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しあわせのけりぐるみ

 春の陽が緩やかに差し込む昼下がり、雑貨屋のカウンター越しに、白い巾着袋がひとつ、静かに置かれた。


 換毛期を迎えたモコのふわふわの毛を手に、レクサスとノアが雑貨屋を訪ねてきた。巾着を抱えたレクサスの腕のなかからは、白く軽やかな毛がこぼれ落ちそうに覗いている。


「……これ、モコの毛。換毛期でいっぱい出るんだけど……ふわふわでさ、何かに使えないかなって」


 メルヴィル言葉を挟むことなく袋を受け取り、指先で毛の質感を確かめる。ぬくもりと柔らかさが、掌に残る。


「……詰め物にはなるな。一度洗うか」


 それだけ言って、彼は作業台へ向かった。


 まず、毛は丁寧に洗浄されることとなった。


 メルヴィルは言葉少なに、大きめの木鉢に湯を張り、薬草の葉をひとつまみずつ落とす。

 石鹸花の液を数滴たらすと、湯面に静かな泡が広がっていった。


 そこにモコの毛をそっと沈める。


「……あ、葉っぱの切れ端……」


 ノアが目を凝らして、水面に浮かぶ小さなゴミを指差す。

 メルヴィルは無言のまま、それを指先で摘み取ると、何事もなかったかのように洗浄を続けた。

 鉢の中には、モコの換毛期の産物が、まるで浮雲のように揺れていた。


「なんか……いい匂いするな」


 レクサスが小声で呟く。

 鉢には薬草の葉と、石鹸花から抽出した液が混ぜられているらしく、泡立ちは控えめで、さっぱりとした甘い香りが漂っていた。


 メルヴィルは応えず、ただ手を沈めた。

 両手のひらで毛をすくい上げ、湯の中でゆっくりと揉み込む。


 指先は驚くほど丁寧で、まるで何かを壊さぬように、柔らかく、迷いなく動いていた。


 その横顔は無表情にも見えたが、わずかに伏せられた瞳には、集中の色が宿っていた。


「……ほんとに、手間をかけるんですね」


 ノアがぽつりと漏らした言葉にも、返る言葉はなかったが、それもいつものことだった。

 だがその沈黙が、不思議と居心地悪くはなかった。


 ──静かに、必要なことだけを行っている。

 それが、彼のやり方なのだと、自然に伝わってくる。


 すすぎの湯には、銀緑の細葉──ソリオ草がひとつまみだけ加えられていた。


 干しても香りが残るこの香草は、猫が好む香りを持ち、虫除けの効果も高い。

 メルヴィルは棚の奥から乾燥草の束を取り出すと、少しだけ葉を裂いて湯に浮かべた。


 湯気とともに、薬草らしい清らかな甘さが、湯気に乗って立ちのぼる。


「……あとは、こいつも少しだけ」


 そう呟いて取り出したのは、以前仕入れて残っていたパッソ草の乾燥葉。


 指先でひとかけらだけ砕き、香りが移る程度にごく短く湯に浸す。


「これ以上は、へべれけになる」


 自分に言い聞かせるようにそう呟いて、草を引き上げる。

 湯面がわずかに波立ち、空気が一段と甘く変わった。


 その瞬間──


 ノアの腕の中でうとうとしていたホプが、くんくんと鼻を動かす。


「……にゃ」


 ぴたりと目を開けたかと思うと、前足をにゅっと伸ばして湯の方へ向ける。

 欲しがるように、柔らかな掌をふわふわと空に浮かせた。


「……だめ、まだ濡れてるのよ」


 ノアが苦笑しながら腕を押さえるその横で、メルが飛び出した。


 高い棚の上から、まっすぐに鉢へ向かって跳ぼうとする。


「うわっ、待っ──」


 レクサスが咄嗟に手を伸ばし、宙を舞った灰色の毛玉を、咄嗟に受け止めた

 ひっくり返ったメルを抱え直しながら、苦笑まじりに眉をひそめた。


「もう、ダメだよ」


「にゃあ」


 抗議のような鳴き声が響いたが、くるりと抱え込まれたまま、メルはレクサスの腕のなかで大人しくなる。


 一方、ノアの腕に収まったホプも、伸ばしていた前足を一度引っ込めると、再び鼻先をくんくんと動かしはじめた。


 メルヴィルの動きを目で追いながら、視線はずっと、香りが漂う鉢の中に向けられている。


「……ふたりとも、ほんと正直ね」


 ノアが苦笑すると、メルもホプも、まるで返事をするように鼻をひくつかせた。


 ――すすぎも終わり、毛は布の上に広げられていく。


 太陽の直射を避けるように、風通しのよい日陰に丁寧に並べられたそれは、まるで絹のようだった。


 メルヴィルは黙ったまま、最後の一房を慎重に置くと、小さく息をついた。

