第八章
「ウチのわがままな娘がご迷惑をおかけいたしました。今後も何とぞよろしくお願いします」
お父さんが、深々と頭を下げる。
「迷惑なんて、とんでもありません。こちらのほうこそ、お世話になっています」
由梨絵ちゃんの寮と、ぼくが住む寮の中間ぐらいの場所にある喫茶店。
黒髪にショートカットだった由梨絵ちゃんは、栗色の髪になっていて、長さは肩の少し下ぐらい。
久々に会った瞬間には、別人のように思えてしまった。
「娘は、アルバイトの合間に、普通の料理教室に通いつつ、アスリート向けの栄養や食事の勉強もしていたんですよ。中学の頃から部活に明け暮れて、家の手伝いもしない、いいえ、できなかったのに」
お母さんが、感慨深そうな表情で話す。
「アスリートの栄養や食事か……。ぼくのためだけじゃなくて、自分の体づくりのためでもあったんでしょう?」
「そうなの」
由梨絵ちゃんがうなずく。
「これからもお互いに現役でやっていくんだから、役割を分担しようよ。何でも一人で抱え込まないでね」
「うん」
微笑みを浮かべつつ返事をした由梨絵ちゃんの顔を見ながら、ぼくは、ちょっとだけ後悔した。
「あ、まるで、もう一緒に住んでるような言い方だったかな……」
「じゃ、住んじゃいましょうよ。このお店の上に!3階に、空いているお部屋があるんだって」
「なんで、空いているって知っているんだ?」
「アパートやマンションを探すサイトで近辺を検索したら、このマンションが出てきたの」
だけど、企業の陸上部員として活動する自分たちは、勝手な行動は慎まなければならない。
プロだったら、早々に寮を出て一人暮らしする選手も多いが、企業の運動部は、何かと厳しい。
ウチの部では、結婚していない選手は、必ず寮に住むことになっている。
「もう、お互いの監督には、結婚の意思は電話で報告しておいたわ。お部屋のほうも、話が進んで、あとは私がこっちに来てから実際に物件を見て、正式に契約するだけの状態で……。今日は必要最小限な荷物だけ持って寮に置いてきていて、暮らしに必要な物はこれから買い揃えるつもりよ」なんと、根回しの早いことだろう。
でも、そもそもぼくが、『嫁さんに』と口走ったのが始まりだったのだ。
以前から知り合いだったとはいえ、指輪の交換をしていないどころか、交際期間すら全くないまま、お互いの『好き』という思いだけで結婚する。
「そうだ、ウチの親に話をしなきゃな」
その場で慌てて実家に電話すると、母が出た。
「急で済まないけど、結婚することにしたから」
「え?もしかして、できちゃったとか……。ウチの初孫……」
当然の反応かもしれない。
「赤ちゃんは、まだいないよ」
事情を簡略に説明すると、拍子抜けするほどあっさりと、明るい返事があった。
「じゃ、わかったわ。父さんにも伝えておくね。突然でびっくりしたけど、反対はしないから。時間ができたら、二人で顔を見せに来てちょうだい」
由梨絵ちゃんが、お母様とお話をしたいと言ってきたので、電話を代わった。
彼女も、彼女の御両親も、ぼくの母と和やかに話していた。