人は祈れど 知りぬるを
一
村に最後の雨が降ったのは、田植えを終えて間もない頃だった。それきり空は、ふた月のあいだ一度も曇らなかった。
朝、ハルが戸を開けると、まず乾いた土の匂いがする。風が吹けば田の上に白い土埃が立つ。植えたばかりだった苗は、今では根元から黄色く枯れて、ひび割れた土に爪を立てるようにしがみついていた。
井戸の釣瓶を落とすと、底を叩く音が日ごとに早くなる。今朝はとうとう、桶の半分も上がってこなかった。濁った水を甕に移しながら、ハルは桶の底に残った泥を指でなぞった。
「ねえちゃん、きょうも飲めない?」
振り向くと、ソウタが戸口に立っていた。寝癖のついた頭で、裸足の指をもじもじと動かしている。七つになったばかりの弟は、ハルの胸のあたりまでしか背がない。
「飲めるよ。ちょっとだけね」
ハルは柄杓に一口ぶんだけ汲んで渡した。ソウタは両手で受け取り、こぼさないように、ゆっくり、ゆっくり口をつけた。飲み終えると、柄杓の内側に残った雫まで舌で舐めとって、それから照れたように笑った。
「おいしかった」
「泥の味でしょ」
「泥の味がおいしいの」
奥の間から、母の咳が聞こえた。ハルは甕の蓋を閉め、もう一杯汲んで奥へ運んだ。
母は去年の冬に胸を悪くしてから、ほとんど床を離れられなくなっていた。父はハルが十のときに山で死んだ。それからは母が田を守り、ハルが母を手伝い、ソウタがハルのあとをついて回る。三人の暮らしは、それでどうにか回っていた。日照りが来るまでは。
「ハル、お社には行ったの」
水を受け取りながら、母が言った。
「行かない」
「みんな行ってるでしょう」
「行っても降らないもん」
母は何か言いたそうな顔をしたが、また咳きこんで、そのまま目を閉じた。
村の社は、集落のいちばん奥、山の登り口の手前にある。日照りが続くようになってから、村の大人たちは毎朝そこに集まって手を合わせるようになった。最初は年寄りだけだったのが、ひと月もするとほとんど全員になり、近頃では子どもまで連れていかれる。
ハルも初めのうちは行っていた。けれど十日経っても、二十日経っても、空は青いままだった。ある朝、隣の家の爺様が、手を合わせたまま「今日こそは」とつぶやくのを聞いて、ハルは急に馬鹿らしくなった。今日こそは、と昨日も言っていた。一昨日も言っていた。
それ以来、ハルは社に行っていない。
祈って雨が降るなら、とっくに降っている。ハルにはそれが分かっていた。分かっているのに、毎朝同じ場所に並んで同じ言葉をつぶやく大人たちのほうが、ハルにはよほど分からなかった。
その晩、村の寄り合いがあった。
女子どもは出ないのが決まりだったが、男手のないハルの家からは、母の代わりにハルが出ることになっている。庄屋の家の板の間に、村の男たちが車座になって座っていた。誰の顔も日に焼けて痩せ、目だけがぎらついていた。
「もう、待てん」
口火を切ったのは、庄屋の作右衛門だった。
「このままじゃ、秋には食うものがのうなる。冬を越せん家も出る」
誰も何も言わなかった。言わなくても、皆わかっていることだった。
「……送るしかなかろう」
作右衛門がそう言うと、板の間の空気がすっと冷えた気がした。何人かがうつむき、何人かが小さくうなずいた。反対する声は、ひとつも上がらなかった。
送る、という言葉の意味を、ハルは知らなかった。けれど大人たちの顔を見て、それが何かとても悪いことなのだということだけは分かった。
帰り道、ハルは前を歩く隣の家の源蔵に尋ねた。
「送るって、何を」
源蔵はしばらく黙って歩いていた。それから、振り返らずに言った。
「子どもを、お山にな」
二
くじは二日後、社の前で引かれた。
