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前編

「ねぇ、深澤君が多部さんと付き合い始めたって聞いた?」

「え?うそ!まじ?⋯⋯ショック」


 七海の吹いていたトランペットが、間抜けに音を外した。萌と和樹がゲラゲラと笑った。


 三人しか居ない広々とした音楽室。部活前に早めに来て、無駄話しがら練習するのが夏休みのルーティンだった。

 ただ友人二人は知らない。七海がクラスメイトの深澤隼斗に淡い恋心を抱いていた事を。先程の萌の言葉に、少なからずショックを受けていることを。


 1年生も2年生もクラスメイトだったというのに、深澤とは話したこともない。教室で深澤の話し声にこっそり耳を傾け、サッカー部の練習に打ち込む姿を遠くの音楽室から見つめている。それだけの恋だった。


 七海はロングヘアをポニーテールにしてなびかせるチア部の多部美波を思い出した。あんなに細い体になれたらと、何度思ったことか⋯⋯。

 やや肉付きの良い自分の体を見下ろした。大きい胸は野暮ったく見えるし、腕はむちむちしている。服で隠れてはいるが、実はお腹もぽこっとしている。

 劣等感の暗い靄が七海を覆い尽くす。


「花火大会、二人も来るかな⋯⋯」


 どうか来てくれるな。七海は祈った。

 今日は街中を流れる柳川で花火大会が開かれる。この辺りのカップルが必ず行くと言っていい程の、夏の定番デートスポットだ。


 浴衣でデートする二人を見たら、最低1週間は落ち込んでしまいそうだ。楽しみにしていた気持ちが急速に萎んでいく。


「うわ、そうだったらむかつくわー」


 和樹はいつものふざけた調子で言った。


「あんたさ、多部さん好きなの?」

「多部さん()好きだ。女子はみんな好き」


 萌は和樹の腕をバシッと叩いた。


「待ち合わせどこだっけ」

「柳川神社の鳥居前。だよね七海」

「うん」




 グラウンドには走り込みを始めた深澤がいた。七海は思わず目で追った。


 低くて落ち着いた声が好きだった。高くて細い鼻筋も、口角がキュッと上がった唇も、色素の薄い目が大人びて見える所も⋯⋯。

 思わずため息が漏れる。


 何だかうじうじする自分が嫌になったきた。


 トランペットをグラウンドに向けて思いっきり吹いて、"私を見て!"って叫べたらどんなにスッキリするだろう。不意に思いついたあり得ないアイデアに七海は自嘲した。


 外見の整った深澤に恋をしていたのは七海だけでは無かった。自分の思いなど、知りもしないだろう。深澤にとって自分はその他大勢のうちの一人⋯そう、あれ───モブでしかないのだと、七海は深澤を見つめながら延々と感傷に浸っていた。

 




 路面電車が停留所に着いた。ドアが開いた途端、七海は外に飛び出した。勢いで下駄を履いた足がよろける。運転士が中から注意する声が聞こえたが、そんな事は構わず柳川方面に走った。


 苦労して着付けた黄色い向日葵の浴衣が着崩れてしまいそうだ。信号機に止められ、イライラしながら足踏みする。

 スマホの時間は18時52分。待ち合わせは18時30分だった。

 七海は時間にルーズな訳では無い。ただ浴衣の着付けに思いの他手こずってしまった。


 着信音がしきりに鳴る。萌と和樹のお怒りのメッセージが交互に届いていた。


 柳川まで続く人混みを見つけ、七海もそこに加わった。河川敷に向かう行列は、人で混み合いまるで進まなかった。何分も同じ場所に足止めされている。

 

