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うつくしい夢

【3人組】というのは、このシリーズのニックネームです。

キャプテンでエンジニアのリック・シルヴァー、パイロットで料理長のマチアス・ターラー、ナヴィゲーターのルイ・マルロー……人命救助のために銀河中を飛び回っている16歳の少年3人組が主人公で、一話完結のシリーズです。


「お、男の子じゃないか……!」

 ハーヴは、思わず叫んだ。

 タキシード姿の少年がシーツに横たわっていたのだ。ベッドの脇に立ちつくしたまま、しばらくの間動けなかった。

 ベッドの上の少年が、かすかな声をあげて顔の向きを変えた。それが合図になったようにハーヴは飛びすさり、サイドテーブルの上の受話器に飛びついた。

 何度か、キーを押し間違えた。

 相手が受ける前から、その名を呼び続けた。

「マック! マック!」

『はぁい?』

 まもなく、半分眠っているような声が、受話器の向こうから聞こえてきた。

 ハーヴは受話器にしがみつくようにして、

「ど、どういうことなんだよ、ベ、ベッドに……」

『どういうことって、おまえが俺に頼んだんじゃないかぁ。今日は疲れてるんだぞぉ。やっと交代したところなんだからな』

「ぼ、僕はね……」

『経験したいって、いったじゃないか。苦労したんだぜ、レーヴィングの錠剤を手に入れるの』

「そ、そんな……」

『黙ってろよ、一応、犯罪なんだから』

「で、でも……」

『まさか、眠ってる相手じゃいやだ……なんていうんじゃないだろうな、今更。目が覚めてる相手をくどく勇気がないから、今まで未経験だったんだろ?』

「そ、そうだけど、僕はね……」

『とにかくさ、そのホテルのパーティーからさらってきたんだから、上物だと思うよ。俺は眠ってる相手をいじりまわす趣味はないけどさ、おまえにやるのがちょっと惜しいような美形だった。うまくやって、俺にもまわしてほしいぜ、まったく』

「マック……」

『がんばれよ。レーヴィングはシャンパンに混ぜた。あと二時間は効いてるはずだ』

「だ、だって、男の子じゃないか!」

 やっといえた。爆発のようだった。マックが沈黙し、ハーヴも口をつぐんだ。

 やがて、マックがひとり言のように、

『おまえ、俺の性的嗜好を知らなかったのか』

「……」

『俺に頼むってことは、つまり、男の子が欲しいんだって、俺……』

「……」

『おまえが悪いんだぞ。俺に<経験したい>っていえば、そりゃ、男の子を抱いてみたいってことだとしか、俺は考えない』

「そんな……」

『ま、いいさ。相手が男でも、やることは変わらねえんだから。その子のポケットに、瓶を入れといた。そいつを使え』

「な、何?」

『入口に塗るんだぞ。間違えるなよ。慣れてない相手でも、おまえが初めてでも、失敗なく入るから』

 その後もいろいろアドバイスをしてくれたようだが、ハーヴは絨毯に座り込んで受話器を膝に置いてしまったので、もうマックの声がよく聞こえなかった。



「ごめんね、君」

 名も知らぬ少年にハーヴはいい、毛布で覆うために近付いた。

 パーティーからさらってきたと、マックはいった。まさか、給仕のひとりに睡眠薬をもられるとは思っていなかっただろうに。

 男の子を手に入れたくて泣きついた……と、マックに誤解されたのだ。それを思うと、耳まで熱くなる。ただ、女の子に近づけもしなかった二十二年を反省して、誰か紹介してくれないかい、といっただけなのだ。マックは万事承知したというウィンクと共に、彼が勤めるこのホテルに部屋を取るように勧めた。おまえの相手は、部屋で待たせておくからといわれ、恐る恐るドアを開けて……。

 そうしたら、ベッドにいたのは、タキシード姿の少年で……。

 このままでは窮屈だろうか。毛布を掛けようとした手を止めて、ハーヴは少年を見下ろした。

 確かに、マックが『美形』といったとおりだ。顔立ちの整った、しなやかな肢体の少年だった。

 上着を脱がせてあげよう。そう思い、衿に手を掛けると、シーツの上に小さな香水瓶のようなものが転がり落ちた。手にとってシャンデリアに透かす。中に透明な、とろりとしたものが入っている。

