感情盲
ある所に、青年がいた。
青年の家は貧しく、毎日を生き抜くための日銭を稼ぐので手一杯だった。
朝ごはんは食パン一切れが限界。
そんな生活の中で、彼が頑張れる理由。
それは、彼の手元に残った唯一の肉親だ。
だから、今日も彼はたった一つ残った宝物を養うため、家を出る。
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「はぁぁ、今日も寒いなぁ」
……しょうがない。
まだ日は昇ったばかりである。
吐息に含まれていた水蒸気が凝結し、白い靄となって空気中に溶け込む。
ぐだぐだしている暇もない。
残念なことに、あと30分で仕事は始まってしまうのだ。
彼は足を早めた。
「あいつと毎日顔を合わせるのが苦痛だ……」
あいつとは職場の上司のことである。
それに、彼が考えるだけで胃が痛くなるほど、嫌っている者の名でもある。
(しょうがない。割り切るべきだ……仕事場へ急ごう)
しかし、家を出て、いつも通っていた道を通り、いつもの分岐にたどり着いた瞬間に彼は災難に出会ってしまった。
なんと片方の道が道路工事の影響で通れなくなっていたのだ。
存在感のある看板に彼は顔を青くした。
その道は、いつも彼が通っている道だったからだ。
彼は思った。
(まずいな。このままだと遅刻してしまう)
そして、それは非常にまずいと。
なぜなら、先ほど申した働き先の上司、という奴はもう鬼みたいなやつで、1分、たったの1分遅刻しただけでその日の仕事の量が2倍に増えるのだ。
(あの鬼畜めぇ)
こんなことを言おうものなら即座に首が飛んでしまうが、彼はそう思わずにはいられなかった。
だから、回り道をするという選択肢はなかった。
片方の道に目を向ける。
正直に言えば彼はあまりこっちの道を渡りたくはなかった。
(危ない吊り橋があるから嫌なんだよなぁ。いやでも背に腹はかえられないというし……)
いつもは避けていたその道は、吊り橋を通る道。
いつ落ちるともしれない古びた吊り橋は、彼にいつも恐怖という感情を叩きつける。
去年そこで足を滑らせた彼にとって、この橋はトラウマそのもの。
非常に不本意ながら彼は足早にそこへ向かうのだった。
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「……え……は?」
信じられない光景に一瞬身を固める。
「おいおい、待て待て待て!」
なんと橋から飛び降りようとしている少女がいたのだ。
橋の手すりに手をつき、さらにそこに足を乗せている。
どうやらそこから飛び降りようとしていた瞬間に、それを彼に邪魔されてしまったようだ。
声に釣られて、彼女は振り返った。
さも嫌そうに。
「……?」
彼女のその目に宿る色は、黒。
様々な色がぐちゃぐちゃに混ざった黒だ。
風は凪ぎ、小鳥の囀りも消えた。
彼女は僅かに口角をあげ、口を開く。
「あなたも一緒に、死ぬ?」
ここで引き返せたらどれほど良かったか。
「いや、だから待てって」
だが、青年は変に勇敢だった。
そのまま足を一歩踏み出し、手を伸ばす。
「いいか、よく聞け。死ぬのはいいことじゃないぞ。……親が悲しむだろう?」
青年は焦る。
このままだと仕事にも遅刻するし、そもそも少女が死んでしまう。
でも、少女には死んでほしくない。
ここで少女と仕事を天秤にかけ、彼は少女を選んだ。
そこで人命を優先するだけの人間性を持ち合わせていた。
だから彼は少女を橋に引き戻そうとする。
しかし。
逆に伸ばした腕を彼女に掴まれる。
強制的に下を向かされ、青年は少女に真下からじっと見つめられた。
不覚にも、この瞬間、青年は僅かにときめいていた。
少女は口を開く。
「私が、親を殺したの」
少女は青年の手をもっと力強く握る。
そして、投げた。
気づけば、彼は下から橋の下を眺めていることに気づく。
(あ、女の子が真上にいる……)
