2nd day Shopping Time !
冬の東京は、寒い。
もちろん、他県へ行けば東京よりも寒いところなんて、いくらでもあるだろう。
だがそれでも、寒いことには変わりない。
小鳥の囀る声も、鴉の鳴き声も、暖かい眠りを妨げるという意味では何も変わらない。
そんな風に可愛らしい小鳥を睨み付けることが出来るのは、この男くらいだろう。
もちろん、大人げないという意味になるが。
セミダブルのベッドで、颯真は寝返りをうつ。
だが、小鳥を睨むために気力を使ってしまったせいで、二度寝をすることは出来なかった。
二度寝の心地よさが、得られない。颯真はそのことに苛立たしげに、右手で頭を掻く。
「起きるか」
口に出せば、起きようという気にはなる。
茶色の毛布をはがそうと、左手を動かす。
だが、何か重いものが腕に巻き付いていて、動かすのが面倒に感じられた。
仕方なく、毛布を剥いで、左手の重いものに目をやる。
銀色の髪と白い肌の、目を瞠るような美少女が、可憐な微笑を浮かべながら静かに寝息を立てていた。
少女――アリアは、颯真の左手に巻き付くように、背を丸めて寝入っている。
アリアは、たった七歳の少女とは思えない美しさと、年相応の“あどけなさ”を併せ持っていた。
絵画から抜け出して、白い羽をシーツとワンピースに変えて地上におりたった天使のような容姿は、大の大人でも生唾を飲み込ませる“危うさ”を演出していた。
その肢体に、邪な考えを――持つはずなど、当然無い。
颯真はうっとうしげに腕を振って、アリアの手から抜ける。
そして、面倒くさげに首根っこを掴んで、自分の右側に置いた。
左から起き上がらなければならないので、邪魔だったのだ。
同じベッドで寝ているのは、そうしたいとアリアが望んだからだ。
だが、望めば応える颯真ではない。
単純に、ベッドが一つしか無く、同衾するのが一番手っ取り早かったのだ。
更に言えば、颯真はこの幼い少女をカイロ扱いしていた。
幼女が怯えるような趣味はないが、子供が泣くような容姿と性格は持っていた。
「面倒なことになったもんだ」
そう言って、シャツとズボンという簡素な格好からウェイター服に着替える。
もうこの服を着始めて十五年。一番着慣れた服だった。
颯真は小さく欠伸をすると、ベッドから暖かさが無くなって眉をしかめるアリアを気にも留めずに、朝食の用意をしに行った。
流石に、二人分作る程度の良識は、持ち合わせているようだった――――。
SHIFT
隙間風はなくても、寒いものは寒い。
暖かさを求めて、白い小さな手がシーツの上を、縦横無尽に動き回る。
やがて暖かさが見つからないことに、アリアは眉をしかめて呻る。
「むむむ、ゆくえふめいだ」
いないと解ったら、目を開ける。
空色の目を開いて、ぱちぱちと瞬きをした。
くぁっと口を開けて欠伸をしたら、ベッドに足を投げ出したまま上半身を起こす。
右手を挙げて、ぐっと背伸びを一つ。
左手は目元に当てて、擦る。
意識がまだ覚醒しきっていないのか、焦点の合わない目で小さく肩を落とした。
だらけきった顔は、すぐに二度寝してしまおうと画策する、ねぼすけな猫のようだった。
「あれ?」
首をかしげて、鼻を鳴らす。
くんくんと匂いをかげば、扉の向こうから食欲をそそる匂いがしてきた。
アリアは見えもしない匂いの煙を追うように、目を閉じたまま鼻を突き出して顔を動かす。
ベッドから身を乗り出して、よだれをごくりと呑み込んだ。
「おなかへった」
一言そう呟くと、おぼつかない足取りでベッドから降りる。
ぺたんぺたんと音は二回。
降り立つと、鼻を突き出したまま移動する。
銀のドアノブも高い階段も既に乗り越えている。アリアは今、怖いものなしだ。
「むむむ、はっけんですたいちょう!」
誰に言っているのか。
……辿り着いたのは、生活区から店内に繋がるドアだった。
自分で開けたことがないドアノブは金色で、アリアの心を刺激する。
狙いは定めた、あれは新しい障害だ。アリアの目は、挑戦的に輝いていた。
「とうっ!」
「あ?」
