第37話:選択の代償
手術室に響くのは、器具を整える音と、鞠子の淡々とした声だけだった。
「本来、こういう手術は――もっと時間をかけて行うべきものなんだ」
鞠子は、金属製のトレイに器具を並べながら言った。
その動きは、迷いのない医師の手つきだった。
「カウンセリング。ホルモン療法。生活指導。心理的な準備……。最低でも数ヶ月、場合によっては年単位のプロセスが必要だ。
間違っても、依頼された“その日”に実施するような手術じゃない」
鞠子の声は、冷静で淡々としていたが、そこに籠る重みは雪菜にも伝わった。
雪菜の表情が、ほんのわずかに曇る。
――それでも。
この選択しか残されていないと、心に刻んだはずだった。
鞠子は一つ息を吐き、手を止めて振り返る。
「もう一度だけ確認する。……この手術は“不可逆”だ。
一度行えば、君の身体は二度と戻らない。たとえ、あのシャロン・セイルズであっても、だ」
その言葉に、雪菜の胸が締めつけられた。
言葉にされることで、現実味が増していく。
心のどこかが、悲鳴を上げていた。
やめろ、と。
そんな選択は間違っている、と。
そもそも、自分が男になったところで――
ギルバートが本当に冬馬を諦める保証など、どこにもない。
それでも。
それでも雪菜は――その悲鳴から、目を背けた。
「……お願い……します」
搾り出すような声だった。
鞠子は一瞬だけ、痛ましげな眼差しを雪菜に向けたが、すぐに表情を戻す。
「……わかった。手術を請け負おう」
鞠子の声は医師のそれへと切り替わっていた。
「服を脱ぎ、手術台の上に乗ってくれ」
雪菜は震える指で、ゆっくりと衣服を脱いでいく。
冷たい室内の空気が肌を撫で、緊張が心臓を締めつける。
鞠子は視線を逸らすことなく、真剣なまなざしで準備を続けていた。
雪菜が手術台に横たわると、無影灯が彼女の身体を照らした。
鞠子は静かに説明を始める。
「手術は、外科的処置によって一部の器官を切除・変換し、ホルモン環境を薬物で調整することで“男性化”を模す構造を作る。
身体的には、男性と同様の形状を再現することはできるが、生殖機能までは得られない。
声や骨格、筋肉などの変化にはホルモン投与が必要だが、今回はそこまでは行えない。外科手術による“形”だけの変更になる」
淡々と続く説明に、雪菜は静かに頷いた。
「術後、数日は激しい痛みが出る。麻酔は効かせるが、完全に取り除くことはできない。
合併症のリスクもある。感染、出血、場合によっては……命に関わることもある」
「……それでも」
雪菜の声が割り込んだ。
「……お願いします」
鞠子は、静かに手術用マスクを装着した。
「……これが、最後の確認だ」
その目は、まっすぐに雪菜を見据えていた。
「本当に……いいんだな?」
雪菜の心は、再び悲鳴を上げた。
――やめて。
――間違ってる。
――逃げて。
――本当にこれが冬馬を救うことになるのか?
――本当に、それが正解なのか?
しかし、そのすべてを押し殺して、雪菜はただ一言、口にした。
「……はい」
その言葉に、鞠子は瞳を閉じた。
そして、もう一度開いたときには――
そこにいたのは、一流の医師だった。
「…………これより、オペを開始する」
鞠子の指示で、麻酔ガスが吸入マスクから流れ始めた。
雪菜の視界が、じわりと霞んでいく。
意識が、遠ざかる――。
(……とうま……)
その名を、雪菜は心の中で――いや、唇で、確かに呟いた。
幼い頃から、共に歩いてきた、たった一人の存在。
――この選択が、あの人を守れるのなら。
雪菜の意識は、その想いと共に、深い闇へと沈んでいった。




