第33話:鍋の宴と、最後の選択
月が満ちる夜。
砂漠の廃都フルグラディスに、静かな鐘の音が響いた。
街に人はほとんどいないはずだった。
けれど、いつの間にか、崩れた回廊や階段には人影が集い始めていた。
僧衣に似た白い装束。
彼らは《調理神殿》の巫女たちだった。
「今宵は神話の鍋を再び祝福し、その真価を確かめる儀。
アマギリ・美咲。料理人として、これを開宴する権利があります」
その中央に、美咲は立っていた。
鍋を抱え、ヴィクトリアがすぐ傍に寄り添っている。
◆◇◆
「美咲。無理しないで」
「……大丈夫。ヴィクが隣にいてくれるから」
小さく微笑み、鍋の蓋を開ける。
シレンツィアが柔らかく湯気を吐き、二人の心をそっと撫でた。
◆◇◆
巫女たちが次々に祭壇へ運んでくるのは――
幼い子が母に抱かれたときの甘い夢。
初恋の微かな胸の痛み。
友と交わした最後の杯の香り。
全て、人々がこの世界で生きた“記憶の欠片”。
それを鍋へ入れるたび、スープの色は虹のように変わり、
香りが渦を巻いて広がっていった。
◆◇◆
「……これは、人の記憶そのものを煮込む儀式」
ヴィクトリアがそっと呟く。
「でも私は、ただの料理人だよ。
食べる人が泣いても、笑っても、その味を後悔しないで済むように……そう作ってきた」
鍋から聞こえる小さな声。
「それでいい。オマエが望んだ料理を作れ」
「うん。ありがとう、シレンツィア」
◆◇◆
美咲は鍋を一度深くかき混ぜ、火を落とした。
「出来ました。……どうか、食べてください」
巫女たちは少しだけ戸惑いながら、スプーンを口へ運ぶ。
一人、また一人――
胸元を押さえ、涙を零す者。
「……こんな、穏やかな味……」
「なのに、苦しい……優しいのに……」
最後に、白い僧衣のイストリアがそっと口に含み、目を閉じた。
◆◇◆
「……選びなさい」
イストリアは涙を拭い、微笑んだ。
「鍋の祝福は確かに素晴らしい。
ですがこれをこのまま続ければ、いずれまた、人は他人の心を奪い、争いを始めます」
「あなたは料理人として、この鍋を世界へ解放しますか?
それとも、鍋をあなたとヴィクトリアの“家”に留め、この世界の奇跡をそっと隠しますか?」
◆◇◆
ヴィクトリアは美咲の手を取り、小さく首を振った。
「私は……あなたが選ぶなら、どちらでもいい。
でも……できれば、私だけがこの味を知っていたい」
「ヴィク……」
「あなたのスープは、私の世界を変えたの。
それが世界中に知られてしまったら――
私だけの、私たちだけのものじゃなくなるでしょう?」
◆◇◆
美咲はしばらく鍋を見つめ、やがて静かに頷いた。
「分かった。私は……鍋を、世界のものにしない。
これは私たちの家の鍋。
ヴィクのために、家族のために、友達のために……
選んだ人だけに作る料理にする」
巫女たちは少しだけ寂しそうに目を伏せた。
だがイストリアは、微笑んで一礼した。
「――それもまた、正しい選択です。
どうかその鍋を、貴女の愛とともに煮込み続けてください」
◆◇◆
夜が明ける頃。
鍋は小さく鳴り、再びただのスープの匂いを立てた。
ヴィクトリアはそっと美咲を抱き寄せ、額を重ねる。
「ねぇ、美咲」
「ん?」
「ずっと一緒にいてね。
あなたの鍋がどんなに重くなっても、私が全部抱えてあげるから」
「……うん。ありがとう、ヴィク」
二人は小さく口づけを交わした。
それは、料理人とその守護者の――
いや、誰より深い、愛おしい“家族の誓い”だった。
▽ 鍋と絆の到達ログ
項目内容
絆段階∞∞(世界より大きい、二人だけの選択)
鍋の安定化世界に解放しない選択で鍋は穏やかに鎮まり、“家の鍋”として特別な魔力を維持
ヴィクトリア美咲が何を選んでも隣に立つことを、正式に心に誓った