七つから十までの子どもがいる家は、九軒あった。家の数だけ白い紙縒りが用意され、そのうち一本だけ、先が赤く染めてある。家の者が一人ずつ前へ出て、作右衛門の握った手から一本ずつ抜いていく。
ハルの家の番は七番目だった。母は起き上がれず、ハルが代わりに前へ出た。
残りは三本。ハルは真ん中の一本を選んだ。
抜いた瞬間、周りの大人たちが息をのむ音が聞こえた。手の中の紙縒りを見下ろすと、先が赤かった。
どうやって家に帰ったのか、ハルはあとになっても思い出せなかった。覚えているのは、戸口で待っていたソウタの顔と、ハルが何も言わないうちに奥の間から聞こえてきた母の泣き声だけだ。村の誰かが、先に知らせに走ったのだろう。
母は、ソウタを抱きしめて泣いた。胸を悪くしてから、そんな力がどこに残っていたのかと思うほど強く抱きしめて、声を上げて泣いた。ソウタは母の腕の中で、きょとんとした顔をしていた。
その夜、作右衛門が源蔵を連れて家に来た。上がり框に腰をおろし、母の顔を見ないようにしながら、しきたりの話をした。
昔から、ひどい日照りの年には、子どもを一人お山に送ってきた。山の中腹に古い祠がある。そこに子どもを入れて、戸を閉める。祠には、水も食べ物も置かない。子どもは祠の中で神様を待つ。喉が渇き、渇いて、渇ききったとき、子どもは神様のもとへ行く。神様はその子の渇きを見て哀れに思い、村に雨をくださる。
「渇きを、神様に見せるんじゃ」
作右衛門はそう言った。
「祠に入ったら、水は一滴もやれん。五日経ったら、迎えに行く。それまでは、誰も山に入ってはならん」
母はソウタを膝に抱いたまま、黙って聞いていた。泣き腫らした目で、じっと作右衛門の手元を見つめていた。
ハルは、聞いているうちに、膝の上で握った拳が震えてくるのを感じた。
「それって、死ぬってこと?」
作右衛門は答えなかった。代わりに源蔵が、「送るのは三日後じゃ」とだけ言った。
送る日までの三日間、ソウタは何も変わらなかった。
朝になると母の枕元で「おはよう」と言い、ハルのあとをついて井戸まで行き、昼には家の前の乾いた地面に木の枝で絵を描いた。くじのことなど、何もなかったかのようだった。
変わったのは、大人たちのほうだった。
村の女たちが、代わる代わる家を訪ねてきた。どの家も水が足りないはずなのに、竹筒や小さな壺に水を入れて持ってきては、「お山の子に」と言って置いていった。干した柿や、どこかに隠しておいたらしい米を持ってくる人もいた。
台所の甕は、ふた月ぶりにいっぱいになった。
「ねえちゃん、お水、いっぱい飲んでいいの?」
甕を覗きこんで、ソウタが目を丸くした。
「いいよ。好きなだけ」
ソウタは柄杓で一杯飲み、もう一杯飲み、三杯目を飲んで、お腹をさすって笑った。
「ぼく、こんなに飲んだの、はじめて」
ハルは笑い返そうとして、うまくできなかった。
この水は、ソウタのために持ってこられたものだった。祠に入れば一滴ももらえない子に、せめて今のうちに飲ませてやろうと。誰もがそれを分かっていて、誰もそれを口にしなかった。
その晩、ソウタは母とハルのあいだに挟まって眠った。寝る前に、天井を見上げたまま言った。
「お山に行ったら、神様に会えるの?」
母は答えなかった。ハルも答えられなかった。
「会えたら、雨くださいって言うね」
ソウタはそう言って、満足そうに目を閉じた。
三
庄屋の蔵に、村の記録があることは知っていた。
父が生きていた頃、年貢の勘定のために蔵へ連れていかれたことがある。棚の奥に、年ごとの出来事を書きつけた古い帳面が何冊も積んであった。字は父に少し習っていたから、ゆっくりなら読める。
