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SHIFT  作者: 鉄箱
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1st day 路地裏の天使/喫茶店の魔王

――1999年、七月七日。


世は、騒然としていた。

有名なノストラダムスの預言、恐怖の大魔王。

その言葉に踊らされて、多くの学者が意図を汲もうと研究を重ねた。


様々な憶測が飛び交う中、そのどれも大きな予兆があるものだとし、直前まで騒がれたそれもいざ迎えてみると、なんということはない。平凡な一日が過ぎていった。


七日目ともなると、人々は新しいゴシップにと目を向けて、この預言を過去のものとしてドラマや映画にするといった話まで、持ち上がり始めた。


――今日、この日までは。


この日、空が“光った”のだ。

全世界の空が突然発光し、全ての人間に黄金の雪を降らせた。

家の中にいようと、シャルターに逃げ込もうと、意味を成さない。

全ての物質を乗り越えて、人々にその雪が降りかかる。


預言は本当だった。

そう人々は騒然した。


だが、人々の生活に、変化は起こらなかった。


そう、表面上は、なにも――――。











SHIFT











――2021年、十二月十五日。


しとしとと降る雨。

十二月中旬ともなると、肌寒さで外へ出る気がなくなる。


古ぼけた看板に綴られた文字は、かすれて読み取ることが出来ない。

ただその木製のドアと店内を見回すことの出来る窓が、その店を喫茶店であると示していた。


掃除の行き届いた店内は、古ぼけた入り口からでは考えられない程清潔だ。

昼時なのに客がいないところを見ると、掃除しかやることがなかったのだろうという答えに、簡単に辿り着いた。


顔が映る程磨かれた、木製のカウンター。

その奥で、一人の男が寛いでいた。


鴉の濡れ羽色――滑らかな漆黒をオールバックになでつけている。

目は同じく黒。だが、つり上がった目は研ぎ澄まされた黒曜石を思わせるほど、鋭利だ。

整った顔立ちは、男の印象を尖らせる。氷のような、刃物のようなといった形容詞がよく似合う風貌だ。


ウェイター服がよく似合っては、いる。

だが、カシミアのロングコートの方がよく似合うだろう。

彼は、表の職業に就いていて良い、優しげな雰囲気は、纏っていない。


喫茶店の棚に入れた、タバコの箱を取り出す。

一応ここは飲食店だが、鋭い目で周囲を睨み付ける彼の前に訪れることが出来る人間は、そうにいない。すなわち客が来ないということで、彼は彼のみのスペースで好きにやっている。それだけなのだ。


