春の雑貨屋に、陽だまりふたつ
春の陽は、静かに雑貨屋の奥まで差し込んでいた。
棚の影が柔らかく伸び、木の床には木漏れ日のような模様がゆらゆらと広がる。
──午前中は、ちょっとしたにぎわいだった。花の香りが混じる新茶と、季節の布小物がよく売れた。
常連の老婦人が「この前のハーブがよく効いてねえ」と笑いながら追加を買いに来て、近所の子どもが猫たちに会いに来ては、ミントの飴玉を握って帰っていった。
……もちろん、猫たちは最初から最後まで夢の中だったが。
人の出入りがひと段落ついた今、店内はまるで潮が引いた後の浜辺のように静かだった。
カウンターの内側、帳簿の数字を整え終えたメルヴィルは、湯気の消えかけたハーブティーを手にしてふうと息を吐いた。
香りの奥にわずかな甘み。──今日のブレンドは悪くない。けれど、何かが足りない気がして、彼はふと目を閉じる。
静寂、昼寝を誘うような午後の空気に、思考も輪郭を失いかけていた。
足元には、白と灰の小さな塊がぴたりと寄り添っている。
ホプとメル──ふたりの猫は、変わらず、無言のまま“春”を味わっていた。
「……寝すぎだろ、おまえら」
ぼそりと呟く声は、相手に届くことを期待していない。
それでも、もし返事があるとすれば──「にゃ〜ん」とか「んにゃ」とか、そんなものだろう。
けれど今、この静けさの中では、その鳴き声すらも騒音に思えた。
だからこそ、メルヴィルはそれ以上、言葉を重ねなかった。
──耳が、ぴくりと動いた。
窓の外、枝の上で小鳥がひと声鳴いたのだ。
その音に、ホプがのそのそと頭だけを持ち上げる。
「……にゃ?」
それは明らかに、“おやつの時間か?”という問いだった。
その間抜けな声に、思わず口元が緩みそうになったのを、メルヴィルは寸前でこらえた。
「……おやつは、まだだぞ」
ぼそりと告げたその瞬間、メルの耳がぴくりと動く。
まるで無言の合図でもあったかのように、ホプがふみふみと床を押し、メルは伸びをしてゆっくりと立ち上がる。
半分も開いていない目で、それでも足取りだけは妙に機敏だ。
「……にゃーん」
「んにゃっ」
揃ってカウンターに前足をかけてくる。
上目遣いの視線が、真っ直ぐにメルヴィルを刺す。
「……聞こえてたのか、おまえら」
返事はない。けれど、ホプの尻尾が嬉しそうに揺れて、メルは鼻先で彼の指先をちょいと突いた。
無言の圧──というより、確信のある期待だった。
ほんの数分前まで、白と灰の塊は動く気配すらなかったはずだ。
なのに、「おやつ」のひと言でこの反応。
その瞬発力だけは、もはや才能と呼ぶしかない。
「おやつセンサーでも埋め込まれてんのか……」
嘆息混じりにぼやきながらも、棚の奥へと手を伸ばしてしまうあたり、すでに勝負はついていた。
乾燥ミートと干した小魚。ふたりのお気に入りだ。
皿を置くや否や、ホプが「にゃっ」と小さく鳴き、メルが「……んぐ」と短く返す。
ふたりして尻尾をぴんと立てながら、一直線に駆けてきた。
「せめて起きて三秒は待て」
声は冷ややかでも、手つきには迷いがない。
ぽんと皿を置いたその瞬間、猫たちは左右にきっちり並び、もぐもぐと器用に頬張り始める。
その様子を見ながら、メルヴィルはまた、冷めたハーブティーをひと口。
ほんのり苦味が舌に残る。それすら、今は悪くなかった。
「……春眠、猫を制すってか」
白と灰のふわふわが、幸せそうに尻尾を揺らしている。
その光景に、彼の胸の奥にも、何かがじんわりと溶けていった。
──この静けさが、壊れないように。
そんなことを思ってしまう自分に、メルヴィルは少しだけ驚きながら、そっと目を細めた。
おやつの皿が空になるのは、いつも一瞬だ。
わずかな欠片すら残さず、ホプとメルは見事な連携で皿を舐め終えた。
その姿はまるで、「ごちそうさま」と言っているかのように。
「……きれいさっぱり、か」
メルヴィルは呆れたように言いながら、空皿をひょいと拾い上げる。
けれど、器を拭くその手はどこまでも丁寧だった。
足元では、ホプとメルがくるりと向かい合い、小さな前足をちょいちょいと出し合っている。
メルの尻尾がふわりと揺れ、それをホプがぱしっと押さえた。
「にゃっ」と軽く抗議するような声に、今度はメルがぴょんと跳ねてホプの背中に乗る。
「……運動会か、おまえら」
棚の影が、彼らのじゃれ合う姿を柔らかく映し出す。