くじの次の夜、ハルは庄屋の裏手に回った。蔵の錠は古く、戸の下の隙間から手を差し入れて閂を外せば開くことを、ハルは昔から知っていた。
灯りを持ち込むわけにはいかなかった。高窓から差す月明かりを頼りに、ハルは帳面を一冊ずつ引き出し、窓の下で紙をめくった。
知りたいことは一つだけだった。これまでに子どもを送った年と、その年に雨が降ったかどうか。
虫に食われた紙の中に「送ル」という字を見つけたのは、夜半を過ぎた頃だった。
――六十年前。七月、送ル。十日ノチ、雨。
――四十七年前。八月、送ル。雨降ラズ。田ノ半バ枯ル。
――三十一年前。七月、送ル。三日ノチ、雨。
――十九年前。八月、送ル。雨降ラズ。九月ニ入リ、雨。
ハルは同じところを何度も読み返した。
降った年もあれば、降らなかった年もある。送ってから十日もあとに降った年もある。九月に入ってから降ったのなら、それはもう、ただ秋が来ただけではないのか。
送っても送らなくても、同じなのだ。
ハルは帳面を胸に抱えて、震える足で蔵を出た。
翌朝、ハルは帳面を持って、社の前に集まった大人たちのところへ行った。
手を合わせている人々の前に出て、ハルは帳面を開いた。見てください、と言った。送っても降らなかった年がある。送っても送らなくても、雨は降るときに降る。だから、ソウタを送る意味なんてない。
声がうまく出なかった。それでも、最後まで言った。
大人たちは、黙ってハルを見ていた。誰も帳面を覗きこもうとはしなかった。
「蔵に入ったんか」
しばらくして、作右衛門が言った。怒っている声ではなかった。ただ、ひどく疲れているように聞こえた。
「ハル。帳面を返しなさい」
「でも」
「返しなさい」
源蔵が近づいてきて、ハルの手から帳面を取り上げた。乱暴ではなかった。むしろ、壊れ物を扱うように、そっと取り上げた。
大人たちはまたハルに背を向けて、社のほうへ手を合わせた。ハルの言ったことなど、最初から聞こえなかったかのように。
送る日の前の晩、ハルはソウタを起こした。
母が眠っているのを確かめて、ソウタの肩をそっと揺すった。ソウタは薄く目を開けて、「ねえちゃん」と言った。
「逃げよう」
ハルは耳元でささやいた。
「山を越えれば、隣の村まで一晩で行ける。あっちに行けば、お山に入らなくていい」
ソウタは、しばらくハルの顔を見ていた。月明かりの中で、その目は不思議なほど澄んで見えた。
「ぼく、行かない」
「どうして」
「ぼくが行かないと、雨、降らないんでしょ」
ハルは言葉に詰まった。
「降らないと、お米とれないんでしょ。かあちゃん、食べるものなくなるんでしょ」
「そんなの、ソウタが行っても行かなくても」
「作右衛門さまが言ってた。ぼくが行けば、みんな助かるって」
ソウタは、少しだけ得意そうに笑った。
「ぼく、村でいちばんえらい子になるんだって」
ハルはソウタの手を握ったまま、何も言えなくなった。違う、と言いたかった。そんなのは嘘だ、雨は降らない、帳面にそう書いてあった、と。けれど、それを言ってどうなるのだろう。それを言えば、ソウタはこれから行く場所で、自分が何のために渇くのかさえ分からなくなる。
ソウタはハルの手を握り返して、また目を閉じた。
「ねえちゃん、雨が降ったら、いっぱいお水飲んでね」
すぐに、静かな寝息が聞こえはじめた。
ハルはその夜、朝が来るまで弟の手を離せなかった。
四
送る日の夜明け前、ソウタは白い着物を着せられた。
着物は母が縫った。くじが引かれた次の日から、床の上で起き上がって少しずつ縫い進めていたのを、ハルは知っている。縫い目は母らしくまっすぐで、ところどころ、糸が涙で湿ったように色が変わっていた。