「あ?……ちっ、しけってやがる」


男は、ぐしゃりとタバコを握りつぶす。

もう無かったかと棚を探すが、見あたらない。


「めんどくせぇ」


嫌そうに息を吐きながら、ウェイター服のポケットをあさる。

奥の方までごつごつとした指を伸ばして、丸めたレシートと一緒に硬貨を取り出した。


一に丸が二つ刻まれた、銀の硬貨が二枚きり。

これでは、タバコどころか酒も買えない。

せいぜい、アルコールの入った薄い水もどきの酒を買う程度が、関の山だ。


「はぁ……ったく」


仕方なく、レジを開ける。

躊躇無く店の金を使おうとしている辺り、粗雑な性格が見て取れる。


「こっちもか」


だが、レジの中も、空だった。

最後に客が来たのはいつだったかと、頭を捻らせる。

考えても一向に答えは出ず、男は額を抑えて呻り始めた。


「一ヶ月、いや、二ヶ月前……か?」


どうやら、月単位で客が訪れていないようだ。

男は自分の髪を強ばった右腕でがしがしとかき回すと、大股歩きでカウンターを出る。

壁に掛けてあった灰色のロングコートを左手で掴むと、それを乱暴に羽織った。


店の傘立てに置いてある、金属部分が錆びた黒い傘。

客の忘れ物だったそれを、男は躊躇わず使っていた。客も、忘れていたことに気がついていたとしても、わざわざ顔の怖い男の下へ取りに戻ったりはしない。

男は自分でそう判断して、勝手に使っていたのだ。


「気分転換っと」


軽い口調だが、低く重い鋭利な声で放たれるその言葉は、とても平穏な内容に思えない。

普通の感性を持つ人間が側にいたら、“なに”で気分転換をするのか怯えて通報するだろう。


喫茶店を出て、準備中の札を手に取る。

男はそこで初めて、札が“始めから”準備中だったことに気がついた。


「ちっ……誰の仕業だ」


そう言って虚空を睨む。

その仕草は標的を定めた殺し屋のようだった。

ちなみに犯人は当然、前回の準備中から戻すのを忘れていた、この男である。


苛立たしげに踵を返すと、傘を差す。

水滴が傘に当たる度に弾け、ぽつりぽつりと音が鳴る。

弾かれた水滴の何割かは、すぅっと流れて傘の外へこぼれ落ちた。


頬に当たる風は、冷たい。

だが、そんなことは男にとってどうでもいいことだ。

ぎりぎり東京というこの町は、閑散としていて寂しげだ。

人影一つ見あたらないことに、客が来ない理由は町長の町興しが出来ていないのだからだろうと、顔の怖さと粗雑な性格を棚に上げて、顔も覚えていない町長を恨む。


――パシャ


水たまりに足を置いてしまったせいで、水が跳ねて黒いズボンの裾を汚す。

苛立たしげに足を二三度降ると、傘の持っていない右手で再び頭を掻いた。


「今日は厄日か」


八割が自分の普段の素行が原因なのだが、男はそんなことは欠片も考えていなかった。

自分が悪いと落ち込む根暗は、男が一番嫌いなタイプだった。もっとも、男の場合は気にしなさ過ぎなのだが。


水たまりを避けて歩いたりはしない。

水たまりの為に余計な労力は使いたくないという、二十八の男が考えるのには子供じみた意地だった。彼は時折、こんな一面を見せるのだ。時折では、ないかもしれないが。


――……


歩いていると、聞こえてきた声に足を止める。

動物の鳴き声には聞こえなかった。どちらかというと、か細い声だ。

暗い路地裏の、その奥。こんな場所にいるのは、世間知らずの阿呆か後ろ暗い事情を持つ人間、それでなかったら浮浪者だ。


「……なにか、持っているかもな」


世間知らずの阿呆なら謝礼、後ろ暗い人間なら口止め料、浮浪者なら情報網。

どれも自分に益のあることばかりだと、男は凶悪な笑みを浮かべた。悪人面である。


だが、男は忘れていたのだ。