ドアノブに飛びつく、決死の跳躍。
だがそれは、開かれた扉から出てきた声に遮られた。
勢いをつけるために下がっていたので、開くドアに正面衝突することは避けられた。
運の良い少女である。
ばふりと音を立てて、黒い棒にぶつかった。
その棒は想定していたよりも堅くなくて、アリアは自分の鼻が潰れてしまわなかったことに安堵した。
小さな右手でぺたぺたと顔を触る。
曲がっても、いないようだ。
「おはよう!おじさん!」
見上げて、アリアはぱぁっと笑う。
向日葵畑に咲いた一輪の花は、日に向かうと書くだけあって、太陽のように明るく暖かい。
颯真はそんなアリアを一瞥すると、笑顔を気にも留めずに踵を返した。
呼ばなくても来たのなら、それでいい。面倒が省けた、とその大きな背中が物語っていた。
アリアはそんな颯真のズボンを掴むと、もう一度笑う。
先ほどよりもなお明るい、満面の笑みだ。
「おじさん!おはよう!」
振り向いた颯真に、アリアはそう言い放つ。
言いたいことは解るが、ここで素直に言うことを聞く程優しい人間だったら、最初の時点で挨拶を返している。
子供の我が儘に付き合う暇があったら、さっさと食べさせて食器を片付けたい。
颯真は、そんな薄情な大人だった。
「おはよう!」
それでも、アリアはめげない。
颯真は泣かれたら面倒だとアリアの顔を見る。
だが、その顔に涙などは浮かんでいない。
浮かべているのは、天真爛漫な輝きだけだ。
後光が差していそうなその笑みに、颯真は一歩足を退いた。
何時の時代も、悪の魔王は勇者の光に弱いのだ。それが年端もいかない子供ならば、尚更だ。
「おはよう!」
「――――おはよう」
ついに、負けた。
アリアはそんな颯真をにこにこと見つめていた。
器量という意味では、颯真は始めから負けている。惨敗だ。
今度こそ歩いて、アリアの首根っこを持ち上げる。
喜ばせる気など、颯真には欠片もない。
だが、この方法をとる度にはしゃぐアリアの無邪気な様子に、邪気だらけの颯真は深く肩を落とした。
その顔に浮かぶのは、憔悴である。
カウンターに座らせると、颯真は厨房側に回る。
自分の分はさっさと済ませていた。一緒に食べてあげられる程、彼は可愛い性格をしていない。
アリアは、カウンター席に並べられた朝食に、目を輝かせる。
ふわふわたまごのスクランブルエッグと、こんがり焼かれたスライスベーコン。
真っ赤なミニトマトが添えられたレタスのサラダには、白い自家製ドレッシング。
きつね色に焼かれたトーストには、オレンジの皮が入った自家製マーマレード。
白いコップに入ったミルクは、甘い匂いと共に温かい湯気を昇らせていた。
この男、見かけによらず料理には全力を注ぐ男だった。
いや、料理だけではない。綺麗に清掃が行き届いた店内を見るかぎり、掃除も颯真の仕事だとわかる。
彼が顔を見せることなく厨房に立つだけで、客の入りはがらりと変わるだろう。
お客様に真摯であろうという気持ちが欠片もない時点で、駄目かも知れないが。
「わぁー……いただきます!」
アリアは、フォークを握り、食べ始める。
もぐもぐと咀嚼して、呑み込む度に目の輝きを強くする。
両手でコップを掴んで、ミルクを飲む。
だが、少し口にして慌てて口を離した。どうやら熱かったらしく、アリアは赤い舌をぺろりと出して、風に当てて冷やした。
それでもミルクの味を早く感じたくて、ふぅふぅと息を送って冷ます。
そしてそれを、ごくりと飲み込んだ。
暖かさに身体をぶるりと震わせると、その心地よさに、ふぬけた笑顔で肩を落とした。
満足そうに平らげていくアリアの前で、颯真はタバコを取り出した。
だが、流石に食事中の子供の前で吸うことは彼のなけなしの良心が痛んだようだ。
タバコの箱を握りしめたまま、きっかり一分悩んで、悔しげにタバコの箱を片付けた。
彼の中で良心が打ち勝つのは意外に多い。
そもそも良心が戦い出さないので、迷うこと自体が少ないのだが。
「ごちそうさまっ!おじさん、こんなのつくれるんだね。まほうつかいみたいっ!」