 入口に塗る。

 マックの声が耳に蘇り、ハーヴは悲鳴をあげそうになった。

 ぼ、僕だって、そのくらいわかるぞ、と胸の中でマックにいう。

 男の子を、女の子の代わりにする方法くらい、ハーヴにもわかる。ただ、自分がそういうことをしたがっているとマックに誤解されたショックから、まだ立ち直れずにいるだけだ。

 ハーヴはその瓶をベッドの隅に投げて、上着を脱がせにかかった。

 少年の体は、子供のそれとは違う。眠った子にするように肩をつかみ、膝の上に抱えようとしたが、ハーヴの手には重すぎた。

 少年の重み……圧力……そのせいだろうか、不意に、服を脱がせるという行為そのものに、ハーヴはときめきを感じてしまった。

 光沢のある白いシャツの下に、少年の肌がある。その熱さが、ひどくはっきりと指に伝わる。

 顔が、その熱を吸ったように火照った。

 そうだ、別に、男の子だっていいんだ。ときめくことができるなら、相手の性別や年令なんて関係がない。少年は眠っている。薬が切れるまで、目を覚ますことはない。何をしても、彼は眠っているのだ。苦痛さえ意識できないほど、深く。

 僕が何をしても、僕がしたのだと気づけない。眠っているうちにここを出れば、咎められることもない。彼は、何をされたのか、目覚めてからも気づかないかもしれない。体に跡を残さないようにすればいいのだ。元どおりにタキシードを着せておけば……。それとも、後で痛みをおぼえたりするのだろうか。さっきの瓶。あれは、相手に苦痛を与えないための……。

 ポケットから、白いものが見えている。

 引き出してみると、数枚の名刺だった。書かれているのは、リック・シルヴァーという名と、16才という年齢だけ。どれも同じだ。ということは、これらはこの少年自身の名刺であり、この少年が『リック・シルヴァー 16才』なのだろう。

「それにしても、妙な名刺だな」

 ハーヴはつぶやいて、少年の寝顔を見た。

「これ、何だい、リック」

 声に出して呼ぶと、アルコールのようにその名が体内を駆け巡った。ハーヴは、あふれてくる溜め息によろめきそうになった。




 ショウのあいまにロビーに出て、マチアスとルイは肩を並べた。

 シルヴァーのタキシードのマチアスは、ステージに立っていた歌手たちに劣らず華やかだ。しかし、その瞳は曇っている。

「リック、見かけたかい?」

 ルイは、かぶりを振った。

 ルイは純白のタキシード。衿に飾られている蘭は、ルイを買った婦人からの贈り物だ。金の髪の先が、そのワイン色の厚い花びらに触れている。

 マチアスは溜め息をつき、

「ブレスレットも応答なしだ。どこにいっちまったんだろうな。ひどい約束違反だぞ」

「何か……あったのかな」

「隠れてるだけさ。おれは女に買われるのはいやだ、とかいいながら」

「でも、ここまでは来てくれたのに……」

「怖気づいたんだろ。ステージに上がって、競られるのに」

 マチアスはポケットから、一枚の名刺を出した。『マチアス・ターラー 16才』。そう書かれている。

 競りがはじまる前に、自分を売り込むために10枚ずつ渡された。より高い値を付けてもらえるよう、自己紹介をしておくのだ。マチアスは制限時間内に9枚配り、ステージではとびきりのウィンクを投げて、100万クレジットという記録的な値段で某退役大佐夫人に競り落とされた。

 ルイの方は気後れ気味で、名刺もやっと6枚配っただけだが、ステージで映える容姿がものをいって、80万という歴代ベストテンに入る価格で某少佐に買われた。

 彼らの『売り上げ』はすべて、任務中に命を失った宙軍人の子供たちのための基金に入れられるのだ。

 買われた少年たちの仕事は、ホテルに用意されたショウとディナーを『買い手』と共に楽しむこと。

 それ以上拘束しないことが規則になってはいるが、買い手と意気投合すれば、その後は『交際禁止』とするわけにはいかない。毎回、数組は『朝まで』拘束しあうという。もちろん、決められた時間よりも後は、買われた少年の方に『断わる権利』がある。