自分で先ほど……“今日は厄日”と呟いたことを。


やや興奮した足取りで、路地裏を歩く。

鼻をつく生ゴミのような臭いと、湿気った雨の匂い。

普段なら眉をしかめて苛立たしげに舌打ちをする、淀んだ空間。

そんな濁った空気も、欲に目が眩んだ男にとっては、些事だった。


――……けて


助けを呼ぶ声。

この時点で、男の脳内では謝礼が計算されていた。銭の鳴る音が、脳内で響く。

まずは酒だ、次にタバコだ、と、捕らぬ狸の皮算用で既に散財することが決まっていた。

貯金をしていく、という考えは、男にはなかった。


路地裏の、曲がり角。

右手で壁の角を掴みながら、横に曲がる。

暗い路地裏の、小さな街灯の、その下。

男はその光景に、目を瞠る。


月の光を呑み込んだ様な白銀の髪。

雪よりも儚く絹よりも繊細な白い肌。

薄汚い路地裏においてもなお映える、整った容姿。


天使のような美少女が、そこに眠っていた。

息は荒く、幼いと言うことを差し引いても扇情的だ。

眠っているのは、助けを呼ぶのに疲れたからだろう。


男はその少女をじっとみて……大きく大きく息を吐いた。


どう見ても十にも満たないの少女に、邪な気持ちを抱く程、男は“ダメ”ではない。

そして、こんな場所にこんな少女を放置しておくほど“駄目”でもなかった。


「本当に、厄日だ」


白く染まったと息と共に、疲れを乗せた声が、暗い雨雲の中へ溶けていった。















かち、かち、と音を立てて、時計の針が回る。

瞼の裏に感じるぼんやりとした熱に、少女はそれが光だと思い至り、その暖かさに柔らかい涙を流した。


右手を持ち上げて、目元に這わせる。

こぼれ落ちた熱を持つ水滴を無造作にぬぐい取って初めて、自分が暖かい布にくるまれていることに気がついた。


瞼を開いて、上半身を起こす。

それだけで疲れた身体は軋み、全身の関節が、弱々しい悲鳴を上げた。


ゆっくりと見下ろして、自分の姿を見る。

意識がなくなるまで着ていた、白いワンピース姿。

所々に付着した汚れに、少女は首をかしげて、さらに何故意識を失っていたか思い出せないことに、気がついた。


次に少女は、周囲を見回す。

首をぐるりと回して、空色の目を上下左右にくりくりと動かした。


木造の質素な部屋。

桐の箪笥に埋め込め式のクローゼット。

和洋折衷なアンバランスさが、家主の無頓着さを表していた。


木目がすこしだけ怖い天井には、丸いカバーのかけられた電球が、オレンジに近い白い光で部屋を照らしていた。安い電球なら、こんなものだろう。


床は明るい木の色をしたフローリング。

埃一つ落ちていないところを見ると、よほどの綺麗好きかよほどの暇人か。

前者ではないとは、言い切れないが、この場合は後者である。


茶色の毛布は、よく見ると三枚もかかっていた。

厚手の布団がなかったので寄せ集めてきたのか、極端に色落ちした毛布が混ざっていた。

対して寝台は、少し広めのセミダブル。

シーツは白で、小まめな洗濯のためか汚れはない。

動く度に緩やかに弾むスプリングが、少女の胸を少しだけ躍らせた。


見回すのにも飽きて、ベッドから降りる。

毛布から足を出して、ベッドの横から足を降ろすと、ぺたんと音を立ててフローリングに着地した。

それだけで視界がほのかに白くなり、立ち眩みが起こる。

そのままふらりとベッドに腰掛けてしまい、少女は不満げに朱い唇を尖らせた。


意を決して、もう一度挑戦する。

やってやれないことはない。何事も挑戦が、子供を大きくしていくのだ。


今度はゆっくり、右足から二回続けて、足の裏でフローリングを叩く柔らかい音が鳴る。

フローリングの冷たさを、ぴったり貼り付けた足の裏から感じて、少女はぶるりと肩を震わせた。