1秒にも満たない思考時間の直後、大きな水しぶきが2つ続けて上がった。
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「……ぷはぁ!?」
再び彼が目を覚ますと、早速見慣れた天井と、吊るされた電球が目に映る。
まあ、つまりいつもの風景なのだが。
「ハッハッハッハッ……」
息切れを起こしている。
変な汗もかいているようだ。
心臓に手を当ててみると、全力で走り切った時位の心拍数を感じた。
細部細部まではさすがに思い出せないが、夢で死ぬ直前までの流れは思い出せる。
そう、自分が橋から突き落とされる瞬間まで。
(……それにしてもリアルな夢だったな)
会ったこともない少女が自殺しようとしていたから、それを止めようとしたら、自分が逆に落とされる。
「はは……これまさか正夢じゃないよな?」
少女の黒い瞳。
不思議なことにそれが脳裏にこびりついて離れない。
心臓が激しく暴れ出す。
脳がメモリーを必死に再生しようとする。
が、ちょうど彼は仕事のことを思い出した。
そうだ。
結局家を出る準備をするしかない。
夢に期待してはいけないのだ。
彼は食パン一切れを必死に噛み砕き、家の振り子時計を見上げた。
「っ!?まずいっ、遅刻する!」
家の扉が大きな音を立てて開き、そこから彼は飛び出す。
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途中まで、彼は順調にいつもの道を走る。
鳥が横でピーチクパーチク鳴いているのを横で見ながら彼は走る。走る。
だが、そんな彼の足も不意にピタッと止まってしまった。
工事中と書かれた看板を眺めながら、彼はため息をつく。
「そうだ。ここは通れないんだっけ」
(……ってあれ、なんで俺ここが工事で通れないって知っているんだ?)
そんな疑問がよぎるも、時間を確認せねばという焦りで疑問は捨て置かれてしまった。
彼はチラッと左腕につけていた腕時計を確認する。
「変だな。デジタルなのに10分も時計がずれているんだが」
度重なる疑問を「偶然」という言葉に変えつつ、どこか拭えない違和感を感じて彼は身震いした。
「後で直しておこう」
さらに走ること数分。
すぐに分岐の先の古い吊り橋に彼は辿り着いた。
そして、そこには少女がいた。
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カタッ。
橋に足を乗せると、木と靴がぶつかり合って高い音を鳴らしてしまう。
「……?」
心の底から嫌そうに振り向いた少女は、美しかった。
漆黒の双眸、とでも形容するしかないその瞳に見覚えがあると彼が気づいたのは数秒後だ。
「あ、夢の中の……」
言葉を言い終わる前に、彼女
「あなたも、一緒に死ぬ?」
「綺麗だと思いました!」
一瞬の間。
あっけに取られたような空気が流れる。
さて、夢の中で、彼は自分が突き落とされる直前までただ一つの感情を胸に抱いていた。
あぁ、美しい。
いや、こんなことを言おうものなら変態と罵られてもおかしくないのだが。
ただまぁ、彼の出自が出自だけに、感じてしまった。
このぐちゃぐちゃな瞳をどうしても綺麗だと思ってしまった。
「……私が、さっき自分の親を殺したの」
「知ってます!!」
「え?」
「あ」
今、言ってはいけない言葉を発してしまった気がする。
だが、もう一度言おう。
彼は勇敢だった。
「あなたの目は美しい。」
「え、えぇ……」
若干引かれている気もしないでもないが、しょうがない。
これは彼が知らない感情なのだ。
俗にいうならば、一目惚れ。
彼は思っていた。
(あの目、綺麗になったら、もっと美しく輝いてくれるのだろうか)
……はっきり言って狂人である。
彼自身が今の勢いに引いている節すらあったが、もう後戻りできない。
そして、彼にはもう一つ確信があった。
(これは夢に違いない!)