食べ終わったアリアは、興奮を隠しもせずにそう告げた。
颯真はそれに返事をすることもなく、ソースを顔につけたアリアに布巾を投げた。
アリアはそれを慌てて受け取ると、ごしごしと顔を拭く。
その間に、颯真は食器を回収して洗い始めていた。
骨張った大きい手を使って洗っているのに、食器を持つその手に粗雑さはない。
その優しさを、一割で良いからアリアに分けてあげるべきだろう。
「おじさんっ」
笑顔で颯真を呼ぶアリア。
颯真は当然のように答えない。
仏頂面を崩さない辺りで、徹底抗戦の気配が伺える。
彼は悪いやつだった自分を取り戻すのに必死だった。
そんな意地を張らなくても十分、大人げない“悪い”人間なのだが、そんなことは頭にない。
「つぎからは、いっしょにたべようね!」
しかしアリアはめげない。
この幼い少女は、早くも颯真との付き合い方を身につけていた。
女は何時だって強かなのだ。
だからこうして、どんな態度を向けられようと、笑顔を向け続ける。
彼女の中の颯真は、寡黙でカッコイイ魔法剣士で固定されていた。
そろそろ颯真はアリアに謝るべきだろう。大人げなくてごめんなさい、と。
「いっしょにたべようね!」
洗い終わった食器を、繊細な手つきで拭いていく。
まるで芸術品を扱うような優しさだ。
颯真は自分のためならば、優しさを最大限発揮することが出来るのだ。
つくづく駄目な大人である。
アリアの人間更正力に期待するしか、このおっさんをどうにかする方法はないだろう。
「いっしょにたべようねっ!」
一つ前よりも、語尾が強めだ。
アリアに動揺や困惑、焦りはない。
ただ信じて、言葉を紡ぐだけだ。
「たべよう、ねっ!」
「――――わかったよ」
第二ラウンドも敗退だ。
目に見えて明るくなるアリアの表情に和むことが出来る程純粋ではない。
むしろ、太陽の光を浴びた吸血鬼のような顔をしている辺りで、彼の性根を察するべきだろう。
颯真がデレるのは、案外遠くないことかも知れない。
アリアはカウンターの上にだらしなく両手を放ると、颯真を見てへにゃりと笑った。
この太陽が颯真という氷河を溶かしきるのは、まだまだかかりそうだった。
朝食を食べてしばらくした頃、アリアはしきりに服を気にしていた。
ワンピースの裾を掴んで持ち上げてみたり、ちょっと匂いをかいで、ぎゅっとめを瞑ってみたり。
鏡に映してくるりと回って、出来ている染みに悲しそうな顔をしたり。
その仕草を見れば、大抵の大人は彼女の手を引いて外へ出かけることだろう。
だが颯真は、カウンターで新聞を読みながら、ちらりと一瞥してそれっきりだ。
アリアは意を決したように、颯真に近づいた。
そして、カウンター越しに颯真の目をじっと見つめる。
人に頼み事をしたいのなら、相手の目をじっと見つめる。
子供が本能的に持っている、おねだりの基本技である。
……女の子の派生技を覚えるのは、まだまだ先の話だ。
「おじさん、あのね」
我が儘だと思っているのか、普段の明るさはなりを潜めていた。
こんな表情をさせていることに胸が痛むこともなく、普段からこうなら楽なのに、などと考えている時点でそろそろ駄目な大人レベルがリミットブレイクしそうな颯真だった。
「ふくをかってください!」
アリアはそう言って、勢いよく頭を下げた。
……さて、アリアはカウンター席で背伸びをしていた形だ。
その状態から頭を下げたらどうなるか?そんなことは、一目瞭然。
鈍い音を立てて、アリアは額を打ち付けた。
真っ赤になった額を抑えて、蹲る。
涙目で小さくなるアリアを見ても、颯真の良心は働かない。彼の良心は、こうしてよく怠けるのだ。
颯真は、アリアを一瞥すると、新聞に目を戻す。薄情である。
左手で頬杖をつきながら、右手で新聞をめくる。
何気なく目にした新聞の記事、そこに視線を固定させて、颯真は身体を硬くした。
親分が鉄砲玉にばらされたことを新聞で気がついた若頭のような表情だった。
「よし、わかった。買い物へ行くぞ」
「ほんと、おじさん?やった!」
喜びのあまり、飛び上がる。