「深夜まで、約束した?」

 声をひそめてマチアスが問うと、ルイは驚いた顔で、

「まさか、そんな……」

「もったいない。あんな美人の宙軍少佐だぜ」

「き、君こそ……」

「それこそ、まさかだよぅ。素敵なおばあちゃまだけどさ」

「うん……」

「リックのやつ、どこに逃げたんだろうなぁ」

「そうだねぇ」

 話は、どうしてもそこに戻ってくる。

 ふたりは、盛装した男女がそぞろ歩くロビーに視線をさ迷わせた。

 宙軍の制服姿も多い。彼らは、マチアスの提案で、より目立つように普通の(といっても派手な)タキシードを選んだ。

 逃げたがるリックには、「パパやママのいない子供の気持ち、わからないの?」という、マチアスの脅し文句が効いた。リックは仏頂面で、ルイにタキシードを着せられ、マチアスから10枚の名刺を受け取り、会場に入った。

 が、その後は人波にまかれてしまって、行方知れずだ。ステージに上がって競られる時刻になっても、姿を現わさなかった。

「しようのないやつだなぁ」

 マチアスは溜め息をついた。たぶんどこかに隠れているのだろうと、思ったのだ。

 ルイはマチアスの横顔を見て、溜め息を呑んだ。

 そのとき、背の高い婦人がふたりの前に立った。

「ちょっと聞きたいの」

 声にあわせて、そのタイトなドレスに震動が走り、スパンコールがきらめいた。

「この子、ステージに出なかったみたいだけど?」

 彼女が差し出したのは、リックの名刺だった。マチアスとルイは、顔を見合わせる。

「絶対この子を買おうって決めてたのに、どうしちゃったのかしら。おかげで、ひとりも買い損ねてしまったのよ、悔しいわ」




 ジャケットをハンガーにかけてから、黒い絹サテンのカマーバンドをはずした。絹がシーツにすれる音は、初めて聞く不思議な楽器の音色のように思えた。ハーヴはそこで手を止めて、もう一度『リック』の寝息を確かめた。レーヴィングの効果は絶対で、少しくらい音を立てても目を覚まさせることはない。

 レーヴィングは、宇宙旅行のために開発された睡眠薬だ。その眠りは深く、見る夢は謎……。まだワープの機構が人間にとって不完全で、ワープ酔いが旅行者を半死半生の目に遭わせていた時代に開発されたものだった。

 このまま宇宙に弾き飛ばされても目覚めないにちがいないほど、少年は深く眠り続けている。それでも……わかっていても、ひとつの動作が終わるたびに、寝顔を見ずにいられない。

「ほんと……君、綺麗だ……」

 溜め息と共に、ハーヴはいった。

 瑞々しく張りつめた肌。何の疑いもない無邪気さでシーツに乱れる髪。ベッドサイドのランプのシェードはくすんだオレンジ色、あふれる光は金色で、その色を含んだように、少年の髪は紅茶色に透き通って見える。

 タイをはずし忘れていることに気づいた。ハーヴは少年の顎の下に手を入れて、ボウタイをほどいた。襟を開くと、少年が緩やかに頭を振って、仰向けになった。

 正面から、少年の顔を見つめることができる。

 これからひそかに……無断で体を自由にさせてもらう、リックという少年の顔を……。



「最低一枚は名刺を配ったんだな」

 マチアスはいった。怒った顔ができなくなってしまった。リックがどんな顔で「父親や母親を亡くした子供たちのために」見知らぬ女性に名刺を渡したのかを想像すると、おかしいのを通り越して泣きたくなってしまいそうだ。

「リック……」

 感極まったのか、ルイの言葉は続かない。まるで、リックが、自分に1000万の値をつけてもらえるよう努力した、とでもいうように。実際には、リックは消えてしまい、ステージに上がっていれば当然得られたはずの寄付金がふいになったのだが。

「どこにいっちまったんだろう」

 マチアスがつぶやく。

 ルイはマチアスの横顔に、

「よくないこと……じゃないといいけれど……」

「よくないこと? あぁ、ここ、ホテルだもん、寝室は数え切れないほどあるもんな。誰かと意気投合して、個人的に奉仕活動を……」

「そ、そうじゃなくて……」

「へ?」

「急病とか」

「そいつは考えなかった」

「マチアスったら……」

「医務室をあたってみよう」

 そのとき、ロビーにひそやかにブザーが鳴った。

 ショウの第二幕が始まる。

 自分を買った相手と同じテーブルについて最後まで見るのが、買われた少年の義務だ。

「じゃ」

「あとで」

 ふたりは短く言葉を交わして、ホールに戻った。テーブルにつくまでには、その頬に微笑をのせた。買われた少年の義務だった。



 体の芯まで震わせながら、ハーヴはリックに腕を伸ばした。緊張しすぎて冷たい指で、リックの頬の輪郭を撫ぜる。

 頬から鼻梁へ……唇から顎へ。

 そして、喉へ下りて、襟の中へ……。

 あああ!

