第16話:祝福の影
雪菜は興奮冷めやらぬまま、摩天楼のビルへと戻ってきていた。
「えへへ……」
階段を一段上るたびに、頬が自然とゆるむ。嬉しさを抑えきれない。しかし、ふと思い出す。本来の目的――クエストの確認すら忘れていた。
「――あっ! いけない、クエスト! 一体ボク、何しにギルド行ったんだっけ……」
額を指でつつきながらも、笑顔は消えない。嬉しくて仕方がなかった。
冬馬が、ようやく報われたのだ。自分にとって、それは何よりも嬉しい出来事だった。
冬馬は、強い。
今の自分と比べても――本気の冬馬なら、互角以上かもしれない。
そう思えるほど、彼はすでに実力をつけていた。
雪菜は、自分を過信しない。
だが、同時に過小評価もしない。
自惚れず、卑屈にならず、冷静に“いまの自分”という存在を把握していた。
そのうえで、今の冬馬は自分よりも強い。
そんな雪菜の心に、ふと古い記憶が蘇る。
――あの頃、自分は、冬馬を“置いて”先へ進んでしまった。
何歩、何十歩も先を行く自分に、冬馬は届かなかった。
……悔しかった。
“本当に強くなるのは、ボクじゃない。冬馬だ。”
そう、心のどこかで思っていた。
だが――その考えこそ、傲慢だと気づいた。
冬馬は、諦めなかった。
誰に認められずとも、孤独な努力を続けた。
誰も見ていなくても、自分を、己の限界を超えるために。
それは、常軌を逸した鍛錬だった。
いつも彼はボロボロで。
皮膚が裂け、骨が軋み、呼吸すら乱れていた。
雪菜は何度も止めたかった――こんな無茶な鍛錬、やめてほしいと。
このままじゃ死んでしまうと。
だけど――唇を噛みしめて、堪えた。
(……冬馬が諦めてないのに、ボクが諦めてどうする……。ボクが信じなくて、誰が冬馬を信じるの……?)
その頃。海外の名門ハンター事務所の《ノーブルブラッド》から、ひとりの女性が日本にやってきた。
医療ハンター、シャロン・セイルズ。
最初のシャロンは冷たかった。心を閉ざし、人を寄せ付けなかった。
だが、そんな彼女が、変わっていった。
冬馬と雪菜を見て――少しずつ、心を開いてくれた。
無理をし続ける冬馬を、何度も、何度も助けてくれた。
そのころのシャロンは、まだD級。だが、医療の腕は一流で――その温もりも、確かだった。
それから数年が経っても、三人の絆は変わらない。
シャロンはどこの事務所にも属さず、フリーの道を選び続けている。
摩天楼をはじめ、多くのハンター事務所が彼女をスカウトしようとしたが、首を縦には振らなかった。
よほど、ノーブルブラッドで嫌な思いをしたのだろう。
けれど、それでも――雪菜と冬馬の隣では、あの頃のシャロンとは別人のように明るく笑っている。
「……ふふっ」
気づけば、雪菜は頬を綻ばせていた。
――今日は、いい日だ。
懐かしい思い出に浸りながら、雪菜は摩天楼のビル内を上機嫌に歩いていた。
しかし。
「――随分と、ご機嫌だな?」
粘りつくような、低く這う声が背後から響いた。
全身に、氷のような冷気が走る。
(――気配が、感じ取れなかった……)
声の主は、ギルバート・グレイモア。
S級を除けば、最上位にして最悪の男。
表向きは“模範的な上位ハンター”として知られているが、雪菜は知っている。この男がどれほど汚れた存在かを。
雪菜は表情をすぐに引き締め、睨み返す。
「……何の用?」
ギルバートはにやにやと、薄汚れた笑みを浮かべた。
「聞いたぞ。お前のお気に入りのオモチャ、昇級したらしいじゃないか?」
――その言葉に、血が沸騰する音がした。
「……オモチャ?」
雪菜の声が震える。
「……それって、冬馬のこと……?」
「おっと、気に障ったか?」
ギルバートはさらに口元を歪める。
「じゃあ“ペット”に言い換えよう。忠実で、よく吠える犬だろう。FからEだったか?クックック、一体何年かかったんだ?」
――許せない。
この男は、いつもそうだ。人の心を踏みにじって、嘲笑う。
自分のもの以外は、すべて見下し、壊すことに喜びを覚える。
怒りが堰を切ったように、雪菜は言葉を叩きつけた。
「それは君が……! 君が邪魔をしていたから……っ!」
ギルバートの瞳が細まり、じっと雪菜を見つめる。
「邪魔? ほう、面白いな。それ、証拠はあるのか?」
雪菜は言葉を詰まらせる。
いくつもの怪しい動きはあった。
だが、どれも決定的ではない。
証拠は、いつも仲間内で潰されているのだ。
ギルバートは、その沈黙を嘲笑うように肩をすくめた。
「悲しい誤解だなあ、雪菜。俺は、祝ってやろうと思ってるんだぜ? 昇級のお祝いを、な」
その言葉に、背筋を冷たいものが這い上がる。
「……祝い……?」
「そうとも。まあ、すぐにわかるさ。すぐにな――」
そして、ギルバートは何も言わずに背を向け、去っていった。
その背中には、勝者の余裕と、悪意だけが残されていた。
先ほどまでの浮かれた気分は、もうどこにもなかった。
喜びも、懐かしさも、すべて、不安に塗りつぶされていく。
「……冬馬……大丈夫、だよね……?」
摩天楼の窓から差し込む夕陽が、長く伸びる影を作っていた。
雪菜の心にも――影が差していた。