そのことがなんだか悔しくて、もう一度唇を尖らせる。今度はおまけに、頬も膨らませて見せた。


フローリングの冷たさを足の裏で感じながら、一歩二歩と木造のドアまで歩く。

銀色のドアノブに映った自分の顔が、変に歪んでいる。そのことに、少女は興味を持つ。

横に動いてみたり、伸び上がってみたり。

ぐにぐにと動く顔に面白くなり、握り拳を口元に当てて、白い歯を見せながらころころと笑った。

でも、その内に自分の顔が本当に歪んでしまったのかと心配になり、慌てて顔を触ってみる。


触っていると、ぷにぷにとした頬を触ることが楽しくなって、すぐに心配事など忘れてしまった。

そして、はっと思い出してドアノブに手をかける。

額よりも少し高い位置にあるドアノブを回すと、少女はゆっくりと押し開いた。


ペンキで白に塗装された壁は、長いこと塗り直していないのか、所々がひび割れている。

すべすべとした手触りの壁に手をかけながら、開いたドアと壁の間から身を乗り出す。

きょろきょろと周囲を見回す気分は、秘密の冒険家だ。


フローリングを歩く音が響かないように、抜き足差し足。

それでも小さく、ぺた、ぺた、と音がしてしまうのは、ご愛敬だ。


やがて階段に辿り着く。

壁に手をつけておそるおそる降りる。

一段一段が高いことに、少女はアトラクションを前にした恐怖心と興奮を、知らず知らずのうちに胸に抱いていた。


最後の段を下りきって、少女は両手を振り上げる。

達成感は大きくとも、進んだ道は短い。

短いということは、まだまだこの冒険を堪能できるということだ。


意気揚々と、左へ曲がる。

右方向と迷ったが、お茶碗を持つ方を選んでみたのだ。

まだ冒険は、序章を終えたばかり。これからが、本番だ。

息を大きく吸って、左手でガッツポーズ。さぁいざ行かんと右腕を振り上げた。


「で?どこへ行くつもりだ?」


後ろから聞こえた声に、少女はびくりと肩を震わせた。

低く重い、苛立った声。少女は振り返らなかったときの恐怖心と、真逆に位置する怖いもの見たさの感情を、総動員しておそるおそる振り向いた。


だが、振り向いた先には、黒い棒が二つ立っているだけだった。

少しの間首をかしげて、視線を落とす。その棒から地面に平べったくくっついた靴下が生えていることに気がついて、少女は左手の平に、右手の握り拳を落とした。


閃いた、と言わんばかりに、満面の笑みで顔を上げる。

気分は名探偵。犯人はおまえだ、と声を上げそうだ。


そして、見上げた先の顔を見て、少女は表情を変えた。

黒い髪と、黒い鋭い目。苛立たしげに歪められた顔は、まるで少女がもっと小さい頃に絵本で見た、勇者と戦う暗黒の邪龍のようだった。


その鋭い目に見下ろされて、少女は……目を輝かせた。


「かっこいい」

「――――はぁ?」


自分の容姿なんて、自分が一番よくわかっている。

だから男は、目を輝かせて自分の顔を覗き込む少女に、顔を引きつらせた。

そして、少女の正気を疑って初めて自分の顔のことだと確認して、落ち込んだ。

かっこいいと呼ばれて素直に喜べないし、そもそも子供に言われても嬉しくはない。


「おじさん、だれ?」

「あ?――あぁ、そうか」


男は漸く状況を思い出して、ため息をついた。

泣く子も拳骨で黙らせる程度には大人げないが、純粋な感情には弱かった。

かっこいいと言われたから“黙らせた”などと世間に吹聴されれば、自分の評価はマフィアから変質者にジョブチェンジする。

男はそのことに思い至り、もう何度目か解らないため息をついた。


「来い」


男はたった一言そう告げると、背を向けて歩き出した。

少女はその言動に、自分を導く勇敢な騎士のようなビジョンを瞼の裏に思い浮かべて、花のように咲いた笑顔でついていく。