浮かれているアリアをよそに、颯真は額に浮かべた脂汗を、左手でぐいっと拭った。
彼は、妙に焦っていた。
そして、その原因は、広げられたままになっている新聞の記事が示していた。
その記事の内容は、ネグレクトにドメスティックバイオレンスと言った、児童虐待のものだった。
これ以上厄介な汚名を着せられたら、図太い颯真でも外に出づらくなることだろう。たぶん。
颯真はロングコートから引っ張り出した携帯電話で、警察への根回しを村正に頼む。
これで、職務質問から現行犯逮捕へのワープ現象を体験しなくて済むことだろう。
ロングコートをばさりと羽織ると、颯真はアリアを連れて外へ出た。
今日の厄介事の、始まりである。
†
冬の空の下、その肌寒さに、アリアはぶるりと震えた。
冷たい風に晒される素足と、手。
袖無しのワンピース一枚という格好は、彼女を外側から冷やしていく。
颯真は外に出たこの瞬間まで気がついていなかったのだが、彼女は素足だ。
店内に入るときにローファーを履いていたりと颯真自身は暖かくしていたが、当然のようにアリアのことまで気にしていなかった。
このままでは、根回しをされていても、めでたく留置所で強制お泊まりだ。
颯真は苛立たしげに右手で頭を掻く。生憎彼は、自分以外の服を常備しているような人間ではない。
これは割と普通のことなのだが、颯真だというだけで駄目人間のように感じられるのは、間違いなく日頃の行いによるところだった。
颯真はアリアの首根っこを掴むと、器用に放り投げて肩に乗せる。
突然の肩車に、アリアは目を見開いて驚いた。
そしてすぐにその双眸を輝かせると、楽しそうに颯真の頭に抱きつく。
少し毛質が堅くて、ちくちくとアリアの小さな手に刺さる。
その感触がどうしてか嬉しくて、アリアは好奇心に満ちた表情で、ごわごわと髪を触る。
そんなアリアを、颯真は止めない。
楽しそうにさせておけば、世間は何も言わない。
颯真が二十八年の人生で学んだことだ。
こんなことを学ばなければならいというのは、結構残念な人生である。
「服と靴と下着とコート、あとは毛布を一枚だな」
「おじさん、ふとっぱらだね!」
アリアは、颯真の怖い顔の上にいるというのに、動じる様子もなく頭をぺしぺしと叩く。
好奇心と期待がいっぱいに詰まった目は、蒼天の空色の中に、宝石箱の中身を散らかしたような鮮やかな輝きに満ちていた。
子供ながら純粋な興奮が、アリアの頬をほんのりと朱色に染めている。
もう、寒さなど忘れているように見えた。
まとめて買うために、大型百貨店へ行く。
電車代を使うのがもったいないという理由で徒歩で行っても良かったのだが、多少金を使っても世間体を気にした方が良いだろうという結論が、颯真の脳内で決まった。
この間、一秒にも満たない高速展開だ。
世間体を気にしなければならない容姿でも、色々と……そう、色々と便利なのでそこは気にしていなかった。前向きである。
タクシーを捕まえて、自分とアリアを終始生暖かい目で見る壮年のタクシー運転手の表情に苛立ちながらも、颯真は青筋を立てるのをぐっと我慢していた。
ここで下手に怒ったりでもしたら、黒白のタクシーに乗り換えさせられる可能性が出てくるからだ。
赤いランプのあの車は、乗り心地も居心地も悪い。
アリアを肩車しているためタバコを吸う訳にも行かず、強制禁煙の憂き目にあったことで村正に脳内で八つ当たりしていると、すぐに百貨店に到着した。
入ってすぐ向かうのは、とりあえず自分で歩かせるために靴の購入だ。
颯真の顔を見て半泣きになる店員に、アリアの靴を選ばせる。
颯真はセンスがない訳ではない。選んであげるという思いやりがないだけなのだ。
それだったらセンスがない方がいいのだが、そんな颯真は気持ちが悪い。
動きやすくて丈夫な運動靴を購入して、ついでに靴下も買って履かせる。
肩車が終わっても、アリアは変わらず目を輝かせていた。
新しい靴が嬉しいのだろう。飛んだり跳ねたりと忙しない。
「おじさん、ありがとう!」
「次は服だ。パジャマや下着も纏めて選べ。行くぞ」
「うんっ!」