つまり、彼は今明晰夢の中にいると言うのだ。
……それが変な発言をしていい言い訳にはならないが。
(こんな美しい人、俺の村にいるわけがない)
変な解釈を彼に与えるくらいには、彼は自分の村を嫌っていた。
そして、村も彼を嫌っていた。
と、いうわけなので、彼を見てまともに返答を返してくれた彼女に対して感じるところがあったのだろう。
「……あっそ」
ちょっと呆れたような声が聞けただけで彼は大満足だった。
直後に浮遊感を感じ、彼の意識は途切れる。
その直前彼は、もう一つの水飛沫の音を聞いた。
次目が覚めたら、今度はちゃんと現実を見ようと彼は心に決めた。
夢は夢でしかないのだから。
(あぁ、目が覚めたら、心の準備をしないとなぁ)
彼はなんの痛みも感じていなかったが、ふと胸に棘が刺さっているような錯覚を覚える。
それを無視し続けている間に視界が沈み、再び鮮明に浮かび上がる。
彼の想像通り、いつもの朝が来た。
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「これも夢だったらいいのに」
朝、開口一番彼が発した言葉である。
……そこまで夢が惜しかったようだ。
整理しきれていないことが手に取るようにわかる。
「それにしても、夢の内容を覚えているなんて珍しいな」
食パン一切れを喉に押し込み、洋服を着てやや慌て気味に家を飛び出す。
「くぅ、やっぱり寒いな」
思い出せば、夢の中の彼女は半袖であった気がする。
「やっぱり夢だよな」
走る。走る。走る。
交差点まで来て、彼は迷わず吊り橋の方へ向かった。
腕時計のズレは、ちょうど20分。
しかし、ズレていることすら気付いた様子がない。
前へ進み、肝心の吊り橋へ辿り着いた時、彼は驚愕のあまり顎を開けっぱなしにするばかりだった。
(……いや、なんでいるの!?)
少女が橋の欄干に手をかけようとしていた。
夢での通りの格好だ。
半袖で、とても寒そうだと彼は感じた。
しかし、やはり寒いと感じている様子はない。
彼は恐る恐る橋に足を乗せた。
「……?」
その瞬間、彼女は振動を感じて振り向く。
彼はさっきまで見ていた夢と同じ場面であると気づく。
しかし、あまりにも不可解だ。
(これも、夢なのかよ!?)
青年は明晰夢から目覚める手段を知っていた。
それは、自分で自分に衝撃を与えること。
不思議そうにこちらを見る少女の姿を最後の見納めとして脳内メモリーに仕舞い込み、彼は一直線に橋から飛び降りた。
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彼はもう言い逃れができなくなっていた。
また、少女がいるのだ。
いや、前回とはやや違う。
今から橋を渡ろうとしている。
しかし、少女がいるということは、これは現実ではない。
彼はもう何が何だかわからなくな……りかけ、その一歩手前で踏みとどまった。
(待てよ……俺はもしかしたら大きな思い違いをしていたのかもしれない)
ようやく気付いたようだ。
何はともあれ、まずはこの少女をどうにかしなければいけない。
彼女が、カギなのだから。
「すみません。歩くのならすぐに歩いてもらえませんか」
橋の真ん中で立ち往生していたのがよくなかったらしい。
少女が目の前まで来ていた。
そして、彼も彼女に聞きたいことがあった。
「あ、あの、住所を教えてもらえませんか?」
「……はぁ」
「いえ、無理にとは言いません、が、教えていただけませんか!」
1分ほどの間が空き。
「……私の家は×××****だけど……」
ついに彼女の家を特定することに成功した。
調子に乗って、彼はいらない言葉まで口走ってしまった。
「じゃあ、一緒に死にますか?」
沈黙しか帰って来ず、おかしいと思って顔を上げた瞬間。
彼は空中を舞い、水面に叩きつけられようとしていた。
彼女は最後にこう言ったと思う。
「あなたに、私の何がわかるの」
全くもってその通りだ。
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そして朝が来た。
青年は支度をし、家を出る。
彼は走った。それはもう、全速力で。
彼は分岐に着いた。
いつも通っている道は、工事中と主張する大きな看板で塞がれていた。
もう片方の道を選び、再び走り出す。
橋についた。
大きな吊り橋だ。
湾曲した島の上にこの村は存在しているため、この橋をわざわざ通る者はいない。
しかし、彼の視力1.2の目は確かに少女の影を捉えた。
彼はすでに思い当たっていた。
この不思議な現象を説明する術を。
彼の仮説では、『自分は死ぬ度にその日の自分が起きた瞬間に戻っている』としているが、どうやら少し認識を戻す必要がありそうだ。
「もしかして、俺が起きる時間もずれているのか?」
ちらっと時計に目をやると、明らかにおかしい──少なくとも40分──ほどのズレがある。
いや、違うな。
(ということは……時間がきっかり10分巻き戻っていることになる?その上、俺が直前まで身につけていた物はその巻き戻しの影響を受けない……のか?)
