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「申し訳ないが貴女と婚約することはできない。この話はなかったことにさせてもらおう」
端正な顔の男が、一段高いところから話しかけてきた。
数秒言っていることが理解できず、私は口に入れようとしていたお肉を落としてしまう。
あ、もったいない。
「初めて顔を合わせる場でこんなことになってしまいすまない。
だが、話を聞く限り貴女はこの国の妃になるには相応しくないように思う。大人しく引き下がっていただけないだろうか」
あくまで丁寧に男は言った。サファイヤブルーの瞳からは強い意志を感じる。
何事かと思ったが、横に立ちニヤニヤする女の顔を見て合点がいった。
「あー」
「お待ちください!」
別にいいですけど、と言おうとすると後ろから大きな声が制止した。
振り返ると豚のように肥え太った醜い髭面が息を切らせて走ってくるところだった。
「ど、どういうことですか!うちの娘になにかご不満がおありですか?」
丸い鼻をヒクヒクさせて豚……もとい私の父親にあたる男が喚き立てた。
唾を飛ばしながらこの場に相応しくない大声を発する様子に、目の前の端正な顔が歪む。
「ここで話すことではない。後日正式に沙汰を出そう。騒ぎ立ててすまなかった。引き続きみんな楽しんでくれ」
「お待ちください!」
父の懇願にも耳を貸さず、この国の第一王子と呼ばれる男は踵を返して歩いていく。
傍らにはブロンドの長い髪を揺らめかせる女が寄り添っていた。
私は皿に残った最後の肉をフォークに刺しながら父に視線を移す。
思った通り、憎悪に満ちた表情で私を睨みつけていた。
「はぁ~いったーい」
倉庫と見紛うような屋根裏部屋で私は床に両手両足を投げ出し転がった。
先程まで豪華なドレスを身にまとって最高級の料理を食べていたはずなのに、今の私はまるで手負いのドブネズミだ。
あーこんなことならもっと料理を詰め込んでおくんだった。もう一生あの美味しいお肉にはありつけないだろう。といっても、私の一生はもう少しで終わってしまうかもしれないが。
思った通り、屋敷に戻って早々に父は怒り狂いいつも以上に私を叩いて叩いて叩きまくった。
数刻前までは私は一応王子の婚約者だったので、ドレスを着た時に見えてしまう部分には配慮されていたように思うが、もはやその必要もないので実にやりやすそうだった。
手や拳だけならまだ我慢できるが、鞭を使われるとかなり長いこと傷が残るし、血も出るし、水が死ぬほど沁みるので本当に嫌だった。
思えばこの日のために生かされていたのだ。もう金をかけて私を残しておく必要なんてないだろう。まあ私にかかった金なんて外に繋いである馬の半分にも満たないだろうけど。
殺されるだろうか。それとも奴隷市に売られるか。はたまた売春宿?いやいや、私みたいなちんちくりんがその手の用途で売られることはないだろう。需要がないよ需要が。
あー、意識が遠くなってきた。今日は特別酷かったからな。普通にこのまま死ぬかもしれない。まあでも、最後にあの素敵な料理を口にできたんだ、そんなに思い残すこともない。
私は体の力を抜き、そのまま目蓋を閉じた。
「え?私が後宮へ?」
「このチャンスすら逃してみろ。お前は今度こそ魚の餌だ」
あ、やっぱり殺害コースだったか。いやそうじゃない。聞き間違いか?このたった2,3日の間に何があったんだ。
結論から言うと私は死ななかった。食事も水も与えられないのにしぶとく生き残り、体が動かないまま3日(もしかしらもう少し長く)が経過し本格的に死を覚悟したその時、この小汚い屋根裏部屋から使用人の手で連れ出された。
もはや両足で立つ気力さえなく、両脇を使用人に抱えられて執務室に到着すると、まるでゴミでも捨てるかのように床に放り出された。
「今回の婚約破棄で王子はまた婚約者探しをすることになった。本来ならもう心に決まった女がいるようだが、身分が身分だから陛下が納得されていない。そのため、後宮に10人ほど女を呼び、その中から選びなおすことになったようだ。そこにお前をねじ込む」
「いやーそれは無理じゃないですか?私、婚約破棄されてるんですよ?」
心に決まった女性というのは十中八九あの女だろう。気持ち悪いニヤニヤ顔が脳裏をかすめる。
それにしてもこの豚は金欲しさに気が狂っってしまったのだろうか。つい数日前に婚約破棄された女が、次の婚約者候補になれるはずもない。
「誰に向かって口をきいてるんだ!」
「っ!」
右頬に張り手を食らう。倒れないようになんとか踏みとどまる。
豚は脂肪で手のひらも柔らかいので、さして痛くはない。ただ、飲まず食わずの体はそろそろ限界だった。
「お前に流れる忌まわしき血がやっと役に立つ時が来たのだ。お前の母親が残した手記だ。これで1か月後の後宮入りまでに姿を変えろ」
目の前の床に、分厚くてゴツゴツとした本が叩きつけられる。