子供の下着云々で照れる大人ではないのは、救いだろう。
颯真は根性が捻くれていて顔が怖いだけで、変態ではないのだ。
前者の要素だけで十分“ダメ”なのは、気にしてはならない。
白いワイシャツとピンクのベスト。
下は淡い空色のスカートで、ロングコートは颯真とお揃いの灰色。
それから白いマフラーを購入して、ついでにピンクの手袋も買う。
パジャマは鳩柄。パンツも鳩さんプリントの鳩づくし。
他にも、換えを何着かアリアは笑顔で選んできた。
颯真は終始顔色を変えることなくこれらをレジに運んで会計する。
今着るための服以外は、速達で自宅に運んで貰う。
手荷物付きで歩くのは、食材を購入する時のみと、颯真は決めていた。所謂、自分ルールである。
「おじさん、ごはんはどうするの?」
「そこら辺で食うぞ」
当然だが、アリアを食べる訳ではない。
だというのに颯真を虫を見るような目で見た通行人の男性は、颯真に塵芥を見るような目で睨まれて、泡を吹いた。颯真は。
気の弱い人間が標的だったら、眼力だけで殺害することが出来るだろう。
“ホンモノ”を泣かせたことのある視線は、伊達じゃない。
食事処を探すために、歩く。
視線で人を斬りながら、身体で風を切る。
歩く度に靡く灰色のコートが、無駄にカッコイイ。
アリアはそんな颯真に、胸をときめかせていた。
大股で歩く堂々とした姿勢は、高い身長と合わせて様になっている。
時折右手で黒髪を掻く仕草も、外国の映画俳優を彷彿させる鮮やかな動作だ。
一つ一つの仕草が、決まっている。
目つきはそれを台無しにするどころか、アクセントの一つとして彼を一際映えさせる。
だから、彼の評判を落とすのは、ひとえに彼自身の性格だった。この男は、本当に改めるべきである。
百貨店の内部にあるレストランに入る。
美男と美少女のペアは、実に様になっていた。
これで隙あらば他人を視線で射殺そうとする厄介な癖がなければ、颯真はもうちょっと華やかな人生を送っていたことだろう。それは既に、颯真とは別の生き物だが。
レストランで、颯真はカルボナーラを、アリアはナポリタンを頼む。
食べる手つきが繊細なのは、ひとえに美味しかったら味を盗もうという挑戦者の気概だった。
見た目とアンバランスな手つきを、アリアはうっとりと眺めていた。
アリアの中での颯真の株が、ぐんぐんと上がっていく。
颯真の外での様子と、自分の日用品の購入。
その二つを見て、得ることが出来て、アリアは幸せそうにはにかんだ。
†
アスファルトを踏む足は、軽い。
寒さなんて、何のその。真新しい運動靴の履き心地は、少しだけむずむずとしている。
それでも、スキップをする度にたんっと小気味よく鳴る足の裏に、緩んだ笑顔を浮かべてしまう。
両手は後ろで結んで、上を向く。
昼時を過ぎたばかりだが、なんだか少し、雲が出てきた。
アリアは目に映った雲が自分と颯真のコートとお揃いだったことに、にへへ、とだらしない声で笑った。
そんなアリアを、颯真は胡乱げに見る。
この年の子供は何を考えているかわからない。
何が嬉しくて笑っているのか、颯真は自分の子供時代を思い浮かべて考える。
だが、脳裏に浮かんだのは今よりも“やんちゃ”だが性格はほとんど変わっていない自分の姿。
この男は、昔からこんな感じだったようだ。救いがない。
右手を顎に当てて思案下な表情をしていたが、すぐにその右手を頭に持って行って、がしがしと掻いた。
目を閉じて、苛立たしげに息を吐く。
取引中に警察に乗り込まれたヤクザのような表情だった。
すれ違う人は、それだけで涙目である。
「曲がるぞ」
「うんっ」
颯真が小さく告げると、アリアは疑問に思うことなく頷いた。
機嫌の良いその横顔は、無邪気で愛らしい。
颯真はそんなアリアを見ることなく、ただ鋭い目で虚空を睨み付けていた。
街道から脇道に外れて、裏道を歩いて人気のないところへ移動する。
早歩きな為、アリアは走らなければついて行けないのだが、今の彼女にとっては、走ることも娯楽の範疇。風を切ってコートを靡かせる颯真の後ろ姿を見ることも、楽しかった。