 ハーヴは声にならない叫びを上げて、絨緞の上を転がった。

「そんなこと、できないよ、マック!」

 今度は声に出して叫んだ。

 室内に響き渡る自分の声に、はっとして起き上がった。

 目覚めるはずはないと思いながらも、リックをうかがわずにいられない。

「でも……したい」

 自分でも意識しないうちに、その言葉が唇をついた。

 ハーヴは生えぎわまで真っ赤に染めて、ベッドにつっ伏した。




 マチアスは頬へのキスで、ルイは堅い握手で、それぞれの『買い手』と別れた。

 ロビーにあふれ出る華やかな服装の群れの中、互いに泳ぎ寄った。

 その時にもまだ、視界の端にリックを捜していた。何食わぬ顔で、ロビーの隅に立っていはしないかと……。



 しばらくして顔を上げたハーヴは、すぐそばに力なく投げ出されているリックの手に目を留めた。

 いったいこの手に、普段は何を握っているのだろう。タコがあたっていたり、傷がついていたりするわけではない。特別なことには使っていないようだ。16才ということは、学生なのだろう。では、この指が触れるのは、ペンやテキスト、時には絵筆やギター、ラグビーボールや野球のバット……そんなものだろう。もしかしたら、ガールフレンドの手とか髪とか……ち、ち、乳房とか、ふふ太腿とか……。

 い、いけないよ、リック、そんなことしちゃ!

 叫びそうになって、ハーヴは気づいた。

「僕の方がもっと、いけないことしようとしてるんだ」と。

 ハーヴは湿った溜め息を長々と吐いて、

「でも、そうだよね。そんなこと、普通だ。僕みたいに……僕みたいに、何もできずに二十二年なんて! 悪いけど、君を使わせてもらうよ。いいよね? いいよね?」

 リックの手を両手で握り締めた。

 その手はさらりと乾いていて、少し冷たかった。

 手首に巻かれた風変わりな時計が、ベッドサイドのランプにきらめいた。



 ホテルの医務室は、地階にあった。目立たない、静かな区画だった。さっきまでいたロビーと違って、耳が戸惑うほど音がない。人けもなかった。医務室から出てきたらしい肩の張ったたくましいふたりの男と、廊下ですれ違っただけだ。

 マチアスとルイは同時にそのドアの前に立ち、ルイがちらりとマチアスを見た。マチアスはルイの視線を瞳で受けて、小さく笑った。

 ノックしてみる。

「まだ何かあるのかね?」

 枯れた声にそう問われて、ふたりはもう一度顔を見合わせた。

 中からドアが開かれて、真っ白な髪の老人が少年たちを見据えた。

「ほう。刑事さんじゃなかったか」

 真っ青な目を細める。瞳に濁りはなく、そこだけ作り物めいて見えるほどだ。

「出しものは手品だな。わしにも何かひとつ見せてくれんかね。いや、それとも、何とかいう映画の賞の発表は今夜だったか。君ら、プレゼンターか? それとも、俳優かね? おや、まさか、結婚式じゃあるまいな。いや、驚かんよ、わしの孫もひとり、結婚した。男同士で。式ではふたりともタキシードを着とってな。どっちが花嫁なのか、双方の親族でもめたわい。で? どちらのどこが悪いのかな? わしがこのホテルのドクターじゃ。ドクター・チェンじゃ。ささ、入りなさい入りなさい」