母はソウタの帯を結びながら、何度も結び目をほどいては結び直した。ソウタは、母が結び終えるのをじっと待っていた。
「きれいだね」
帯を見下ろして、ソウタが言った。
「かあちゃん、ありがとう」
母は、うんとだけ言って、ソウタの頭を撫でた。その手が、いつまでもソウタの髪から離れなかった。
出かける前に、母はソウタに最後の水を飲ませた。ソウタは柄杓を両手で持って、ゆっくり飲み干した。それから、ハルにも柄杓を差し出した。
「ねえちゃんも」
ハルは首を横に振った。ソウタは不思議そうな顔をしたが、何も言わずに柄杓を甕に戻した。
戸口に、作右衛門と源蔵が来ていた。ほかに、松明を持った村の男が二人。
母は床から立てなかった。だから見送りはハルの役目だった。ハルはソウタの手を引いて、表に出た。
村の人たちが、道の両側に並んでいた。誰も声を出さなかった。ソウタが前を通ると、皆、深く頭を下げた。中には、手を合わせて拝んでいる人もいた。ソウタはそれを不思議そうに見て、それから、ハルの手をぎゅっと握った。
社の前で、作右衛門が立ち止まった。
「ここからは、男だけで行く」
ハルは、ソウタの手を離せなかった。
「ハル」
源蔵が低い声で言い、ハルの指を一本ずつ、ソウタの手からはがしていった。
ソウタは振り返って、ハルを見上げた。
「ねえちゃん、いってきます」
そして、松明の明かりに囲まれて、山道を登っていった。白い着物が木々の間で小さくなり、やがて見えなくなるまで、ソウタは一度も振り返らなかった。
ソウタが入れられたのは、山の中腹にある古い祠だった。ハルは、あとになって源蔵からそれを聞いた。
大人が一人やっと座れるほどの小さな石の祠で、厚い板の屋根と、木の戸がついている。ソウタはその中に座らされ、戸を閉められた。戸は外から縄で縛られた。中からは開かない。
五日経つまで、誰も山に入ってはならない。それが、しきたりだった。
山道の入口、社の裏手から少し登ったところに、見張りの小屋が建てられた。村の男たちが交代でそこに詰め、昼も夜も、誰も山へ登らないように見張ることになった。
見張りが何から山を守っているのか、ハルにはよく分かっていた。
村の大人たちは、その日から一日じゅう社の前に集まって祈った。夜になっても何人かは帰らずに、篝火のそばで手を合わせつづけた。
ハルは、社には行かなかった。家の戸口に座って、山を見上げていた。祠は、木々に隠れて見えなかった。
昼過ぎ、母が床の中から、かすれた声でハルを呼んだ。
「あの子、今、何してるかね」
ハルは答えられなかった。
「お腹、すかせてないかね」
母はそれきり、また黙った。
その晩、ハルは台所の甕の前に立った。甕には、村の人たちが持ってきてくれた水が、まだたっぷり残っていた。
柄杓に汲んで、口元まで持っていった。けれど、そこで手が止まった。
今ごろ、ソウタは祠の暗がりの中に座っている。ここから山の中腹までは、走れば半刻もかからない。それなのに、この柄杓一杯の水を、ソウタに届けることはできない。
ハルは、柄杓の水を甕に戻した。
二日目も、空は朝から青かった。ハルはその日も、水を口にできなかった。
五
三日目の昼を過ぎた頃だった。
戸口に座っていたハルの頬を、風が撫でた。熱い風ではなかった。湿った、冷たい、土の匂いを含んだ風だった。
ハルは顔を上げた。
山の端に、雲が湧いていた。ふた月のあいだ一度も見なかった、灰色の重たい雲だった。それはみるみるうちに広がって日を隠し、村の上に覆いかぶさってきた。
最初の一粒が、ハルの手の甲に落ちた。
それから二粒、三粒。乾いた地面に黒い染みが点々とでき、やがてそれが繋がって、ざあっと音を立てはじめた。
