悩みのない日
「そうなんですよ、西澤さんがね、アツイよね」
長谷川は、見たこともないドラマの話題を広げる、ラジオを聞きながら、今日も事務作業をしている。
大枠に貼り付けられたブラインドから差し込む朝日。
男は、この時間を一日の中で第一に大切にしている。
僕の一番好きな時間で、1日のうち、僕が最高に輝く時間だ。
今日は特に予約もないし、ゆっくり作業しよう。
店内には、長谷川の、パソコンを叩く音、彼の耳を通り抜けるばかりの、ラジオが響くのみ。
そんな静寂を、長谷川は洋風の朝食に溶かし込み、噛み締める。
しかし、そんな朝は、長谷川の正面にある扉が開くことで、破られた。
「すみませーん」
「ん!はい!」
オレンジジュースがつっかえた。
中年の女性がやってきた。化粧などはしていなく、部屋着姿だ。
「あの、家に虫が出ちゃって…取ってくれませんか?」
「え?虫?」
予想もしていなかった依頼。
カウンセラーとして構えていた位置から、大きく外れた依頼だったので、感じたままの言葉が、屁のような声色に乗って、男の口から出てきた。
「はい、多分ゴキブリだと思うんです…」
「わっ、わっかりました…行きましょうか」
まだまだ朝と呼んでいい時間帯。
もちろん、長谷川も朝を生きている。
言葉の持つ責任を鑑みることが出来ていない。と、長谷川は寝ぼけた自身の脳みそを睨みつけた。
長谷川は、女性の家に向かう途中、朝の澄んだ空気に触れて、気付かされた。
僕がやることじゃないよな?断ってもいいよな?
気づいたところで引き返す事は出来ない。女性は、自身の家の前で立ち止まった。
「すみませーん、お願いします」
「お、お邪魔します…」
玄関を抜けて、リビングに。
キッチンの目の前にあるテーブルには、歯型の着いたトーストと、飲みかけのコーヒー。
それと、天気を知らせる、テレビがこちらを向いている。
朝のニュース、久しぶりに見たな…
「あの…」
「ああ!すみません、ゴキブリですよね」
「はい、あのソファの下に行っちゃって…」
ソファの下か…出てこないと潰せないし…
「殺虫剤とかって」
「ないです…」
あったら手は打ってるか。
どうしようかな…ソファを動かす…んー、動かした時に逃げられるな…
この人にソファを動かしてもらっ……無理か…
女性は、気が気でないという様子。長谷川よりも、後ろで、ほぼ玄関の方にいる。
長谷川がこの家の住人のようだ。
「あっ」
「きゃあ!!」
ソファのしたから、長く、ゆらゆらと動く細い線が二本。
ドンッ
「え」
男は、ヤツの姿を見つけては、勢いよく足を出した。
「すみません、ティッシュとか貰えますか」
「え、え、あ、はい」
先程まで、不安1色だった女性の顔色が、何色も混ざったような表情に。
え?踏みつけた…?え?こういうのってティッシュとか、道具で潰すんじゃないの?
「も、持ってきました」
ありがとうございます。
長谷川は、踏み出した右足を床に擦り付け、ティッシュを足に近づける。
えー、メキメキ言ってるじゃん…
男は足をどかして即座にティッシュに包んだ。
ゴミ箱は…
まって!そんな足で歩かないで!
「え、あーーあの、ゴミ箱持ってきますんで、待っててください」
長谷川は、渡されたゴミ箱に丸めたティッシュを放り入れた。
「あのー、靴下大丈夫ですか?」
「ああ!大丈夫ですよ!洗えばいいですし」
「…すみません、ありがとうございます」
「いえいえ」
男は家を後にした。
ふー、終わったー依頼料の30%ぐらいは貰っておけば良かったかな…
てか潰したのに、なんか、納得行かないような顔だったな…まだ他にもいるのかな。まぁいいか。
長谷川は、店に戻って、その日は今朝の一件以来、依頼はなかった。
―夜―
「今日さ、ゴキブリがでて、近くのお店の人にやってもらったんだけど…」
「あーそうなの?悪いなー」
「倒してくれたのはいいんだけど…その人、ゴキブリを踏みつけたんだよ」
「え?足で?」
「うん…」
「まじか」
「カーペットの上じゃなくて、フローリングの上だったから良かったけど…びっくりしちゃった」
その後数日、長谷川は視線を感じるようになった。