やがて人がいなくなる。
裏路地を進んだところで、颯真は足を止めた。
そして、右足を軸にして半身になって振り向いた。
そこにいたのは、紺のスーツを着こなした、七三分けに眼鏡をかけたサラリーマン風の男だった。
脂汗をかいた頬を、紺のハンカチで拭っている。
その顔には営業スマイルが、仮面のようにぺたりと張り付いていた。
場違いな空間で、真冬なのに大粒の汗をかくサラリーマン。
二次元から切り出したようなうすっぺらい存在感は、傍から見てもその男に“不気味”な印象を植え付けていく。
「気づかれましたか」
残念そうな口ぶりだが、その顔に張り付いた笑みは剥がれない。
呪いのかかった能面でも顔に貼り付けたのか、表情は一貫して動かない。
頬の肉一つ動かさずに喉の奥から音を絞り出している。
ここまで徹底させれば、いっそ見事と言えた。
「人様のことを考えて人混みから外れるとは……お優しい方なんですね」
当たり前だと言わんばかりに胸を張るアリアはともかく、颯真という男を知る人間が聞いたら耳よりも正気と脳を疑って真剣に入院を勧めるレベルの戯れ言を、男はにこやかに言い放つ。
その目は哀れな“正義の味方”を見下していたが、残念ながら目の前にいるのは邪悪な笑みを浮かべる悪魔である。
「いつまでもこうしていては、仕方がありません。その子供を渡してください」
男はそう、笑顔のまま告げる。
そうすれば命は助けると、傲慢に語る目。
彼の目は、雄弁すぎた。
そう、颯真の神経を逆なでする程度には。
彼がしたことは、暗黒邪龍に逆鱗を聞いて、そこに息を吹きかけて笑ったようなことだった。
「だんまり、ですか。仕方ありません。――貴方はもう少し、命を大切にすべきでした」
男はそう言うと、ローファーと靴下を脱ぎ捨てた。
アリアが颯真の異様な気配に気がついてかなり後方に下がっているのだが、それを颯真が逃がしたのだと判断していた。
この時点で、俯いて目元の見えない颯真の発する気配に気がついていれば、まだマシな結果が見えていたのかも知れないのに、だ。
「【脚部接続・因子転換・承認】」
「シフター、か」
颯真は、小さく呟いた。
人にならざる力を宿す、人から外れた突然変異。
警察にも対策課が存在するが、基本的に社会の裏側。
一般人では知らない裏の事情だ。
これを知っているのは、ルールを知らなければならないシフター同士のみ。
確実にシフターだけしか知らないという分けではないが、男は颯真がなんらかのシフターであると、このやりとりで検討づけていた。
「転換しますか?」
「てめぇ程度の相手に?」
男の笑顔は崩れない。だが、その広い額には青筋が浮かんでいた。
颯真は、他人の逆鱗を探して殴って怒らせてぶちのめすのが、得意な男なのだ。
つくづくろくでもない性格である。
「後悔しなさい――【フロッグシフト】」
男の両足が、骨格を換えていく。
色も質も全てが転換されて、めきめきと奇妙な音を立てる。
その両足は、まさしく蛙。太く平べったい、蛙の足だった。
“転換因子”
存在にもっとも適合する他生物の因子。
自分の魂を構成する因子を転換させて、己に由来するたった一つの“人外”に変身を遂げる、今世紀最大の謎の因子。この因子を持ち、他生物に変身する人間のことを、“シフター”と呼ぶ。
颯真の目の前の男は、蛙のシフターだったのだ。
男は屈伸運動をして、足を伸び縮みさせる。
白と緑のコントラストに黒い斑の足を惜しげもなく晒すその姿。
笑顔も相乗効果を発揮させて、実に堂々とした“変質者”の様子を演出していた。
一言で言うと、気持ちが悪い。
自信を持っているようなので、気の毒すぎて本人に告げることはできないだろう。普通の人ならば。
「きめぇ」
そして、ためらいもなく口にしてしまうのが、颯真という男である。
男は笑顔が崩れるんじゃないかと思うくらい、額に青筋を作っていた。
そろそろこの男は、颯真が“ストレス解消”をするために脇道に外れたことに、気がつくべきだった。
「轢殺してあげましょう」