雨だった。
社のほうから、叫び声が上がった。泣き声のようにも、笑い声のようにも聞こえた。家々の戸が次々に開き、人々が雨の中に飛び出してきた。子どもたちが裸足で走り回り、年寄りが地面に膝をついて空を拝んだ。誰かが田に走り、ひび割れに水が流れこんでいくのを見て、声を上げて泣いた。
「お山の子じゃ」
誰かが言った。
「お山の子が、届けてくれたんじゃ」
その言葉が、波のように広がっていった。人々は山に向かって手を合わせ、何度も何度も頭を下げた。
ハルは、雨の中を社へ走った。
まだ三日だ。ソウタは、まだ生きているかもしれない。雨は降ったのだから、もう祠に入れておく理由はない。今すぐ迎えに行けば、間に合うかもしれない。
社の前には、作右衛門がいた。村の男たちに囲まれて、ずぶ濡れのまま空を仰いでいた。
「作右衛門さま」
ハルは、その前に飛び出した。
「雨、降りました。だから、もういいでしょう。ソウタを出してあげて」
作右衛門の顔から、笑みが消えた。
「まだ三日です。まだ、生きてるかもしれない。お願いします。迎えに行かせて」
ハルは、泥の上に膝をついた。額を地面にこすりつけた。
「お願いします」
雨の音だけが、しばらく続いた。
「ならん」
作右衛門の声は、静かだった。
「五日経つまでは、誰も山に入ってはならん。儀式が終わるまでは」
「でも、もう雨は」
「途中でやめれば、神様のお怒りに触れる。この雨も止む。二度と降らんかもしれん」
周りの男たちが、黙ってうなずいた。誰もハルを見ていなかった。皆、空を見上げるか、足元のぬかるみを見つめていた。
ハルは、源蔵を探した。源蔵は男たちの後ろに立っていた。目が合った。けれど源蔵は、すぐに顔をそむけた。
「ハルちゃん」
隣の家のおかみさんが、ハルの肩に手を置いた。
「お山の子が、命をかけて届けてくれた雨なんよ。無駄にしたら、いかん」
その手は優しかった。優しいまま、ハルを社の前から引き離した。
夕方には、庄屋の家で祝いの宴が始まった。
なけなしの米で握り飯が作られ、どこの家に隠してあったのか、酒まで出てきた。男たちは雨に濡れたまま板の間に上がりこみ、肩を叩き合って笑った。女たちは軒先に桶や甕を並べ、溜まっていく雨水を見て声を弾ませた。
誰もがソウタの話をしていた。けれど、誰もソウタの名前を口にしなかった。お山の子、とだけ呼んだ。立派な子じゃった、お山の子は。あの子のおかげじゃ。
立派な子じゃった。
過ぎたことのように、皆がそう言った。
ソウタは今も、あの祠の中にいる。屋根のある石の祠に、この雨は一滴も届かない。村じゅうの桶や甕が雨水であふれていくのに、ソウタの喉を潤すものは何もない。
それを知らない者は、この宴に一人もいなかった。
ハルは、宴を抜け出した。
六
雨は、夜になっても降りつづいていた。
ハルは、ぬかるんだ道を走った。社の脇を抜け、山道に入る。草履の緒が切れて、裸足になった。足の裏に小石が刺さったが、構わず登った。
見張り小屋には、小さな火が灯っていた。
戸口に、村の男が一人座っていた。隣村から婿に来た、喜助という男だった。ハルが駆けてくるのを見ると、喜助は黙って立ち上がり、山道の前に立ちふさがった。
「通して」
喜助は動かなかった。
「ソウタがまだ生きてるかもしれないの。水を持っていくだけでいいから」
ハルは、帯に挟んできた竹筒を握りしめていた。宴を抜け出す前に、軒先の甕から汲んできた雨水だった。
「通して。お願い」
「ならん」
喜助の声はかすれていた。
「五日経つまでは、ならんのじゃ」
ハルは喜助の脇をすり抜けようとした。喜助の太い腕が、ハルの体を受け止めた。ハルは叩いた。腕を、胸を、何度も叩いた。喜助は、ただ黙ってそれを受けていた。