 伏せられた瞳の奥に、ほんの少しだけ満足の色が浮かんでいた。


「今日は……ここまで、ですか?」


「乾くまでには時間がかかるからな」


 短く応じた声には、手をかけるべき作業がいったん終わったことを告げる、落ち着いた調子があった。


 レクサスが苦笑して肩をすくめる。


「じゃ、あとはお任せってところかな」


「仕上がり、楽しみにしてますね」


 ノアがやわらかく微笑むと、メルヴィルは視線を戻さぬまま、ほんの一瞬だけ頷いたように見えた。


 ふたりは静かに雑貨屋を後にする。


 扉の向こう、陽だまりの路地には、春の匂いと、ふわふわの毛が風に舞うような気配が残っていた。


 毛が完全に乾いたのは、それから一日と少し経った頃だった。


 布の上でふわりと広がった白い毛は、陽のにおいをほんのわずかに帯び、まるで光を含んだ綿のように柔らかく、なめらかに整っていた。


 メルヴィルは無言のまま、ひと束を手に取り、梳き櫛を当てる。


 櫛の歯が、ゆっくりと、慎重に、絡まりの間を通っていく。


 引っかかりがあれば、決して無理には通さず、一度手を止め、角度を変えて、そっと緩める。


 埃や小さな屑は、指先でつまみ取られ、余計なものは残さず、必要なものは決して壊さない。


 その所作は、どこか儀式めいていた。


 余計な音も、力も、言葉もない。

 ただ、そこにある“素材”に、まっすぐに向き合う。


 無口な店主にとって、それは“商品を扱う”というより、

 “預かったものに、応える”という行為だった。


 そして――

 数日後、仕上がったけりぐるみは、いつものように布にくるまれて店の奥に並んでいた。


 どれも細長く、帆布の手触りが心地よい。

 ひとつは、白から淡い緑へと染め分けられただいこん型。

 もうひとつは、鮮やかな橙のにんじん型。どちらも葉に見立てた布が、先端でくしゃりと揺れている。


 レクサスとノアが再び店を訪れたとき、メルヴィルは無言でその試作品をふたりの前に置いた。


「……これ、試作品?」


 ノアが身を乗り出し、目を輝かせながら布を広げる。


「わあ……かわいい。これ、だいこんと……にんじん?」


「……うっ」


 隣で、レクサスがわずかに顔をしかめた。


「どうかした?」


「いや……なんでもない……」


 ノアはくすっと笑いながら、だいこん型を手に取り、帆布の質感を確かめる。


「けりやすそうな形……重さも、ちょうどいいね」


 触れた瞬間に、ふわっとしたぬくもりが掌に広がるように仕立てられていた。


 その試作品をホプとメルの前に置くと、白と灰の毛玉は目を輝かせて飛びついた。


「……気に入ったみたいだね」


 ノアが目を細める。


 レクサスは、メルに無残にふりまわされるにんじん型をちらりと見やった。


「……よりによって、なんでにんじんの形をしてるんだろうな……」


 レクサスがやや遠い目をしながら呟くと、ノアはすぐに笑みを浮かべて返す。


「けりぐるみだから。蹴りやすそうな形にしたかったんじゃない?」


「……うん、まあ……たしかにそうだけど……」


 思わず目を伏せたレクサスに、ノアが小さく肩を揺らす。


「苦手なんだっけ?」


「……別に、嫌いってわけじゃ……ただ、積極的には食べないというか……」


 ふたりがそんなやりとりを交わしているあいだにも──


 床では、白と灰の毛玉たちが夢中になっていた。


 ホプはだいこん型に飛びつき、両前足で抱え込んで後ろ足で連続キック。

 メルはにんじん型を転がして追いかけ、途中でくるりと跳ね上がったそれを咥え、引きずりながら棚の陰に逃げ込んでいく。


 それをホプが追いかけ、布の音がばさばさと響く。

 棚の下から突き出た後ろ足が、ぴょこん、と上下に動いては、何かをけりまくっているのが分かる。


「……なるほど、これは……売れるかもしれん」


 二匹の食いつきっぷりに思わずつぶやいたメルヴィルは、余分に作って店頭に並べてみた。

 棚の陰に置かれた手書きの小さな札には、ただこう書かれていた。


『けりぐるみ(やさい)』


 やがて、いつしか客のあいだで「しあわせのけりぐるみ」と呼ばれるようになった。

 名前に込められた意味など、誰が決めたわけでもなかったが――


 そのうち、なんとなく、そう呼ばれるようになった。


 仕入れではなく、集めた抜け毛から生まれた商品だった。

 それでも、売り上げは想像以上に伸びていた。


