一人天和兜割
どういった方であれ多かれ少なかれ、賭けるものの大小こそあれ、ギャンブル、というものに手を染めた事があるかに思う。そうしてそういった方の多くが人生においてはっきり大切とは言いがたい筈の、その魅力というか、魔性にとりつかれるのだ。
私の場合は学生時代、学校に行くのも忘れ、明け透けに言うとサボって、しこしこ麻雀ばかり打っていた。フリーのデビューもわりと早い方だったと思う。あまり大きな声では言えないのだが、法律で定められている年齢制限も余裕で破っていた。
道場破りのつもりで、色んな雀荘を渡り歩いたものだ。しかし未成年者だったので、内心かなりびくびくしており、行く雀荘によって本名を変えた。行った事のある人は分かると思うが、まず最初にメンバー登録の紙を書く。あれは毎回年齢を詐称して自分とは全然関係ない名前を書いたりした。そうして甘い事に、身分証明書などの提示は一切求められない。
もっとも当時の話であるし、今はどうなのか、また地域によって異なるのか知らないが、私の通っていた地域の雀荘は軒並みそうであった。風営法のなんと緩い事かと、子供ながらに思った記憶がある。
そうして大人に混じっていっぱしのつもりで打っていた。日によって勝ったり負けたり、トータルでは確かに浮いていた。私は金持ちでもなかったし学生で他に収入があるでもなかったので、勝たなければ続けられなかったのである。
学校にいくと親に告げて、駅のトイレで制服から私服に着替え、雀荘に通っていた。名前を偽り、負けられないというスリルの中、大人たちを打ち負かしていった、自分を特別な存在なのだと思ったりもした。はい。中二病である。
半年くらいして次第に学校に通うよりも雀荘に通う日の方が多くなった頃、流石に親にバレて、怒鳴られるわ泣かれるわ。あの時は流石に深く反省したのを覚えている。しかし麻雀生活と決別するにはもうしばらく時間がかかった。
結局私の青春は、麻雀で破綻した。今となってはトラウマだ。もし過去の私が目の前にいたら、全力でぶん殴ってやりたい。
今はもう滅多に打たない。しかし当時はそれなりに回数をこなしていたので、色んな話があるといえばある。そういう体験談が少しでも皆さまのお暇潰しになればこれに勝る喜びはないと思い、この度筆をとらせて頂きました。
天和といえば、つばめ返しなどが思い付くだろう。自分の積んだ山の下段14枚を自分の手牌を伏せてそっくり入れ換えてしまう奴。利点は一人で仕込めるし、もし賽の目が違ってしまっても他人に流れる危険がない事。手慣れれば音などたてずにかつ素早く入れ換えてしまう事が可能だし、皆の集中力が途切れている時を狙えば、あっさり決まる。
私は友人との麻雀をイカサマありありでやっていた時期がある。後腐れない間柄の面子でやるなら、それなりのスリルが味わえるので是非お薦めしたい。現行犯で捕まればチョンボ扱い。満貫払いである。しかし決まれば役満なので費用対効果は高い。無論お互いに承知の上でやるのだから、目を皿にしてお互いの行動を凝視している。
しかしそんなの続いても4・5半荘で、疲れてくるとわりとどうでもよくなってスルー気味になる。
私が親の時、賽の目9と出して仕込んだ配牌11種13枚の国士と、下家が燕で入れ換えた国士が重なった。勿論私は私のイカサマに集中しているので気付いていない。5巡目くらいにアガり牌をツモり、13面待ちはダブル役満ありルールだったので、鼻歌を歌いながら頭を落としたら、下家が、ロン!
はらわたが煮えくり返る思いで点棒を払ったのを覚えている。
小説やら漫画やらで紹介されているイカサマは皆知っているので、各々、何とか他の人間の目を誤魔化す新技を考えてくる。
前述の私の14枚爆弾もその一つ。私はこの技を『兜割』と呼んでいた。
親の時、王牌となる自分の山右端の計14枚に天和のタネを仕込んでおき、賽の目を5か9と出す。配牌をとる時、4枚のブロックを崩さずそのままの形で手元においておき、計14枚のブロックをつくる。ドラ表示を捲るのは何処でも大概皆が配牌をとり終わった後なので、その隙をついた入れ換え技である。王牌を手前に出してドラ表示を捲る、という動作の内に、賽の目が9と出ていれば自分から見て左端の4枚以外の右14枚を抜き、手元の14枚と入れ換える。5とでれば最初にもってきた4枚以外の他の10枚をそっくり王牌と入れ換える。
普段から全ての配牌をとり終えた後から一列に並べる人、という印象の種づけが必要であるが、燕と比較して動作も音も小さく、バレにくい。賽の目も5が駄目なら9という保険があり、更に賽の目6か10なら多少強引ではあるがブッコ抜きという技でもってくる事も可能である。
何も14枚全て仕込む必要もない。というより、天和を狙って14枚吟味しながら念入りに仕込んでは山を積む段階でバレてしまう。前述の国士の場合もそういう理由大きく11種になってしまった出来損ないである。
私の場合はすり替え芸は得意であったが、仕込みが苦手で、洗牌時比較的集め易い国士無双をよく仕込んでいた。
一度、この兜割を駆使して配牌イーシャンテンの大三元を作った事がある。
4巡目、なに食わぬ顔でテンパイした。私は自尊心からリーチをかけた。どうだ。親の役満が決まれば、これでこの半荘は私の勝ちだ。そのリーチがいかに威圧的で場に削ぐ和ぬものだったか。
私のイカサマはバレていなかった筈だが、それでも嫌な気配を感じ取ったのだろう。対面が突然、ツモ!と叫んだ。
手牌を開けてみると、なんの事はない。リャンシャンテンの平和。
「あれ、チョンボだ」
「チョンボだな」
勿論、わざとである。
イカサマをイカサマで返されるのもまた一興。
勿論、今のご時世、余程田舎にいかなければフリー雀荘は全自動卓である。
派手な仕込みなど不可能であるが、それでもイカサマは出来る。いや、むしろ、全自動卓だからイカサマはないと安心している方々こそ格好の獲物なのである。私が長年麻雀で小遣いを稼いでこれたのも、派手ではないイカサマ、あるいはイカサマとは言いがたいくらいの、他の方がやっていない勝つ仕組みを行使したからというところが大きい。
その方法も紹介したいところではあるが、やめておく。何しろこの数十年、社会は色々と進歩しているというのに、麻雀という文化に関しては環境もルールもまるで進化していない。未だに、私の紹介したい手段を行使している方もいるだろう。そういう方々に迷惑をかけるわけにはいかない。
ともかく私は足を洗った身で、麻雀とは、もう殆ど関わっていない。
それでもたまに職場の同僚と、麻雀をやりにいく機会がある。表面上楽しんでやっているフリをしているが、否応にもイカサマ師であった自分を思い出す。
人を騙して小遣いを得ていた記憶など、トラウマでしかない。今では麻雀そのものが嫌いになったと言っても過言ではないのだ。
でも不思議なもので、同僚と金をかけず卓を囲んでいると、見知らぬ人間と本当の勝負がしたくなる。
トラウマでしかない青春だが、確かに私は、燃えるような日々を送っていたに違いない。
死ぬ前に一度、あの日々に戻ってみたい。全く矛盾しているが、そういう風に思ったりもするのだから、人生不思議である。
そうして最後に一言、お断りしておきたい。
これは小説で、お話も全部でたらめです。
ちゃんちゃん。