その腕の向こうから、誰かがハルの手首をつかんだ。
振り返ると、母がいた。どうやってここまで来たのか、ずぶ濡れの寝間着のまま、泥だらけの足で立っていた。床を離れることもできなかった母が、ハルの手首を、骨が軋むほどの力でつかんでいた。
「離して」
母は、首を横に振った。
「かあちゃん、ソウタ、まだ生きてるかもしれないんだよ。今なら、間に合うかもしれないんだよ」
母の目が、山のほうを向いた。
分かっているのだ、とハルは思った。母にも分かっている。まだ三日だということも、今なら間に合うかもしれないということも。
それでも、母は手を離さなかった。
「行ったら」
母の声は、ひび割れていた。
「行ったら、あの子が渇いたことが、無駄になる」
ハルは母の顔を見つめた。母はハルを見ていなかった。山を見ていた。その頬を、雨がとめどなく流れていった。
ハルの膝から、力が抜けた。
四日目も、雨は降った。
ハルは見張り小屋の軒下に座って、一日じゅう山道を見上げていた。喜助と交代した男は、ハルを追い返そうとはしなかった。ただ、ハルが立ち上がるたびに、自分も腰を浮かせた。
膝の上には、竹筒があった。
ときどき、ハルはその栓を抜いて、中の水が減っていないことを確かめた。それから、また栓をした。
祠の中で、ソウタは何をしているだろう。屋根を打つ雨の音を聞いているだろうか。あれほど待っていた雨の音を、喉が焼けるように渇いたまま、暗い中で聞いているのだろうか。
ねえちゃん、雨が降ったら、いっぱいお水飲んでね。
あの夜のソウタの声が、雨音の向こうから聞こえた気がした。
ハルは竹筒を抱いたまま、夜を明かした。
五日目の朝、雨は小降りになっていた。
作右衛門と源蔵が、村の男たちを連れて山道を登ってきた。見張り小屋の前にハルがいるのを見ても、誰も何も言わなかった。
男たちは山へ入っていった。ハルは、ついていくことを許されなかった。
どれくらい待っただろう。
やがて、木々の間から男たちが戻ってきた。先頭を歩く源蔵の腕に、白い着物の小さな体が抱かれていた。
ソウタは、眠っているように見えた。乾いた唇が、少しだけ開いていた。何か言いかけたまま、そこで止まってしまったように。
「神様のもとへ、着いておられた」
作右衛門が言った。
男たちは、ソウタを抱いたまま、ハルの前を通りすぎていった。源蔵は、最後までハルの顔を見なかった。
社の前では、村の人たちが待っていた。源蔵がソウタを社の前に横たえると、人々は一斉に膝をつき、手を合わせた。お山の子、ありがとうございます。お山の子のおかげで。雨の中に、何十もの声が重なっていった。
ハルは、その輪の外に立っていた。手には、まだ竹筒を握っていた。
分かっていた。
祈っても、雨は降らない。降ったのは偶然だ。ソウタが渇いたことと空が曇ったことは、何の関係もない。帳面にもそう書いてあった。三日目に祠の戸を開けていれば、ソウタは助かったかもしれない。来年また日照りになれば、また誰かが送られる。この村は、そうやって続いていく。
村の大人たちも、きっと分かっていた。分かっていて、誰も止めなかった。分かっていて、皆、祈っていた。
ハルは人々のあいだを抜けて、ソウタの傍らに膝をついた。竹筒の栓を抜き、中の雨水を、ソウタの唇にそっと垂らした。水は乾いた唇の上で小さな玉になり、頬を伝って、地面に落ちた。
全部、分かっていた。
それなのに、気がつくと、ハルは手を合わせていた。
雨に打たれながら、目を閉じて、指先が白くなるほど強く、両手を合わせていた。
何を祈っているのか、ハル自身にも分からなかった。