その場に第三者がいたら、それは勇敢な騎士などではなく首を刈るデュラハンだ、と止めていただろう。


ぺたぺたと、小走りでついていく。

男は少女のために歩く速さを緩める程、優しくはない。

むしろ、小走りになっていることに気がついていながら緩めないところを見ると、嗜虐的な趣味でもあるのかと誤解されるだろう。趣味ではなく、癖なのだ。なお悪いが。


荒々しく銀色のドアノブを掴むと、乱暴に開ける。

少女が入ってくるので、開けたままにして大股で歩く。

この時点で、男は脇に置いてあるローファーを履いていた。


喫茶店の、店内。準備中の札だけでなく、埃一つついていないブラインドも下ろす。

小さな子供を連れ込んでいると騒がれれば、もう何度目か解らない無実と誤解の警察騒動に繋がる。

しかも今回は、少女の身元がわからないのに男に懐いているという怪しい要素がある。

国家権力に屈するつもりはないと胸を張れば、塀の高い檻に入れられるのだ。


かしゃん、と音がしてブラインドが下まで落ちる。

全ての窓を隠したらそれはそれで通報されそうだが、この程度なら周辺住民も「またか」と怯えるだけで済む。男はいい加減、この周辺を焼き払いたかった。


電気のスイッチをつけると、店内が明るくなる。

男は壁際の席に乱暴に座ると、生活区と店内を繋ぐドアのところに立ったままきょろきょろと店内を見回す少女の様子に、ため息をついた。

目の前の金銭に捕らぬ狸で目が眩んだ自分が悪いとは、考えない。

何事も前向きに。責任は、押しつけてこその責任だ。


「さて」


男は、友人に勧められて貰った禁煙用の、タバコの模造品を咥えた。

何か咥えていないと落ち着かないのだから、使わないと思っていたこれで我慢する。


男の様子に気がついた少女は、裸足のままぺたぺたと走りより、男の向かいの椅子を引いた。

そして、背の高い椅子に飛び乗ろうとして、椅子の背に額を打つ。

横から乗ろうとしたのが悪かったのかと、少女は涙目で額を押さえながら、唇を尖らせた。

これも、今日で三度目だ。


今度は、前に回る。

椅子を倒さないように慎重に、机と椅子を掴んでよじ登る。

気分はロッククライマー。前人未踏の頂上へ、果敢に挑む。


だが、それをいつまでものんびりと眺めている程、男の気は長くない。

むしろ短い方だと自覚している男は、ここまで見ていた自分を褒めたくなった。


椅子から立ち上がる姿に、先ほどまでの乱暴さはない。

一生懸命頑張る少女の姿に絆されて、手を貸してあげようと立ち上がった。


――なんてことは、もちろんない。


単純な精神的疲労で、のろのろと立ち上がったという、それだけの話だ。

手伝うのではなく、さっさと話を進めさせるのだ。

だったら、始めから手を貸してやれという話だが。


「むむむ」

「はぁ」


呻る少女の首根っこをひっつかみ、椅子に座らせる。

猫のように掴み取られた少女は、自分の身体が浮き上がったことに、目を輝かせた。

この暗黒邪龍は、きっと魔法使いだ。そんなとりとめのない思考は、少女の中で“尊敬”に変わる。

男はここで、少女に敵わなくなるフラグを立てていた。

重ねて言うが、この男は純粋な好意には弱いのだ。後ろ暗いから。


「で、なんでおまえは――」

「――わたし、アリア!おじさんは?」


漸く話を進ませることが出来る。

そう思った男の言葉は、少女――アリアによって、出鼻をくじかれた。

男は大人げなく額に青筋を立てたが、少女の無垢な瞳に気圧されて、言葉に詰まる。

迷子の子供に懐かれて、犯罪者と間違えられて腰の引けた警官に拳銃を向けられたときも、気圧されたりはしなかったのに。ちなみにその警官は、男が眼力で気絶させて、事なきを得た。