「あの……」

 と、マチアスがいいかけると、ドクター・チェンの目がマチアスにぴたりと据わった。

 マチアスは内心困惑しながら、口元だけは笑みの形にして、

「刑事さんて……さっきすれ違ったふたり連れだと思うんですが……何かあったんですか?」

 リックが医務室にいるかもしれないという推測と、事件に巻き込まれたのかもしれないという想像が、マチアスの中で混ざりあっているのだ。

 ドクターはマチアスを見たまま、白い眉毛を寄せた。

「盗みじゃよ、盗み」

「は?」

「わしの薬のコレクションが荒らされたんじゃ」

 リックとは関係ないようだ。

 マチアスは軽く息を吐いて、肩の力を抜いた。

 ドクターは憤慨した顔で、

「わしの貴重なコレクション! トレニア、シドバリン、レーヴィング……」

「それ……」

 ルイが反射的にいいかけ、自分を見るドクターの瞳に口をつぐんだ。

「知っとるのかね?」

「どれも、製造中止や使用禁止の薬品では……?」

 おそるおそるルイがいうと、ドクターの真っ青な瞳が無邪気に見開かれた。

「知っとるのかね! ブラボー! 他にもあるぞ。フロデイシン、ケルティアの散剤、いいかね、散剤じゃよ」

「ですが……使うのは違法で……」

「誰が使うといった!」

「ご、ごめんなさい」

「そんなもったいないことをするか」

「……」

「わしのコレクションじゃ。大事な宝物じゃ。一粒たりとも、飲ませやせん」

「わかります」

「わかるかね?」

「貴重な品ですもの。ぼく、ケルティアは錠剤しか見たことがありません」

「それはそれは! ぜひ、散剤を見てゆきなさい。セルヴァイシンはどうじゃ?」

「セルヴァイシンもあるんですか!」

 ルイが叫ぶ。

 ドクターは幸福そうに笑い、ルイの腕をつかんで揺さぶった。

「あるともあるとも!」

 笑う老人と、驚くルイを、マチアスは交互に見ていた。

 しばらくの間、マチアスには何の薬だか見当もつかないような名前がふたりの間を飛びかい、ふたりは実の祖父と孫のように意気投合して、ドクターのコレクションケースに歩きだそうとした。

 マチアスはやっと咳払いをはさんで、それを押し止めた。硬い声でいった。

「こんなところに、そんな大事なものを置くのは不用心ではないでしょうか。従業員や客が出入りするわけですし」

 ドクターの目が、マチアスに向く。

「わかっとる。しかし、家に置くと、孫がおもちゃにしてしまうのじゃ」

「う……」

「ここなら安心だと思っておったのに」

「ごっそりやられたんですか?」

「レーヴィングだけじゃ」

「それは?」

「ま、睡眠薬の一種じゃな。特に危険なものじゃないが、ワープエンジンが改良されたせいで、すたれたのじゃ」

 ドクター・チェンは、遠い目をして首をひねった。

 なんであんなものが欲しかったんじゃろ。ケルティアの方がずっと高いのに。

 そうつぶやいた。

 マチアスは絶句していた。製造も使用も止められた薬のマニアなど、見たことがなかったのだ。盗んだり、売ったりする人間がいるということも、考えたことさえない。

「散剤はかなりの値がつくでしょうね」

 などと、ルイがうなずいている。

 マチアスは肘でルイの腕をつついた。

「おまえもちょっとおかしいぞ」

 ルイは不思議そうにマチアスを見たが、そのとき、ドクターが嘆息と共にいった。

「誰かが、自分で使うために持ち出したのかもしれんな。泣きたくなって」




 シャツのボタンをウェストまではずした。

 ハーヴはもう、何も考えないことにしたのだ。

 眠っていようが少年だろうが、かまわない。誰も咎める者がいないこの部屋で、生まれて初めて、今までの自分がしたこともないことをするのだ。

 それが、大切だった。

 SEXがしたいのじゃない。誰かを犯したかったわけじゃない。

 何もできなかった……山も谷もなかった今までの自分を変えてみたかったのだ。

 そうして手に入れたのが、眠っている美しい少年だ。

 ハーヴはベルトのバックルをはずした。自分のを先に。

 はずす。

 そう、経験したかったのは、それだ。

 羽目を『はずす』のだ。



「あの薬を使うと、必ず夢を見る。それがどんな夢なのか、誰も知らない。誰にもわからんのじゃ」

 と、ドクター・チェンがいった。

 マチアスとルイは、リックを捜しにきたことも忘れて、医務室から出られなくなってしまっていた。

 ふたりから見れば母親ほどの年の看護婦が、ドクターを見て首をすくめた。ここを訪れた者に自分のコレクションについて熱弁を振るうのは、これが初めてではないのだろう。

 マチアスが問う。

「どうして、わからないんですか?」

「目覚めたときには、夢の内容を忘れているからじゃ」

「きれいさっぱり?」

「きれいさっぱり。脳波を調べて、夢を見ていることはわかっとる。しかし、それがどんな内容なのかまでは、機械にも読めんからな」

「……」

「しかし、たいそう美しい、幸せな夢だというのが、定説じゃ」

「なぜ?」

「寝顔が穏やかじゃから。そして、多くの者が、夢を見ながら泣くのじゃ。わしもその夢を見たくて、レーヴィングを試したことがある。じゃが、やはりどんな夢なのか、目覚めたときには忘れておった。枕が涙で湿っとった……それだけじゃ。誰か……夢を見たくなったのか……。このホテルの者なら誰でも、ここに何があるかは知っとるからな。取り乱して、警察など呼んでしまった。反省しとるよ」