母のものと聞いて、私はすぐに慌てて拾い上げた。
「お母様の……?手記なんて一体どこに」
「余計な詮索をするな!いいか、一か月後までだぞ。それまでに習得できなければお前に用はない!」
そう言い捨てて父は使用人に私を連れていけと命じた。
乱暴な手つきで持ち上げられた私だったが、その視線はずっとお母様の手記に釘付けだった。
私の母は魔法使いだった。正確に言うなら、魔法が使える人間ではなく、本物の魔女であった。
この国では絶滅危惧種ともいえる魔女だった母は、その正体を隠しながら冒険者として生きていた。
ある日その実力を見込まれて、魔王討伐の勇者軍に勧誘された。数年の歳月をかけ魔王を討ち滅ぼし、帰国後に勇者と結ばれ、出来た子供が私である。
勇者は英雄として国中から祭り上げられ、国王も褒美に一部の領地と財産を与えた。
美しい魔法使いと結ばれ、幸せな日々を過ごした。
だが華々しい英雄譚はここまで。魔王討伐からわずか2年後、勇者は病に倒れそのまま帰らぬ人となった。
国中の人々が嘆き悲しんだ。そして誰もが残された私と母のことを気にかけてくれていた。
しかし、それも母が魔女の生き残りであることが明るみになるまでの話だった。
特にこの国で魔女がタブー視されているわけではない。魔女というのはあくまで種別で、特に偏見や差別があったとかそういうことはないのだ。ただ、時期が悪かった。
母が魔女であると分かると人々はこう噂しだしたのだ。
『勇者様は魔女に呪い殺されたのだ』
と。
程なくして、噂は国中に広まり、国王の耳にも入った。
ついに抗議の声に耐えかねた当時の王は、時代錯誤も甚だしく、母を火あぶりにし処刑した。
かくして残された私は、父である勇者の遠縁である、かの豚に引き取られたのであった。
母の手記には、簡単な魔法から上級の魔法まで、恐らく母が使えたであろうものがずらりと記されていた。
豚が言っていた「変身」の魔法は中級といったところだろう。
いままで魔法のまの字にも触れてこなかった私に、たった一か月で中級の魔法が使えるようになるだろうか。
さすがにこのままでは死ぬと踏んだのか、パンが1つとぬるいスープが部屋に用意された。
それを齧りながら私はまず最初のページをめくる。
一番簡単な魔法……それは風を吹かせるというものだった。
やり方は……「フィーリングで」と書いてある。間違いなく私と血のつながった母親の手記だ。
特に魔法陣や呪文は必要ないみたいだ。
杖とかも持ってないけど、いけるのかな。でも絵本とかの魔女は杖を持ってるし、あったほうがイメージはしやすいかも。
部屋を見渡すと、部屋の隅に天井の一部が割れて落ちてきた木材があった。
杖というか、これ棍棒だけど……まあいいか。
屋根裏の窓を開け、目の前の森に向かって棒を振ってみる。何も起こらない。
わざわざ外に向けて使ったのは、もしかしたら私にはものすごい魔法の才能があって、屋内で使ったら屋根裏部屋を吹き飛ばしてしまうのでは、という心配があったからだ。
まあその慢心もほんの数刻で砕かれてしまったのだが。
「できない~なんで~」
痛々しい呪文をつけてみたり、アホみたいな動きをつけてみたりしたが結局何度試しても初級の風起こしさえ出来なかった。気付けば外は暗く、空気は冷たくなっていた。ボロボロの麻袋みたいな服を一枚纏っただけの体はすっかり冷えきってる。
「さ、さむい……今日は一段と寒いわね」
恨みがましく手記のページをめくる。2,3ページめくると「火をおこす魔法」の項目があった。
もちろんやり方は「フィーリングで」
燃やせるものならたくさんある。ここは屋敷で使わなくなったゴミが集まる場所だ。
軽く焚火でも出来れば、今夜凍死せず済むかもしれない。
しかし、風が出ないのに火は出せる、なんてことあるだろうか。
少しイラッとして乱暴に手記を閉じた。そしてその辺に乱雑に置いてある棚に背中を預けて座る。
あー寒いなあ。今頃あの豚は暖炉の近くで脂っぽい食事をとっていることだろう。
この家の暖炉は馬鹿みたいな大きさだった。きっとあの傍は暖かいを通り越して少し暑そうだ。
目を閉じて暖かい炎を想像してみる。あ、なんだか体が温まってきた気がする。もちろん気のせいだけど、なんだか右半身が暖かい。暖かいというかもはや熱い。ん……?
驚き目を開くと、右手に持っていった棍棒の先っぽに煌々と赤い炎が灯っていた。
慌てて棒を持ち上げる。危うく床に燃え移るところだった。
「え……なんで」
風は吹かなかったのに、火は一発でついた。
私は棒を棚の間で落ちないように固定し、その灯りの下で手記を再度開いた。
1ページ目、先程と変わらず風を吹かせる魔法だ。2ページ目は水を出す魔法。3ページ目は樹木を操る魔法。そして4ページ目に火を出す魔法。
5ページ目に目を移すと、そこには雷を司る呪文。そしてよく見るとその下に小さい文字で
『以上5属性のうち、使えるのは基本的に1つだけ。私は天才だから全部使えるけど』
と書かれていた。