「はぁ――颯真……源、颯真だ」

「みなもと、そーま……うんっ!わかった!おじさん!」


結局“おじさん”である。

だが、いちいちアリアの言動を気にしていたら話が進まないと言うことくらい、男――颯真はこの短い邂逅で理解していた。人間は、学ぶ生き物である。


「で、どうしてあそこにいた?」

「どこ?」


無邪気に首をかしげるアリアに、颯真は再び青筋を立てる。今度は二本もある。

気の弱い人だったら、これだけで失神するだろう。

颯真は、息を整えて、落ち着く。


人間は学習するのだ。

重ねて言うが、学習する生き物なのだ。


「おじさん、どうしてへんなかおしてるの?」


三本目の青筋が浮かぶ。

首都高の分岐点並みに枝分かれしていて、今にも血管が切れそうだ。

颯真は、何故自分が我慢をしているのか疑問に思って、握り拳を作った。大人げない。


「でも、かっこいーねっ」

「ぐっ」


震える手を、机の下に隠す。

息を荒くしているため、客観的には変質者だ。

颯真は行き場のない怒りの発散口を、机に定めた。

机の端を握ると、思い切り潰す。

木製の分厚い机が、颯真の握力でみしみしと歪む。

そして、フローリングに落ちる木片を掃除するのは自分であると言うことに思い至って、嘆息した。


「親は?」


颯真は、いっそ短く聞いて情報を集めることにした。

そろそろ破裂した血管で額の上の渋滞玉突き事故が起こりそうだったためだ。

我慢強いと自分に言い聞かせられる分だけ余裕があると、血の上る脳みそで考えていた。


「おや?」

「お父さんやお母さんだ」


なおも首をかしげるアリアの様子に、颯真は今度こそ机の上に突っ伏した。

予想以上の厄介ごとなのに、下手をすれば金は一銭も入らない。

警察に持って行くというのが一番現実的な手段なのにそれを選べないのは、出頭騒ぎが嫌だからだ。

警察署には、彼専用の取調室(私物付き)がある。常連でも、嫌なのだ。


これからどうするべきか、颯真はつらつらと考える。

机に乗せた右手、人差し指で、木目をとんとんと叩く。

アリアはその指を、じっと眺めていた。指の動きに合わせて身体ごと顔を上下させる。

そうしている内に酔ったのか、青い顔で蹲った。


颯真は、無意識に灰皿に手を伸ばす。

隣の席に置いてある灰皿は、少し遠い。

だが、タバコの火がついている訳ではないので、簡単に諦めた。


「おじさん、はいっ!」

「ん?あぁ、すまん……な?」


アリアに灰皿を手渡されて、それを自分の前に置く。

そこまで来て、漸く自体の異常さに気がついて、咥えていた禁煙用のタバコを口から落とした。

目を瞠り、首をかしげる少女を見る。

そして、風切り音を幻聴させるほどのスピードで首を回して、隣の席を見た。


そこには、灰皿はない。

アリアは、椅子に座るのにも時間がかかる。

取って戻ってくるような、時間はない。

それならば、どうやってやったのか。

それを考えて、颯真は苛立たしげに右手で頭を掻いた。


「おい、今どうやった?」


直接訊ねると、アリアはきょとんと小首をかしげた。

ぷらぷらとさせていた足を一度止めて悩み、思い至ったのか笑みを作る。

そして、更にも二つ隣の席に、指を向けた。


「えーとね……こうっ」


アリアが気合いを入れて、灰皿を見る。

すると、アリアの指に引き寄せられるように、ふわりと宙を浮いて、灰皿が颯真の前に落ちた。

落ちる勢いが強かったせいで、灰皿はからんと机の上で跳ねた。


「そこで、待ってろ」

「うんっ!」


にこにこと笑みを浮かべて、颯真の言葉に頷く。

その限りなく無邪気な表情に、颯真はついに頭だけでなく胃も痛くなってきた。

彼のように図太い精神の胃にダメージを与えることが出来たのは、後にも先にも彼女一人だけである。


乱暴に席を立つと、壁に掛けたロングコートのポケットから携帯電話を取りだした。

装飾のない黒一色の携帯電話。

その横のスイッチを押すと、勢いよく開いた。無造作に短縮番号を押して、苛立たしげに左耳に当てる。


『現在この携帯電話は』

「いいから普通にしろ」


颯真よりも冷たい、低い声。

電話越しにもわかる怜悧な雰囲気は、よくわからない冗談のせいで簡単に霧散する。