 ──ある日、メルヴィルは黙って、小さな木箱をひとつ用意した。


 中には、ローストしたくるみ、甘みを抑えたベリーの干し果実、そしてモコの大好きなハチミツ入りビスケットが数枚。

 どれも彼の“好きなもの”ばかりだった。


 木箱には、素朴な紙札が添えられた。


『モコ様へ ――雑貨屋メルヴィル』



 ――ストーリア城、厨房。


 荷降ろしを終えた業者が、最後に小箱をひとつ置いていくと、料理長は手を止めて荷札に目を落とした。


「……“モコ様”宛、ねぇ」


 低くつぶやく声には、ほんのわずかに笑みがにじむ。

 眉をひそめつつも、目尻はどこか和らいでいた。


 その背後から、若い厨房係がのぞき込み、くすりと笑う。


「王子様の飛竜宛ですね。送り主は――雑貨屋から、だそうです」


 言いながら、彼は木箱の大きさと宛名を見比べて、肩をすくめる。


「また随分、丁寧な包みですね。……あの子に」


 年配の調理係が頷きながら、ちらりと木箱に目をやる。


「最近、殿下と聖騎士様がよく通ってる店だな。ふたりして何を買ってるのやら」


 そう口にした年配の調理係も、目を細めながら頷く。


「かわいい猫を見に行ってるって話もありましたよ」


「……なるほど。で、今度は飛竜のおやつか」


 ごく短いやりとりの中に、自然と笑いがこぼれ、厨房に春の陽射しのようなやわらかな空気が流れた。


 料理長は木箱にもう一度目をやると、軽く手のひらで叩き、ふっと息をついた。


「……あの子は、うちの城で一番“名前の通った飛竜”だからな」


 その言葉には、苦笑とも、ほんの少しの誇らしさともつかぬ色が混じっていた。


 やがて、料理長は木箱を両手で侍女に差し出し、穏やかに言った。


「殿下の部屋まで頼む。“モコ様”宛の品だ。……丁寧にな」



 ――昼下がりの柔らかな光が、窓辺のカーテンを透かしていた。


「ちょっと休んでいかない?」


 そう声をかけてくれたのはレクサスで、ノアは午前の稽古を終えた足で、そのまま彼の部屋を訪れていた。


 湯気の立つティーカップがふたつ。

 窓際にはモコが丸まり、ひなたぼっこを楽しんでいる。


 穏やかな時間が流れていたところに、控えめなノックの音が響いた。


 レクサスが扉を開けると、侍女が小箱を両手に抱えて立っていた。


「失礼いたします。殿下、厨房よりお届け物です。“モコ様”宛とのことですが……」


「……モコ宛て?」


 レクサスが受け取った箱をひょいと持ち上げ、そっと札を見つめ、笑みをこぼす。


「ふふっ。ちゃんと“モコ様へ”って書いてある」


 ノアが隣から覗き込んで、くすっと笑う。


「ほんとだ……でも、似合ってるよ」


 まるでその言葉に応じるように、窓際で丸まっていたモコが近寄ってくる。


 ちょこんと座り、モコはじっと木箱を見つめ「きゅっ」とひと声鳴く。


 まるで、自分宛てであることをちゃんと理解しているかのようだった。


 レクサスが膝を折り、そっと蓋を開ける。


 中には、ローストしたくるみ、甘みを抑えたベリーの干し果実、そしてハチミツ入りのビスケットが数枚。


 どれもモコの好きなものばかりだった。


 その下に、小さく折り畳まれた紙片が一枚。


 レクサスが開くと、癖のない、簡潔な筆跡でこう綴られていた。



 けりぐるみ、初回分完売。

 次回分も追加予定。


 客の反応は良好。

 棚の前で笑っていた者、多し。


 報酬の一部を、素材提供者に還元する。

 以上。


 ――雑貨屋 メルヴィル



「……相変わらず、事務的だな」


 苦笑するレクサスの隣で、ノアがそっと微笑む。


「でも、きっと“ありがとう”ってことだと思うよ」


 包みの奥に、そっと一枚の布切れが入っていた。

 ホプとメルの毛が、ほんの少し混じった、小さなにおい付きの布。


「……おまけ、か」


 レクサスが目を細めると、モコは嬉しそうに布に鼻を寄せ、その場で丸くなった。


「もしかして、報告のつもりだったのかもね」


 ノアの言葉に、ふたりの視線が自然とモコへと向けられる。


 温かな贈り物の包みと、ふわふわの体に包まれて、モコは静かにまどろみはじめていた。


 城の廊下に、やわらかな陽射しが差し込む。


 静かな午後――そこにはやさしい空気がながれていた。


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