つまり、青年は自分が死ぬことで10分前まで戻れるのではないか、と仮説を立てたわけだ。
彼があーだこーだ考えている間に、少女が彼の近くまで寄って来た。
そして開口一番。
「あなたも一緒に、死ぬ?」
彼は胸に稲妻が走った……妄想をした。
(こういう時、これをなんというのだろうか)
彼女に対する執着というか、不思議な感情が、初めて湧き上がっているように彼は感じた。
青年は戸惑っていた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
慌てたように彼は手を大きく動かす。
「俺なら、あなたの助けになれます!」
彼は勇敢だった。
もし、この時間が何度も何度も繰り返されるのなら、それはきっとこの悲しき少女を助けろ、という神のお告げに違いない。
青年は信心なんてものは欠片も持っていなかったが。
(この少女は、きっと優しい考えを持った人間だ)
彼は、直感でそう感じていた。
なぜ彼女が『一緒に』などという言葉をかけたのか?
それはきっと彼が目に見えて酷い見た目をしているからであろう。
なぜ彼女は問いかけて来たのか?
ひょっとしたら彼の目に僅かな生気が灯っていたのを見逃さなかったかかもしれない。
彼は薄々感じていた。
彼女の異様さを。
肉付きを見るに、明らかに恵まれている。
少なくとも両親からの虐待なんて以ての外だろう。
なのに、半袖を着て、その上寒さを感じているようにも思えない。
死への恐怖も、僅かしか感じ取れず、なるようになれとでも思っているようだ。
青年は勇敢だった。
ただ、今の行動が勇敢によるものなのか、確かめる術はなかった。
彼は、狂っている。
まず彼は、心優しいはずだった少女を見てみたいと想像した。
そして、それはきっとキラキラとしているのだろう、と。
彼女を救うために、彼はこの時間を何度も巻き返す覚悟を確認した。
彼を見て唾を吐きかけ、言葉の羅列を並べ立てる輩よりはずっとマシだし、何より──自分の姿が影にいるように見えて。
きっと彼女は絶望の渦中にいる。
なぜって?