 警察、のひと言に、マチアスもルイも思い出した。

 リックを捜しているのだ。

 それとも今頃、リックもふたりを捜しているだろうか。

 自分が雲隠れしている間に、マチアスとルイが消えてしまった……と。

 急病で運び込まれた者がいないことをドクターに確認しようとしたとき、少し耳障りな警告ブザーが鳴った。

 ドクターの顔が一瞬にして、『マニア』から『医師』に変わった。壁にはめ込まれた小さなモニターに、フロント係らしい制服姿の若者が映っていた。




 ふと顔を上げたハーヴは、凍りついたように息まで止めた。

 眠っているはずの……何も気づいていないはずの少年のまぶたから、涙がひとすじ流れ落ちたのだ。リックはあおむけで、少し顔を横に向けている。涙は頬を斜めに滑って、シーツに吸い込まれていった。

「あ……僕は……」

 ハーヴはベッドから飛び降りて、何か言い訳しようとした。

 でも、言葉はつながらない。

 震える手でベルトをしめ、リックを見つめた。

 リックの寝顔は穏やかで、やはり何も気づいていないようだ。悲しい夢でも見ているだけかもしれない、とハーヴは自分を励ました。

 だが、見る間にまつ毛が濡れて、もう一粒、涙が落ちた。

 落雷にあたったように、ハーヴはベッドに飛び乗った。はずすとき以上に手を震わせながら、ベルトやシャツをもとに戻した。

 服を着せたら、誰かを呼ぼう。

 部屋に帰ってきたら、見知らぬ少年がベッドにいたって。

 呼んでも起きないけど、病気かもしれないって。

……いやぁ、全然心当たりないです。酔いつぶれてるようでもないし、かといって熱もなけりゃ、冷たくもないし……。

 胸の中で、科白を稽古した。

「リック。ああ……リック、ごめんなさい」

 君を泣かせるつもりじゃなかったんだ。

 誰かを泣かせなきゃできないことなら、しないでいる方がずっといいよ。

 それでも、フロントに電話する前、ハーヴはリックの手にくちづけした。あまりに名残惜しかったから。



「本当に、わからないの?」

 と、マチアスがいった。

「まるで」

 と、リックが答えた。

 リックはシャツとズボンだけになって、医務室のベッドのひとつに横たわっている。まだ、目覚めて間もなかった。

 マチアスもルイも、華やかなタキシード姿のまま、ベッドの脇に立っている。

 さっき、母親のような看護婦が、ふたりにも甘くて濃い紅茶を運んでくれた。

 まだそれがそのまま、ベッドサイドのワゴンの上に残っている。湯気が消えかけていた。

「競り、済んだのか?」

 リックがいった。ほっとしたように。でも、どこか残念そうにも見えた。苦心して名刺を配りかけたのだ、1クレジットも得られなかったのが悔しいのかもしれない。

 リックは腕を上げて、顔を覆った。

「眠い……」

「今まで眠ってたくせして」

 マチアスはいう。

 ほっとしているのか、腹が立っているのか、自分でもわからないのだった。

 リックが応えないので、マチアスは肩を落とし、ルイを促した。

「もう少し眠ってろ」

 その言葉を残して、医務室を出た。

 廊下で、マチアスはルイにいった。

「元気ないな。どうかしたの? リックが無事に見つかったのにさ」

 ルイはうつむき、かぶりを振ってから、小さくいった。

「何かあったのかも……」

「何かって、何?」

「タイの結び方が違ってるし……カマーバンドが上下逆さまだった」

「え……」

「ぼくが着せたんだもの」

 そして、医務室で脱がせた。だから、ルイにはわかるのだ。

「き、きっと、どこかでくつろいでたんだぜ、こっちが買われてるってのに」

 マチアスの声が、かすかに震えている。

 ルイは応えなかった。マチアスも黙り込んだ。

 しばらくの間、ふたりは沈黙の中にいた。

 やがて、

「ようし、白状させてやる、いったい何をしてたのか」

 マチアスが拳を振って、医務室に戻っていった。

 リックにも答えられない質問をするために。




                      (95.4)

R15では、BL的なエピソードを含む話をまとめていきます。

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