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猫たちと、優しさのある場所へ

 風が鳴き声を上げていた。


 アストラ大陸南西部、小国が争いを繰り返す荒れ地の縁。


 高原の乾いた風が草を千切り、空へと舞わせる。


 メルヴィルはその中で、矢を番えたまま動かなかった。


 標的は、森を抜けて逃げ込んだ敵兵。


 だがその家の中からは、赤ん坊の泣き声が聞こえていた。


「放て」と命じられた指は、弦を離すことなく震え、彼の背に、誰かの怒声が飛んだ。


 弓を下ろし、背を向けた時、戦場の掟は彼を切り捨てた。


 それでも彼は構わなかった。


 ただ静かに、自分の中にあった“何か”が終わったことを知っていた。


 数日後、誰も来ぬ山あいの祠で、彼はそれを見つけた。


 崩れかけた祠の石段。その片隅に、ぺたりと置かれた毛布。


 ふたつの仔猫が、弱々しく寄り添い、微かに鳴いていた。


 真っ白と灰色。まだ幼く目もまだ見えていないのかもしれない。


 その体を包む毛布の内側。ほつれた縫い目に沿って、小さな紙片が縫い留められていた。


 厚手の羊皮紙に、震える筆跡。ところどころインクがにじみ、紙そのものも、指で何度も握られたのだろう、柔らかく擦れている。


 そして、文字の途中――数か所に、不自然な水の滲み跡があった。

 インクではない。たぶん、涙だった。


『この子たちの名は、ホプとメル。

 拾ってくださった方へ。どうか……この子たちを、お願いします。

 私は、戦で深く傷を負いました。もう、冬を越すことはできません。

 けれど――この子たちには、生きてほしい。どうか、生きて。

 とても臆病で、甘えん坊で、だけど、健気で……愛しい子たちです。

 名前を呼べば、小さな声で返してくれます。どうか、呼んであげてください。

 本当は、手放したくありませんでした。最後まで、一緒にいたかった。

 けれど、私が抱えたままでは、この子たちも巻き添えになる。

 この場所に託すことが、あの子たちにとっての道になると、信じます。

 ――どうか、この世界に、ほんの少しでも優しさが残っていますように。

 ありがとう。見つけてくれて。』


 紙の端には、小さな血の滲み。指先を傷つけながら、布に縫い付けた跡。

 死を前にした誰かの、最後の力と祈りの痕跡だった。


 そう遠くない過去、この子たちを抱いていた誰かが精一杯に戦って、それでも守りきれなかったのだろう。


 手放すのではなく、“託す”しかなかったのだと。


 その夜、彼は仔猫たちを抱いて、火も焚かずに過ごした。


 ただ、静かに温もりを感じながら、空を見ていた。


 この地は寒すぎる。争いも風も、すべてが命を削るだけのものだった。


「生かしたい」と初めて思った。


 自分のためではなく――このふたつの命のために。


 ――港町レコルト。


 岩に囲まれた天然の入江、潮の香りと錆びた桟橋の先に、古びた私船が浮かんでいた。正規の航路などない。


 彼は、猫たちを連れて、静かに老船乗りに頭を下げた。


「猫連れか。しかも二匹。……珍しい旅だな」


「……向こうへ行きたいだけだ。冬が来る前に」


 それ以上の言葉はなかった。


 それでも船乗りは、彼の背負うものを見て、頷いた。


 ――数日後、濃い霧を抜けた先に、ストーリア王国の港が見えてきた。


 石造りの防波堤と、塔のある港町。アストラよりも少し暖かく、やわらかな潮風が頬を撫でる。潮の香りとともに、小さな鳥のさえずりが聞こえてきた。荒れ地の風とは違う、穏やかな空気があった。


