第19話:潜む巨獣
翌早朝――
まだ空が薄明るさを帯び始めたばかりの時間帯、冬馬は静かに動き出していた。誰にも気取られず、足音ひとつ立てずに。
(……見つかるわけにはいかない)
雪菜にも、シャロンにも、アイリスにも。
いつものようにギルドで朝の顔ぶれに会ってしまえば、隠し通せない。だから、ギルドには立ち寄らず、最短で準備に入った。
冬馬は孤児院への仕送り用にとっておいた金を、そっと取り出す。
それを使って、最低限の回復薬を購入した。
「……ごめんな。シスター。みんな。今回は……借りるな」
そう心の中で詫びると、冬馬は遠征任務で新調した装備に腕を通す。
加護付きのコートに、手甲と脚甲。
普段は使わない投げナイフ、簡易爆薬まで揃える。
「まともに使えるかは分からんが……備えあれば、だな」
最後に、依頼書とともに送られてきた簡易地図を広げる。
目的地は『子鬼の森』。ネクサスを囲う防壁の西門から出て、一本道を抜けた先に広がる小規模な森林地帯だ。
冬馬はその地図を折りたたみ、静かに呟いた。
「……いってくる。雪菜」
西門の監視兵に挨拶をし、名を偽らず通行手続きを済ませた後、冬馬は一人で歩き出す。
重く、乾いた足音だけが道に残る。
(……やはりおかしい。子鬼の森にグロウジャガーなんて、聞いたことがない)
子鬼の森に生息するのは、基本的にE級以下の雑魚モンスターばかり。
多くのゴブリン、スライム、コボルト、ニードルラビット、グレイウルフ。そして、稀に現れるD級のレッドキャップ。
グロウジャガーが群れをなして出るような場所ではない。
(レッドキャップが相手なら、警戒する価値はある。だが、ギルバートがこの程度を仕掛けてくるとは思えない)
そんな思考を巡らせつつも、足を止めずに森へと進む。
最初は、予想通りだった。森の入り口付近では、ゴブリンやコボルト、ニードルラビットが数匹姿を現した。
しかし――森が深くなるにつれ、異変が起きた。
モンスターの気配が消えた。
いるはずの雑魚敵すら、一切姿を現さなくなったのだ。
(……これは逆におかしい)
まるで、何かを恐れて逃げているかのようだった。
それは、森の生態系そのものが乱れていることを示していた。
冬馬は慎重に進み、夜には小高い木の上で野宿を取った。
眠りは浅く、半ば身体を休めるだけに留め、翌朝――子鬼の森の中心へと足を踏み入れた。
そして、森を数百メートル進んだそのときだった。
冬馬の視界に、三体の巨大な獣の死体が飛び込んできた。
――グロウジャガー。確かに、依頼に記されていたモンスターだ。
しかし、それが既に「討伐されていた」という事実が、すでに不可解だった。
冬馬は周囲を警戒しながら、ゆっくりと死体に近づく。
傷口を確認する――鋭い斬撃ではあるが、刀や剣といった“精密な武器”ではなく、やや雑な刃物で切られている。
「……この切り方、身長も高くない。刃物も粗雑。これは……レッドキャップの仕業、か」
グロウジャガーはE級。レッドキャップより格下だ。それでも違和感はある。
レッドキャップ一体に対して、グロウジャガー3体。レッドキャップを倒せなくはない。
何よりも異変がある。グロウジャガーの切り傷は、すべて背後から付けられたものだ。
まるで、なにかから逃げているところを、後ろから切りつけられたような……。
冬馬はさらに森の奥へと踏み込む。
その異変は、すぐに次の形で現れた。
――地面に転がる、レッドキャップの死体。
通常のゴブリンよりも大柄なその死体には、明確な死因が刻まれていた。
巨大な斬撃――いや、それはもはや“切り裂いた”というより、“引き裂き、抉った”と表現すべきものだった。
「……これは、剣じゃない。それ以上の質量……」
冬馬はぞくりと背筋を震わせる。
この切り口は、人の手によるものではない。
否、少なくとも人間の常識に当てはまるものではない。
静寂に包まれた森の中。
その奥から、獣の息吹が――殺気が、背後から迫ってくる。
全身に電流のような悪寒が走る。体が硬直し、まるで蛇に睨まれた蛙のように、動けない。
(……まずい)
ゆっくりと、深呼吸をひとつ。
頭を空にして、気を鎮める。恐怖を握り潰す。
そして、振り返る――
――ソレは、いた。
巨大な四足獣。全身が筋肉の鎧で覆われ、しなやかで、それでいて鉄のような重量感を感じさせる身体。
肩から首にかけて盛り上がるような骨格構造。頭部から突き出た二本の巨大な牙。
それは、サーベルタイガーに近い形状をしていたが――その存在感は、はるかに異質だった。
冬馬は、そのモンスターを初めて見た。だが、名前は知っていた。
――B級モンスター『ジャガーノート』
通常であれば、中堅ハンター数人でチームを組んで討伐にあたるべき魔獣。
それが今、明確な殺意を伴って、冬馬一人に向かって牙を剥いていた。
「……やっぱり、こう来るか」
冬馬の顔には、怒りも恐怖もなかった。ただ、静かに――
覚悟が刻まれていた。