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猫とハーブと春の午後

 春先、森の奥でしか採れないという珍しいハーブが、街の商人によって持ち込まれた。


「これが、パッソ草。乾燥させると香りが立ってな、茶にすると胃にも優しい。ちょっと気を張りすぎたときなんかに、一歩、気持ちをほぐしてくれる。……ただ、猫にはちょっと注意だ」


 商人が差し出したのは、油紙で包まれた小さな包みだった。


 表面には、さらに羊皮紙の二重封がなされている。香りが抜けにくく、湿気を弾くための工夫だ。


「猫がこれを嗅ぐと、どうにも酔ったような状態になる。強い陶酔作用があるようでな。個体差はあるが、転げ回って興奮したあと、ころっと寝る。……悪いものじゃないが、袋から出すときには気をつけな」


「……つまり、使い方次第か」


 メルヴィルは淡々と受け取りながらも、興味を隠さず目を細めた。


 鼻先を近づけると、包みのすき間からほのかに香りが漏れる。


 草の甘さに、ほんのりと発酵を思わせる香りが混じる、不思議な匂いだった。


 胸の奥がふっと緩むような感覚に、思わずもう一度深く吸い込む。


「……なんとも……効きそうだな」


「そちら、猫を飼ってると聞いたものでね。念のため」


「飼ってる、というより……こちらが飼われてる気がしなくもない」


「はは、それは重症ですね。でも、きっといい関係ですよ」


 商人は笑い、包みを託して去っていった。


棚の陰から、もふりとした耳が二対、じりじりと近づいてくる。


次の瞬間、白い影がひょいっとカウンターに跳び乗り、鼻先をぐいっと伸ばす。


だが、ホプの鼻先が袋に届くより一瞬早く、メルヴィルの手がすっと袋を引っ込めた。


「だめだ」


「にゃぁんっ!」


 ホプが小さく鳴き、前足をちょいちょいと伸ばす。瞳は好奇心にきらめき、袋を追ってわくわくしたように揺れている。


「んにゃ〜〜……」


 メルは棚の下から顔を出し、じりじりと這い寄ってきた。低くうねるようなしっぽが、どうしても気になって仕方ないと語っている。


 ――数時間後、店の奥。


 布包みに入ったパッソ草を棚に置いたまま、メルヴィルは帳簿の記入に集中していた。

 ペン先を滑らせていた手がふと止まる。甘い香りがふわりと鼻先をかすめた。


 ……いやな予感がする。


 ゆっくりと視線を上げると、視界の端を、ふらふらと横切る白と灰。


 棚に戻ると、案の定――羊皮紙の封が裂け、油紙も破れて、中の乾燥ハーブがこぼれ出していた。


 端にはしっかりと、小さな歯型と爪痕。


「……やったな、ホプ」


 ホプはすでに床でごろごろ転がりながら、「ふみゃ〜〜ん」と妙に幸せそうな声をあげている。

 お腹を見せて仰向けになり、前足で空気をふみふみしながら、夢見心地のような目をしている。

 メルはというと、棚の上で耳をぺたりと倒し、仰向けのまま足をぴくぴく。空を見て笑っているような顔つきだ。


「……始まったか」


「にゃっふ〜〜!」


 ホプが高く鳴いて駆け出した。ラグの上を転がりながら、元気に跳ね回る。


 メルも負けじと後を追って飛び出す。猫特有のリズムで、床の上を左右に跳ねるように走る。


「んにゃっ!」


 メルが小さく声を上げながら旋回し、ぐるぐる回って棚の前でばたんと倒れた。


「にゃ〜〜〜ん!」


 ホプが夢中になって叫びながら突っ込んでくる。興奮のまま、クッションの山に飛び込んで姿を消した。


 「んぐるるるっ!」

 