ブラインドのかかった窓の横に背を預けて、右手をウェイター服のポケットに突っ込んだ。

足先で床を叩く姿から、彼の感情が簡単に予測できた。


「銀髪のガキの“シフター”だ。心当たりは?」

『知らん……が、“何”だ?』

「わからん」


颯真の言葉に、男は低く、呻る。

電話越しに感じる困惑の感情に、颯真は苛立ちを隠そうともせずに、右手で頭を掻く。

この仕草は、颯真が苛立ったときの癖だった。

無くて七癖とはよくいったもので、無くそうしても無くせないのが癖である。


『厄介事には相違ないだろうが……いや、まさか……そうだな、匿っておけ』

「ガキのお守りをしろってか?」


電話越しで表情が見えないとはいえ、男は颯真の苛立ちを如実に感じ取っていた。

男にとって、颯真は古い付き合いになる。

颯真が案外と流されやすいことも、割と良い一な部分があることも――目の前の欲望に後先考えない節があるのも、しっかりと把握していた。


『謝礼を出す準備があったのだが、そこまで言うのなら』

「仕方ねぇな。さっさとどうにかしてくれよ?」


即答だった。

それも、声色まで柔らかくなっている。

彼は、もう少しで今月の電気と水道を止められるところだったのだから、仕方がない。

天下の回りものがなければ、生活サイクルも回せないのだから。


『そうか。すぐに振り込んでおこう。とりあえずは、前金だ』

「おう、頼んだぞ。村正」


男――村正は、最後にもう一度「頼んだ」と口にして、電話を切る。

颯真は携帯電話の通話終了ボタンを押すと、ロングコートのポケットに、携帯電話をしまった。

そして、上機嫌な様子でアリアの前に戻ってきた。

軽やかなに椅子に座る辺りで機嫌の良さが伺えるのだが、その顔は邪魔者を始末したギャングのように恐ろしかった。

こんな怖いものが格好良いなどといえるのは、アリアだけだと断言できる。


「あー、アリア、だったな」

「うん!」


待ち望んだ颯真の声に、アリアは歓喜を滲ませた声を出す。

鈴の転がすような声は、聞き心地が良い。

もちろん颯真は、そんなところは気にしていない。

颯真にとってのアリアは今のところ、金の生る木、程度で止まっている。声なんか、気にしていない。


「帰る家はあるのか?」


順序がおかしい。

ここで有ると答えたら、前金だけ貰うつもりでいる辺り、彼が顔と中身が完全一致する瞬間があるから駄目だと友人に怒られる、所以だろう。

そんな楽をして稼ごうという颯真の考えなんて知らず、アリアは俯いて首を振る。

その様子から、颯真は追求しようとはしない。聞いたら、厄介事に全身で突っ込むことになるからだ。


「それなら、少しの間、ここにいるか?」


颯真がそう続けると、アリアは目を瞠って颯真の顔を見る。

少しだけ潤んでいる目には、あえて気がつかない、隠したいのなら好きにすればいいという、投げやりな感情だった。


「うん!よろしくねっ!おじさんっ!」


満面の笑みを見せるアリアに、颯真は苦笑を零した。

だが、その顔は、最初よりも幾分か柔らかい。

彼にこの話を持ちかけた村正という男は、知っていたのだ。

颯真は、明確な“理由”を与えられないと善行を働くことが出来ない、不器用な恥ずかしがり屋である、と――。



数分後、颯真は、意気揚々と確かめに行った銀行の、預金残高で崩れ落ちることになる。

水道代と電気代によって金が突き返せない状態で、法外な値段の前金にその理由たる“厄介事”に巻き込まれたということに、気がついて。



これが、男と少女の、小さな物語の序章。

その中の、小さな小さなプロローグだった――。

長編、短編と書いたので、今回は中編です。

全七話構成を予定しています。


描写に力入れて書いてみようと思います。

できるだけ、わかりやすい文章になるように、と。


ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

今作も、よろしくお願いします。


追記、七月十六日十時七分。

見やすいように改行と、言い回しの細かい部分を修正しました。


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