男がそう、告げる。すると、男の姿がかき消えた。
蛙の凄まじい跳躍力を持って、裏路地の壁を縦横無尽に跳ね回る。
その高速機動は、並の人間では捉えられない、目で追うことも難しいスピードだ。
だが、残念ながら颯真は色々と並の人間とは言い切れない。
「おじさん、がんばって!」
アリアの可愛らしい声援が、颯真に届く。
生憎颯真は頑張るつもりなど欠片もない。
だが、今までの経験から考えれば、返事をするまで言い続けるだろう。それは、煩わしい。
だから、颯真はやる気なさげに、半身から背を向けて、右手をふらふらと振って見せた。
そのことに喜んでいる以上、アリアのことは放っておいてもさほど問題ではないだろう。
煩わしくないという意味で。
颯真はおもむろに、足下に落ちていた空き缶を拾った。
男は、自分のスピードを前にした悪あがきを見てから、必殺“ガマ油滑走路”でとどめを刺すつもりだったので、その様子を気にしていなかった。
そして颯真は、男の軌道を一瞥すると、壁に向かって空き缶を放り投げた。
「なっ!?」
それだけで、十分。
跳ねるために壁に向けた足と、壁の間に空き缶が挟み込まれた。
その結果、男は壁の上で“滑り落ちる”という奇妙な体験を味わうことになった。
予想のつかなかった出来事に、男は頭を下にして落下する。
シフターならこの程度で死にはしない。
だが、意識を失って逃げられるだろう。
男の顔から笑顔は消えていないが、悔しげだ。
そして、颯真は……その程度で許す程、優しくはない。
壮絶な笑みは、世界征服を目の前にした魔王のようだった。
軽く前に出るだけで、そこは男の落下地点の、一歩半前となる。
颯真は男の落下タイミングを読んで、前蹴りを放つ。
全体重を込めたその蹴りは、逆さまに落下した男の顔面を捉えた。
俗に謂う、ヤクザキックが男の笑顔に突き刺さる。
「ぎゅぶっ」
奇妙な声を上げて、鼻から鮮血をまき散らしながら仰け反る。
逆さまに落ちてきて仰け反ったため、勢いよく後ろにはじき飛ばされながら顔面でスライディングした。
無残である。
颯真は白目を剥いている男に近づくと、身分証明書を見るために、ポケットから財布を抜き出す。
“遠藤京次”と刻まれた免許証を、警察の友人である村正に引き渡すために抜き取っておく。
そして、当然のように金も抜き取った。高そうな銀時計も、さりげなく回収している。
「おじさん、かっこいーっ!」
「当たり前だ」
決して当たり前ではない。
むしろ、今は恐怖にむせび泣く場面であって、顔を輝かせて笑う場面ではない。
アリアは今、素敵なナイト様に助けられて、ご満悦だった。
誰か、この幼い少女の頭を救ってあげるべきだろう。
「臨時収入だ。夜は何が食いたい」
「はんばーぐっ!」
福沢諭吉が五人も手に入ったことで機嫌の良い颯真は、夕飯のリクエストを聞くという普段なら絶対にしないことをした。
颯真は、頭の中に煮込みハンバーグのレシピを思い浮かべる。
デザートまで考えている辺り、本当に機嫌が良いようだ。
「しっかし……なんだかなぁ」
ハンバーグにはしゃぐ小さな少女。
何の動物に変身するかも解らない、謎のシフター。
聞き出すと深みにはまりそうで、聞くに聞けない、けれど気になるジレンマ。
アスファルトを踏みならす軽快な足音に、颯真は深く、息を吐く。
白い吐息が昇るのは、果たして空か、深淵か。まだまだ厄介事は、尽きそうになかった。
「おじさんっ!はやく!」
笑顔で強ばった手を引く、幼く白い、小さな手。
その手をふりほどくのも面倒で、颯真は開いている左手で、がしがしと頭を掻くのだった。
第二話でした。
次回は明日か、明後日にあげたいと思います。
ご意見ご感想のほど、お待ちしております。
それでは、ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次回も、よろしくお願いします。
追記、七月十六日、十時三十四分。
誤字修正と、細かい言い回しを修正しました。
ついでに、見やすいように改行を増やしてみました。