ただ青年が、そう感じただけだから。
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彼女が口を開いた。
「あなたに……何がわかるの」
頭おかしいんじゃないの。とでも言いたげな顔だ。
彼はそう聞かれるであろうことも読んでいた。
「そうですよね。まだ何も言われてないんですから」
ただ、これだけは話さなければいけないと、とも思っていた。
「でも、一回俺の身の上話を聞いてください。聞いたことがあるはずです。この島にいる"悪魔"の存在を」
「……ぁ」
「わかりましたか?俺がその、"悪魔"なんです」
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時を遡り、青年がこの村そのものに嫌われている理由を話そう。
ある日ある時、赤ん坊が生まれた。
元気な赤ん坊ですね、と言われて、彼の親は2人とも満面の笑みであった。
そしてあろうことか、片方の親は彼にこの島の神様の名前を付けてしまった。
さて、それだけならまだ良かった。
ただ不敬であると罵られるだけで済んだ。
しかし、時と場所が災いし、神様の一部が彼に宿ってしまった。
──親の体を依代にして。
突然人の体が崩れ出したら、誰しも驚くだろう。
そして、悲劇は起きた。
神様の一部とは言えども、赤ん坊にとってその力は大きすぎたのだ。
彼は、自分自身の体の主導権を保つため、周囲の人の名前を喰い始めた。
名前とは、その人そのもの。
そこに込められた一種の祈り、呪いごと彼の体に呑み込まれ、消滅した。
彼が体の中にいる神を鎮めるただそのためだけに、その病院内にいる全員──彼の父親を除いて──の名前が喰われた。
そしてそれは、彼の父親が喰われる寸前に、彼の名前を無かったことにするまで続いた。
だから、彼は彼でしかなく、名前を持たない。
今では、名前を喰われた者は新たな名前を得て、新しい生を受けている。
でも、名前を失った恐怖は無かったことにはならない。
故に、青年には蔑称がつけられるようになった。
神にあだなす"悪魔"として。
彼は無事、普通の生活を送れる体になった。
名前に込められた祈りもなく、村の外れに住むことしかできず、永遠に罵倒し続けられることと引き換えに。
彼はもう普通の人間でしか無かった。
彼の父親も、自分の息子を普通の人間だと思うように努めた。
だが、周りの人がそれを許さなかった。
ある日、青年が家から少し離れた場所の雑草を刈っていた。
そこに悲鳴。
青年が嫌な予感を感じて家の中に飛び込むと、扉は開かれたまま。
鉄の匂いが鼻を刺激すると同時に、青年は何も感じられなくなった。
──父親の死体が、扉に打ち付けられていたのだ。
ガムシャラに体を揺さぶり、大きな声を上げた瞬間。
父親の体は巻き戻るように元に戻った。
そしてそれと同時に、彼の父親が体験したことは記憶として刻みつけられ、その衝撃によって廃人と化した。
彼は何が起きたのかわからなかったが、父親の体は元に戻ったことだけはわかった。
そして、その日から、彼はうまいこと言いくるめることのできた工場で働いている。
噂が広がり、殴られ、蹴られ、罵られ、踏まれ、拘束され、殺されかけ……。
その全てに対して、彼は何にも感じていなかった。
だから、彼は今日まで生き延びれた。
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少女は、じっと話を聞いていた。
彼は、その様子に気をよくし、最後まで語り切った。
きっと少女がまだ正常だったころ、聞いたことがあるはずだ。
この島に住む"悪魔"のことを。
生まれて自分の母親を殺し、周囲にいた人間を喰った、化け物そのもののことを。
誰も彼を助けようとしなかった。
誰も彼に声をかけようとしなかった。
おそらく、偏見、というものを彼女は持っていないのだろう。
全てに対し、それが本当かどうかをじっくりと聞く。
その姿勢が徹底されているのも、彼女の良さだろう。
そんな彼女が導き出した結論は。
「あなたは……自分勝手な人間」
彼女にも何か思うところがあったらしい。
「……聞けばわかる。あなたは、自分を救って欲しいだけ」
今度は、彼女が語る番だ。
