がもっと賢かったら、婚約者になっても破棄されずに王妃になる未来だってあったかもしれないのに……)
逃げることしか頭にない卑怯者でごめんなさい。だけど、だけど絶対に、死んだりなんかしないから。王太子と婚約をして色んな人に期待させておいてから婚約破棄だなんて、そんな騒動で家の名前に傷をつけるくらいなら、初めから期待なんてされない娘でいるから。親不孝者でごめんなさい。だけど、絶対に、生きてみせるから……。
私は改めて決意を胸に拳を握った。そうだ、もう私はシンディなのだ。ここにあるのはもう、一人の人間の命だけじゃない。
天才でも、……化け物でも。一人でなんて生きていけない。私はずっと一人で立っているつもりだった。この世界で、一人で生きていくつもりでいた。
だけどそれこそお門違いのお嬢様思考。身勝手な傲慢もいいところだ。私は一度だって一人で立っていたことなど無い。周りに支えられ、時に道を教えてもらい、手を差し出され、歩いている。こんな、まだまだ短い時間の中ですらも。
私は一人ではない。
そしてそんな当たり前で大切なことに気づくのは、いつだって些細なきっかけなのだ。
「……私、アンバー先生が家庭教師を引き受けてくださって良かったです」
「この私にそんなことを初日から言った生徒は、お嬢様が初めてでございますわ」
ちょっと、いやかなり変だけど。
だけどこの人なら、こんな私にだって私が私だけでは知り得ない沢山のことを教えてくれる。そんな気がした。
少なくともこの人は、私が歩く道の障害を全部取り除いて平均台のような道を歩かせることはしない。まずは地図の読み方を教える所から始める。そんな素晴らしい家庭教師だから。
「さて、今日はもう軽く宿題を出してお終いにしようかと思いますが……シンディお嬢様、算術については本などもうお読みになりましたか?」
「え? 算術はまだ足し算しか、」
「もう既に出来るのですか?! やはり神童……!」
「(またしくじった?! ああもう子供育てたことはないから普通の子供の基準が分からない!!!)」
だが悲しきかな。私がまず知らなければならない"あの世界とこの世界の違い"について教えてくれる人は誰もいなかったので、私はそもそもこの世界の教育水準が自分の知る世界よりもずっと遅れているという当たり前の事実にこの時はまだ気づいていなかったのだ。
そして当然掛け算割り算はおろか、この世界ではまだ解明されていない式まで出来ることは言わないでおいた。後半については永遠に墓まで持っていく所存である。
2020年6月22日改稿