メルは幸せそうに喉を鳴らしながら、目の前にあるはずのない何かを踏みしめるように、前足をふにゃふにゃと動かしている。


 まるで世界がやわらかく溶けてしまったようだった。


 やがてクッションの山から飛び出たホプはメルのしっぽにじゃれついて転げ、メルはふらふら歩いて袋の上に倒れ込む。


「……へべれけだな」


 しばらくその様子を眺めていたが、ホプがふらついて花瓶に突っ込み、メルが逆さまに箱に落ちて動かなくなったあたりで、ようやくメルヴィルはため息をついた。


 けれど、そう言いながらもちゃんとタオルでふたりを拭いて、毛布に包んであげるのだった。


 そして、破られた袋の残りを拾い上げると、棚の上段に置いていた蓋つきの木箱を静かに開ける。


 内側には香りが漏れぬよう、薄い魔封紙が貼られていた。


「……まったく。害はないとはいえ、おまえらには刺激が強すぎるな」


 袋を中に入れ、しっかりと蓋を閉めて鍵をかける。


 ホプがもぞもぞと毛布の中から鼻だけ出し、名残惜しそうににゃーと鳴いた。


 メルは白目をむいたまま、ぐるると喉を鳴らす。


「……明日は、もっと高い棚に置くか」


と、小さく呟いてから、そっと毛布を掛け直す。


春の陽だまりの中、ふたりの小さな寝息が、幸せそうに重なっていた。


 ――午後の陽が傾きかけた頃、雑貨屋の扉が軋む音を立てて開いた。

 入ってきたのは、常連の老婦人だった。


「……いらっしゃい」


 メルヴィルは帳簿に視線を落としたまま、一言だけ返す。


 老婦人は店内を一巡するように歩き、やがてふと立ち止まった。


「……いい匂いね。これ、何かしら?」


香りの元は、カウンター脇に仮置きしていた小さな包み。


今朝のパッソ草とは別に、人用の試験分として少しだけ乾かしておいたパッソの葉だった。


「パッソ草。森の北側で採れるハーブ。葉は乾かして茶にする。胃に優しいらしい」


素っ気ない説明だけが返ってくる。


メルヴィルは帳簿のページをめくりながら、ちらとも視線を上げない。


「お茶にするの?」


「できる。……飲むなら淹れるが」


 その投げやりな言い方に、老婦人は小さく笑った。


「買う前に、ちょっとだけ味を見せてもらえると助かるわね」


 ようやくメルヴィルは立ち上がる。


 道具棚から古びたティーポットと湯呑みを取り出し、静かに湯を沸かしはじめた。


 数枚の葉を慎重に選んでポットに落とす。


 湯を注ぐと、甘くやさしい香りがふわりと立ち上り、店内の空気がわずかに和らいだ。


「……香りは好きね。こう、じわっと緩んで……ふっと心の荷が軽くなるような」


「効能通りなら、鎮静作用もある」


「……ふふ、なんだか眠くなりそう」


 その言葉に、メルヴィルは無言で返す。


 すでに彼の足元では、毛布から這い出してきたホプがごろりと転がり、うつろな目で湯気を見上げていた。


 メルも低い棚の隅で、丸くなったまま小さく喉を鳴らしている。


「この子たち……まさか、さっきの?」


 メルヴィルは湯呑みを差し出しながら、淡々と答えた。


「……封破って暴れてた。今朝、片づけたばかりだ」


 老婦人は小さく吹き出し、ホプメルを見下ろす。


「……まあ。効果は抜群だったみたいね」


 湯呑みを手に、老婦人がにこりと笑う。


「この子たちには強すぎたかもしれないけど……私には、ちょうどいいわね。少しだけ、歩き出せそうな気がする」


 メルヴィルは、それに返すことなく黙って湯を注ぎ足した。


 老婦人が去ったあとの静けさの中、棚の上段に置いた鍵付きの木箱を、メルヴィルはちらりと見やる。


 毛布の中でぴくりと動く耳が、二対。


 這い出てきたホプが椅子の背に飛び乗る。


 メルは、床にあったクッションの上にひょいと跳び乗ると、そこでぴたりと静止。


 ……そして、尻を左右にふりふりと揺らし始めた。跳ぶ気満々の合図だった。


 にゃっ……という小さな声とともに、ふたりの目が合う。


 ホプが背伸びして棚に手をかけ、メルは腰を沈めて一気に飛びかかろうと――


「……やめとけ」


 落ち着いた声が店内に響いた。


 ふたりともぴたっと止まり、まるで「何もしてませんけど?」とでも言いたげな顔で、そろりとこちらを振り向く。


 メルヴィルは黙って腕を組み、そのまま無言の圧をかけ続けた。


 ホプはすごすごと椅子から降り、メルはクッションに自分から突っ込んで寝たふりを始める。


 毛布に戻ってくるまで、三十秒かからなかった。


 静かに掛け直された毛布の下から、小さな寝息がまた、ゆるやかに重なっていく。


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