第15話:昇級の朝、讃えと影
その朝、摩天楼の掲示板には、目ぼしい依頼がほとんど残っていなかった。
「……仕方ないな。狩りの時期、外れちゃったか」
雪菜は肩をすくめつつ、軽い気持ちでハンターギルド・トウキョウ・ネクサス支部へと足を向けた。なにか他に良さげなクエストはないか――そう思っただけのつもりだった。
だが、ギルドの扉を開けた途端、思わず足が止まる。
――騒がしい。
いつもと違う、ざわめく空気。
緊張感、というよりは何か軽やかな華やかさを含んだ音。かすかに笑い声も聞こえてくる。
緊急任務……?と一瞬警戒するが、そういったピリピリした雰囲気ではなかった。むしろ、祝賀のような……浮き立つものを秘めた騒がしさ。
雪菜は、近くにいた見知った顔のハンターに声をかける。
「すみません。何かあったんですか? ギルド、すごく賑わってるみたいですけど……」
振り返ったのは、E級ハンターの青年。
彼は、かつて自分がまだ駆け出しだったころに、冬馬が親切に接してくれたことを今でも忘れていなかった。
「あ! 雪菜さん!ちょうどいいところに!」
妙に浮き足立った声に、雪菜は少し首を傾げた。
「ちょうどいい?」
「聞いて驚かないでくださいよ!……冬馬さんが、ついに昇級したんです!」
――その言葉は、まるで鐘の音のように、雪菜の胸に鳴り響いた。
(……冬馬が……昇級……? 冬馬が……昇級!?)
頭で理解するより先に、喜びが胸を満たす。身体の芯が熱くなる。思わず叫びそうになるのを、ぎゅっと堪えた。
だが、その興奮を押し殺しながらも、雪菜は周囲の声に耳を傾けた。ギルド中に飛び交う冬馬の名前。その反応は、実にさまざまだった。
「おいおい、Eに上がるのに何年かかってるんだよ、あいつ」「Fで燻ってた理由、才能ないって話だったろ」
見下すような声は、確かに存在していた。
だが、それ以上に、温かな声もあった。
「やったぜ!ついに冬馬さんが昇級した!」「本当に良かった……あの人が報われて……!」「当然だ!むしろもっと上がっていいくらいだよ、あの実力なら!」
雪菜の心に、またしてもこみ上げるものがあった。
(……そうだよ。ちゃんと見てくれてる人がいる……冬馬を……ボク以外にも、こんなにも……!)
このギルドにも、ギルバートのような下劣な者ばかりではない。
そう思えたことが、何より嬉しかった。
だが、ふと、気づく。
(……本人は? 冬馬は、今どこに?)
雪菜はギルド内を見渡す。すぐに見つかった。
人だかりの中心で、祝福の言葉を受けている冬馬。困ったような、でもどこか嬉しそうな顔をして、ぽりぽりと頬を掻いていた。
雪菜は、気づけば足を動かしていた。
本当は、みんなの祝福が一段落してから声をかけるつもりだった。だけど――我慢できなかった。
「すみません、ごめんなさい、ちょっと通してください……すみません……」
人波をかき分けて進む。気づけば、少しだけ肩が震えていた。
「……冬馬!」
その声に、冬馬が振り返る。
「雪菜か? どうした、血相変えて」
――いつも通りの反応。
それが、たまらなく愛おしく、嬉しかった。
「しらばっくれるなよ! ボクにすぐ教えてくれないなんて、水臭いじゃないか!」
そして、胸の中にあふれるものが、ついにこぼれる。
「……冬馬……昇級……おめでとう……!」
それしか言えなかった。
本当は、もっと言いたいことが山ほどあったのに。
冬馬は、そんな雪菜を優しく見つめ、微笑んだ。
「……ありがとうな、雪菜。お前や、みんなのおかげだ」
雪菜はぐっと唇をかみ、目をそらした。
「……バカ。君の……実力だよ……。むしろ、もう一ランク上がっても良いくらいさ……!」
ギルド内に集まっていた者たちも、二人のやり取りに拍手や歓声を送った。
たかが一ランク。されど一ランク。
妨害と不遇に晒され続けた冬馬にとっては、大きな、大きな一歩だった。
だが――その場にいるのは、祝福の者ばかりではない。
ギルドの隅に潜んでいた数人の男たちと女たち。
彼らは、ギルバートの取り巻きだった。
「……いい気になっていられるのも今のうちだわ」「貴様のような野良犬が、ギルバート様の女に近づくなど……身の程知らずにもほどがある」「昇級? どうせ他の奴らにおこぼれを貰ったんだろうよ。あんなの偶然の産物だ」
その視線と声に、冬馬も雪菜も気づいていた。
だが、あえて何も言わなかった。
この空気を――今この場にある、心からの祝福を壊したくなかった。
――そして、場所は変わる。
摩天楼の一角、装飾も豪奢な一室。
その部屋の主、ギルバート・グレイモアは、ソファに座り、グラスの中の琥珀色の液体を揺らしていた。
取り巻きの一人が、冬馬の昇級とギルドの反応を詳細に報告すると、ギルバートは低く、静かに笑った。
「……好きに騒がせておけ。今はな」
琥珀の光が、歪んだ笑みに反射する。
「なぁに……じきに思い知ることになる。あの野良犬も――雪菜もな」
冷たい笑い声が、摩天楼の高みで微かに響いた。