床をふわふわと転がる白と灰の毛玉が、まるで春そのものだった。
「……お前らを、拾ってよかったな」
ぼそりと漏らした声に返事はないが、ホプの尻尾が嬉しそうに弧を描き、メルはご機嫌に喉を鳴らす。
ホプがぴたりと足元に座り、メルがそっと肩へとよじ登る。
その動きに、一瞬だけ身を固くしたメルヴィルだったが、すぐにふっと肩の力を抜いた。
「……まったく、おまえらは」
ぼやきながらも、耳の後ろを撫でる手つきに迷いはない。
メルが鼻先で彼の頬をくすぐり、ホプが足元で伸びる。
こうして、何気ない時間は流れていく。
誰かが来るでもなく、何かが起きるでもない。
けれどこの空間に満ちているのは、確かに「今ここにある幸せ」だった。
棚の隙間から差し込む陽光が、少しずつ角度を変えていく。
外では、小鳥たちの鳴き声が再び賑やかさを増し始めていた。
春の午後。昼下がりのやわらかな音と光に包まれて、雑貨屋は息づいていた。
メルヴィルは、空になったカップをひとつ軽く回し、静かに席を立つ。
「……もう一杯、淹れるか」
たったそれだけのことが、今日は少しだけ特別に思えた。
ホプはにゃあと一声鳴き、メルは尻尾で彼の頬をなでる。
その柔らかな感触に、思わず目を細めながら──
メルヴィルはまた、ティーポットに湯を注いだ。
さっきまで木漏れ日のように踊っていた光は、今や琥珀色を帯び、棚の影を長く引き伸ばしていた。
ハーブの瓶も、ランプの縁も、いつもより少しだけ柔らかく映る。
──この時間が好きだ。
客足も絶える頃、街のざわめきが遠くへと引いていく。
雑貨屋の中だけが、まるで世界から取り残されたように静かだった。
メルヴィルはカウンターに肘をついて、すっかり出がらしになった二杯目のハーブティーを啜る。
それでもいい。何も変わらないことの心地よさが、今はそれを補ってくれる。
足元では、ホプがごろりと横になり、前足で自分の尻尾を弄び、メルは棚の上に跳び乗り、窓の外をじっと見つめていた。
遠くの空に、一番星が灯りはじめている。
それに気づいているのか、それともただ、何となく空を眺めているだけなのか。
どちらでもいい。猫には猫の時間がある。
「……そろそろ、閉めるか」
誰に言うでもなく呟いた声に、ホプが小さく「にゃ」と応えた。
まるで、「いい時間だった」と言っているようだった。
メルヴィルは腰を上げ、店の入口まで歩いていく。
扉にかけられた札を、音を立てないようにゆっくりと回す。
開店を知らせていた面が、静かに裏返り──閉店を意味するものに変わる。
それだけのことなのに、不思議と胸の奥に余韻が残る。
──今日という一日が、確かにここに在ったという証のように。
棚をひと通り見回し、ランプの火をひとつずつ落としていく。
残された灯りはわずか。あとは、奥の“本当の家”で灯す分だけだ。
「行くぞ、ホプ。メル」
呼びかけると、白と灰のふたりは、まるで合図でも決まっていたかのようにぴたりと動いた。
ホプはくるりと一回転してから駆け寄り、メルは棚からひらりと飛び降りて、メルヴィルの肩に着地する。
少し強めにしがみついて、長い耳を鼻先でつつく。
「……痛くはないけど、くすぐったいんだよな、それ」
肩をすくめつつも、振り落とす気など最初からない。
ふたりの体温が、そこにあるだけでいいと思えるようになった自分が、少しだけ不思議だった。
奥へ。カーテンの向こう側。
本棚と木箱に囲まれた、ほんの小さな空間。
それが、今の自分たちの“夜”の居場所だった。
ティーポットに湯を注ぐ。
今度は少しだけ濃い目に、カモミールとオレンジピールを足してみる。
昼の残りではなく、夜を迎えるための一杯だ。
ホプは毛布の上にくるりと丸まり、メルはいつものように肩から胸元へと移動して、そのまま前足を揃えて香りを嗅いでいた。
「おまえらも、毎日飽きないのかね」
そう呟いて、自分自身にも問いかけてみる。
──飽きないのか? この、変わらない日々に。
だが、猫たちの喉を鳴らす音と、ハーブの香りと、心地よい静けさがその答えを代弁していた。
「……まあ、悪くはないか」
湯気の向こうで、ふたりの猫が静かに目を細める。
閉店後の雑貨屋は、もうすっかり夜の空気を纏い始めていた。
今日という一日が、音もなく終わっていく。
きっと明日も、こんなふうに始まるだろう。