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ある所に、立派な家が建っていた。
しかしそれは見栄を張るためだけに建設された、お金持ちの散財でしかなかった。
お金持ちである彼は、この家を使わないでいることを勿体無く思い、とある使用人家族に新居として提供。
使用人一家は喜んでその家に住み始めた。
1年目。
使用人はいい報酬で働けていたため、もらったお金を貯金し、あとはゆっくりと過ごすだけだった。
2年目。
お金持ちだった彼。
事業が失敗し、会社ごと倒産。
有り余っていたお金を全て借金に注ぎ込み、残ったのは使用人が住む家だけ。
その家にさらに新たな使用人として働かせてもらうことで彼もまたなんとか生きていくことに成功した。
しかし、問題が起きた。
ある日突然、その家にあるお金が全て消え失せたのだ。
まるで、誰かに盗まれたかのように。
警察が呼ばれたが、結局未解決事件となったまま今日まで真実はわかっていない。
それだけなら、ただの事件としか捉えられなかった。
だが、一つの大きな問題があった。
生活する分のお金がない。
死活問題ともいう。
そこからは悲惨だった。
新しい仕事を見つけるまで、大人も子供らも1日1個のパンを分け合い、そのまま大人は仕事探し、子供は食べ物集めに勤しむのだった(彼らは借金という概念を忘れていたし、するつもりもなかった)。
かつてお金持ちだった彼はいつの間にか消えていたが、もはや誰も気にしない。
いや、気にする気力もなかった。
そして、ようやく見つけた仕事は「────」。
その2人が授かっていた子供3人の内、末っ子の女の子は売られ、現在も行方がわかっていない。
この仕事に手を染めてしまったが故、大人2人は生きる気力を無くし、警察に捕まるまではただただお金が貯まるだけ。
子供2人も、親が警察に捕まると知るや否や彼らが住んでいた孤島から船で脱出したという。
その時末っ子の女の子は、娘が欲しいと望んでいたある夫婦の元に売られていた。
5体満足である人間を欲しがる人は、一定数いる。
そのようなニーズから生まれた仕事もあった。
さて。
16年間経った。
18歳を越した彼女は自由の身になった。それでも、何もできなかった。
年齢の話ではない。
彼女の心は、縛られていたのだ。
彼女は知らず知らずのうちに自分に暗示をかけていた。
『自分は、生活をするためのお金を稼がなければいけない』と。
そして、『お金は早めに他の人に回さないといけない』とも。
彼女を買った夫婦は喜んでいた。
彼女が率先してお金を回していたから。
しかし、日に日に彼女はおかしくなっていく。
彼女には友と言える存在もなく、学校では孤高の存在と、なにかと敬遠され、彼女は他の人を気にも留めていなかった。
だから、相談する、という手段を彼女は持ち合わせていなかった。
元はと言えば、彼女が自分にかけていた暗示というのは、子供の頃のトラウマ──飢えと両親からの催眠から来るものだったのだ。
そしてついにある冬の日。
朝ごはんを食べている途中、夫婦の言葉で彼女は気が狂い、カッとなって彼らを殺した。
そこからスッと興奮はおさまり、彼女は自分がしてしまったことの重大さを知る。
彼女は自分で買った唯一の洋服に着替え、家を出て、自分の生命の痕跡を消そうとした。
ここまで特には時間はかかっていない。
彼女は身勝手だ。勝手に人を殺して、自分も死のうとしていたのだから。
だが、それ以上に世界は理不尽だった。
なぜなら、凄惨な過去を抱えた青年が、死ぬ直前の自分を口説きに来たのだから。
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「で、その彼女っていうのが──」
「そう、私のこと。口説きに来たのはあなたのこと」
青年はギュゥと目を瞑り、じっくりと彼女の話を咀嚼していた。
彼女は時間を見計らって再び口を開く。
「あなたは多分私に親近感を抱いているんだとあなた自身が思っている……だけど、私はあなたの話を聞いてこう思った」
「あなたは、感情を持っていないんじゃない?」
青年は衝撃的すぎて、何も考えることができなかった。
自分が、感情を持っていない?