 ふと横に目を向けると、七海の横に細い路地があった。ここから少し遠回りすれば、花火会場まで迂回できる様な気がする。でも誰もそこに入ろうとはしない。


 携帯を弄るうちに更に時間が過ぎて、空も暗くなってきた。七海はいまだ同じ場所に足止めされていた。

 モワッとした生温かい風が、横の妖しい路地から吹いた。

 七海を誘うように、首筋で切り揃えた髪を揺らす。


 辟易していたし、好奇心もあった。七海は人混みを離れ、その細い路地に入っていった。




 河川敷沿いに古い住宅街が続いていた。時折子供の笑い声が聞こえるが、道には人が誰もいない。

 車も通れない様な細い道に、生垣や塀が迫るように建っている。


 相当築年数が経っていそうな古びたアパートのベランダで、干されっぱなしの洗濯物が風に揺れていた。もう人が住んでいなさそうな朽ちた家は、林に覆われ始めている。


 日没後の薄暗い風景に寒気を感じつつ、七海は足を速めた。


 柳川から喧騒が聞こえる。すぐそこなのに、なかなか柳川までの抜け道が見つからなかった。


 方向感覚だけを頼りに、七海は行き止まりと曲がり角ばかりの、迷路の様な路地を彷徨い、そして疲れ果てた。もと来た道も分からなくなった。慣れない下駄に擦れて、指の間の皮膚が破れている。

 巾着からスマホを取り出し立ち止まった。こんな時に圏外だった。あれを最後に萌達のメッセージも届いてなかった。


 下駄の足音が聞こえる。道の向こうにラベンダー色の浴衣を着た女の人が見えた。


 七海と同世代ぐらいだろうか。酷く急いでいる。

 七海は走って追いかけたが、彼女はすぐ道の横に逸れて消えてしまった。


 七海は彼女が消えたバラの生い茂る庭園を眺めた。

 アイアンの門は解放されている。奥にあるつるバラの絡まったアーチの向こうに柳川が見えて、通り抜けられそうだ。真夏なのに咲き誇るバラ園の中には古びた白い洋館もあった。情緒溢れる異人館を何十年も放置して、荒れ果てさせた様な建物だ。

 格子窓から見える洋館の中は、天井は崩れ落ちカーテンは破れ、誰も人が住んで無い様に見えた。


「お邪魔しまーす⋯⋯」


 庭園の中は濃厚なバラの香りでむせそうな程だった。世話もされてないだろうに、咲き競う艶やかなバラ達に圧倒される。


 七海は引き寄せられるように、剣弁咲の黄色いバラに近づいた。花に興味は無いのに、花弁の縁が僅かにピンク色になっているこのバラが、何故かとても可愛らしく思えた。


 根本に、


【Parallel universe】


と書かれたラベルが刺さっていた。


「パラレル──?」


 英語は昔から苦手だ。


 七海は無意識に1輪摘んで、はっと後悔した。勝手に手が動いてしまった。誰も住んで居なさそうとはいえ、人の家のバラを無断で摘んでしまった。


 じっと手の中の1輪の薔薇を見つめた。薔薇が、甘く華やかな香りを漂わせた。その香りに頭がぼんやりとしてくる。

 まるで、薔薇に "大丈夫よ" と囁かれている様な気がした。


 七海は腕を上げて、ハーフアップにしただけの髪に薔薇を挿した。



◇◇◇

「⋯⋯え」


 ───驚いて固まった。

 目の前の全てが真っ白だった。

 何処までも続く、陰も無い白い世界───音も無い。有るのは自分の体だけ。


 七海は辺りに目を彷徨わせた。一気にブワッと汗が噴き出る。


 驚きは徐々に恐怖に変わった。ぎゅっとバラの茎を掴んで、硬い棘が指に刺さった。


 指先に溜まった血の滴が、七海の足元にぽたりと落ちた。


 真っ赤な血の一滴は、まるで生き物野ようにうごめいた。そして一気に白を覆い尽くした。


 ───これは夢だ。


 七海はぎゅっと目を瞑り、頭のおかしくなりそうな赤い世界を遮った。


 再びゆっくり目を開けると、薄暗い中咲き誇る薔薇園が目に入り、ほっと息を吐いた。


 びっくりした⋯⋯。熱中症かな。


 手で額の汗を拭った。


 七海は首をかしげながらつるバラのアーチくぐり、柳川の花火会場に向かった。

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