 滞在許可を得て、しばらくは宿で静かに日々を過ごした。


 港で働く必要もなかった。だが、ただ時間が過ぎることに、どこか落ち着かなさを感じ始めていた。


 懐には、戦場で得た報酬が残っていた。


 命の代価としては多すぎた金。それまで、何に使うべきかも分からなかった。


 けれど今は違う。


 ――稼いだ分くらい、生きることに使ってもいいだろう


 そう思ったときには、心がすでに決まっていた。


 やがて彼は、王国の城下町に雑貨屋を開いた。


 ハーブや薬草、文房具、誰かの日常を支える、小さな店。


 猫と暮らし、静かに微笑むだけの、穏やかな時間。


 ――あの日、風に揺れる毛布の中で、お前たちは小さく鳴いていた。


 この世に何を求めているのかもわからないほどに、弱くて、儚くて。


 けれど、生きようとするその姿に、俺は――命を引き絞る意味を、思い出したんだ。


 俺は弓を使って、いくつもの命を射抜いた。戦い、報酬を得て、また戦う。


 けれど最後には、守りたかった命すら遠ざけていた。


 だがお前たちは、ちがった。名を与えられ、託され、祈られていた。


 誰かが、最後の最後に手を伸ばして残した希望だった。


 ……だから俺は、今もお前たちを撫でるたびに思う。


「この毛布を抱いて旅立った、名も知らぬ誰かの優しさが、たしかにここにあった」と。


 イオスへ渡った理由を聞かれたら、俺はきっと笑ってこう答えるだろう。


「……冬が来る前に、連れていきたかっただけだ」と。


 それで充分だ。お前たちが、ぬくもりの中で眠れていれば。


 出航の日、港には誰の見送りもなかった。


 ホプは桟橋の隙間から覗く波に興味津々で、メルは彼の足元にぴたりと座っていた。


 メルヴィルは最後に、あの布切れを胸の内ポケットにしまい込んだ。


 もう誰もその祈りの続きを見ることはないかもしれない。


 けれど、その言葉だけは、彼の中で生きていた。


「この世界に、優しさが残っていますように。」


 その願いごと、今度は自分が引き継ごう。


 こうして、弓を置いた男と、名を託されたふたりは、


 争いの地を離れ、光の射す場所へと向かった。


 小さな命が、今度こそ安らかに眠れる、あたたかな世界へ。


 あの日、風に揺れる毛布の中で、お前たちは小さく鳴いていた。


 この世に何を求めているのかもわからないほどに、弱くて、儚くて。


 けれど、生きようとしていた。その姿に、俺は――命を引き絞る意味を、思い出したんだ。


 ――そして、ノアが再びこの店を訪れた日のことだった。


 ほんの少し空いた時間に、一人でふらりと立ち寄った。


 変わらぬ佇まい。薬草と木の香り。


 そして、扉を開けるとすぐに、ホプとメルが音もなく駆け寄ってくる。


「こんにちは……ふふ、また来てしまいました」


 そう声をかけると、メルは足元にすり寄り、ホプは小さな布の包みを引っ張り出してきた。


「……ホプ? これ、だめなんじゃ……」


 にゃーん、と短く鳴く声は、まるで「見てほしい」と言わんばかりだった。


 そっと布を広げると、一枚の羊皮紙が現れる。


 かすれた文字。にじんだ跡。小さな血痕。それは、命を削って託された祈り。


「この子たちの名は、ホプとメル。……どうか、この世界に、優しさが残っていますように。」


 ノアは、静かに目を閉じて胸の前で両手を組んだ。


「……はい。ちゃんと、優しさは残っています。この子たちが、今こんなにも穏やかに眠れているから」


 メルが膝に丸まり、ホプも隣に寄り添う。


 その時、奥から現れたメルヴィルが、ゆるやかに目を細めた。


「……ああ。またひっぱり出したのか、ホプ」


 叱るでもなく、ただ静かに。


 ノアが立ち上がろうとすると、彼は首を振った。


「……いい。別に、見られて困るものじゃない」


 メルヴィルは、紙と布を静かに手に取り、端をきれいに整える。


「あんたが、それを見て祈るような人間なら――きっと、あいつも報われる」


 それだけを残し、彼はそれを引き出しへ戻し、そっと猫たちの頭を撫でた。


 言葉は少ないが、その背に漂う静かな優しさは、店の空気と同じく、どこまでも穏やかだった。



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