そんなはずはな──
「よく考えて。あなたの父親が殺された時に、あなたは多分泣いた。でも、それは嬉しかったからじゃない。大切な人が死んだ時には泣くものだと知っていたから。あなたはその時怒りは感じなかったでしょう?それは、あなたはまだ怒りを知らなかったから」
「勝手に人の心を知った気になって、他の人を助けることで自分も助かった気になろうとして」
彼女の言葉は厳しいが、表情は優しい。
「一回、夢から覚めてきなさい」
浮遊感を感じ、水面に叩きつけられるまで、青年はただ1つのことを考えていた。
"起きた瞬間自殺することを繰り返せば、彼女が親を殺す瞬間に間に合うのではないのか"
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青年は実行した。
何を、は今更いうまでもないだろう。
その間、青年は一切の痛みを感じなかった。
「あァこれで、今家を出ればいいのか」
正確に数えた。
ちゃんと今家を出れば間に合うはずだ。
青年は洋服を纏って、家を出る。
準備は万端とばかりに扉を開き足を踏み出す。
彼は走った。
交差点を突き抜け、橋を走り抜け、言われた通りの住所まで。
彼が悪魔であることは知られていても、こんな早朝に彼が起きていることまでは誰も知らないはずだ。
彼は迷わずに呼び鈴を押し、その家の人、というより──彼女が出て来ることを期待していた。
ガチャッ。
扉は開かれ、彼の期待通りの人が現れる──少女がいた。
「なんの用ですか」
「あなたと話がしたくて」
「……私?」
「そう。少し、お時間をいただけないでしょうか」
「まあ、いいけど」
彼は全てを話した。
まず自分がこの島で悪魔と呼ばれていること。
自分は感情を持っていないということ。
彼女の過去を聞いたこと。
そして、自分は死んだら10分前に巻き戻ることができること。
それで、彼女が自分の親を殺そうとしているのを聞いて、それを止めに来たこと。
最後に、彼は、
「あなたのことが好きです。性格も、立ち姿も、全部。これからは一緒に過ごしませんか」
と締め括った。
彼女は呟いた。
「あなたの父親はどうするの?」
彼は答えた。
「このまま一緒に……」
彼女は呆れたように笑った。
「本当に身勝手ね……っていうことを前の私も言ったのかしら?まあいいわ。じゃあ、私は今日からそこに行けばいいの?」
「え、いいんですか!?」
「私ももう18。大丈夫よ」
「はは、嬉しいなぁ」
彼に恋愛というものを教えた人は、いない。
だから、これが彼にとっての初めての感情なのかもしれない。
そして、救いでもあった。彼に新しくできた生きていく理由は、日々に活力を取り戻す。
彼女も恋愛をするのは初めてだ。
そして、育ててくれた夫婦に自分の意見を伝えるのも、初めてだ。
彼女は青年に好印象を抱いていた。
真冬にこうして半袖でいる自分を気にかけてくれた。
自分のことを好きだと言ってくれた。
何より、自分を助けに来てくれた。
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それでも青年が島にいる限り、悪魔という蔑称が消えることはなかった。
3人はこの島から抜け出し、別の都市に住むことができたが、それは青年が死亡を繰り返したことによってなんとか実現したことだ。
そして、別の都市に移り住むことができた故に、生活も楽になり、今では2人の子供もできた。
青年は少しずつ人間らしさを取り戻していた。
あの島からは徐々に悪魔という言葉そのものが忘れ去られていき、今ではそれを知るものは誰1人としていない。
全てが丸く収まるように、少しずつ調整されていたかのようだった。
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さて、その島で崇められていた「神様」とやらは、この一連の茶番を楽しく眺めていた。
島は今でも続いているが、もう誰も悪魔のことなんて覚えてはいない。
悪魔という存在も、ただ神の暇つぶしに生み出された存在でしかなかった。
だから、「神様」は青年が幸せそうに過ごすのを見て、満足した。
まるで1本の映画を見終わったかのように。
そのまま指をスライドさせ、別の世界に転移する。
この世界は消滅し、代わりに別の世界が神の目に映る。
もう前の世界なんてものは残滓すら残っておらず、観測者がいないため、消え失せたことになっている。
「神様」は、新しい世界を面白く、時に悲しく眺めているだけだった……。




