雑貨屋と、猫と、てるてる坊主
昨日からぽつぽつと降り続く雨。
雑貨屋の窓辺には、白くてふわふわのホプと、灰色で耳の黒いメルが並んで、じーっと外を見ていた。
窓の向こうは、濡れた石畳と止む気配のない雨模様。
「にゃ〜〜ん」
ホプがメルヴィルの足元にすり寄り、前足でちょいちょいと袖を引く。
その顔は『雨、やませてくれる?』と言っているようだった。
メルもおとなしく隣に座って、じっと見上げてくる。
「……無理だ」
メルヴィルはぼそりとつぶやき、ため息をひとつ。
それでも、このふたりはあきらめない。瞳の奥にきらりと光る無邪気さと期待。
——本当に、困ったやつらだ。
だが、その期待を拒絶する言葉は喉元で消えてしまった。
思い出すのは、今朝方商品を卸しに来た旅商人が語った話。
「昔な、十五年かそこら前まで、この国には“天竜”って呼ばれる真竜がいてな。……いや、姿を見たって話は聞かねぇけどよ。嵐も落雷も、どこからともなく静まっていったんだ。ほんと、不思議なくらい、空が守られてる感じだったな……」
「けどある時から、ぴたりと止んじまったんだよ。風の流れも、雲の動きも、まるで誰かが手を引いたみたいに」
店の隅でその話を聞きながら、メルヴィルは首をひねった。
そんな存在が本当にいたのなら、記録のひとつも残っていそうなものだが……耳にしたことはなかった。不思議と、それを語る者もいなかった。
「……ま、俺はちょうどその頃、他の国を回ってたんだけどな。戻ってきたら、あの穏やかだった空が、なんつうか……“普通”になっててさ。竜の話も、まるでなかったことみてぇに消えてた」
話の続きを求めることもなく、メルヴィルはただ黙って聞いていた。
旅の話に真実が混じっていたのか、それともただの昔話だったのか。確かめようも確かめるつもりもなかった。
だからこそ、ホプとメルは思ったのだろう——“メルヴィルなら、それくらいできるんじゃないか”と。
「……俺は竜じゃない」
淡々と呟いた声は、自分に言い聞かせるようでもあった。
だが心の奥底で——もしそれが叶うなら、一度くらいはこいつらのために晴れ間を作ってやりたい、そんな淡い願いが灯っていた。
メルヴィルはゆっくりと立ち上がり、棚から布と糸を取り出す。
ちくちくと無言で針を動かしている間、ホプとメルは隣でわくわくとした瞳を向けてくる。
——全く、素直でまっすぐすぎる。
けれど、それが羨ましいと感じることも、たまにある。
小さなてるてる坊主が二つできあがった。
白くてふわふわしたものと、灰色に黒い耳がついたもの。それぞれホプとメルにそっくりだ。
窓辺に並べて吊るしてみせれば——
「にゃあっ!」ホプが小さく飛び上がる。届かない。
「んにゃっ!」メルも跳ねてみるけれど、やはり届かない。
その姿に、胸の奥がほんのりあたたかくなる。
「それは飾りだ、おもちゃじゃない」
無表情のまま告げて、おやつとお気に入りのおもちゃを棚から取り出し、そっと差し出した。
二匹はころりと転がりながら夢中で遊びはじめる。
その音が店内に響くたび、不器用な胸の内に少しずつ染み渡るものがあった。
外はまだ、しとしと雨が降っている。でも、この小さな空間はあたたかくて、柔らかな時間が流れていた。
ハーブティーの香りと、跳ね回る二匹の鳴き声が静かな店を彩っている。
——それだけで、もう十分だ。
だがいつか、本物の“天竜”に会うことができたなら。
その時は、たった一度だけお願いをしてみてもいいかもしれない。
「わがままなこいつらのために、ほんの少しだけ、この空を晴らしてやってくれ」と。
そんなことを、言葉にもしないまま胸に秘めて、メルヴィルは無言でカップを口に運んだ。
湯気がゆらりと上がる先、窓の外の雨は相変わらず止まない。
それでも、不思議と心は静かだった。
無愛想な横顔に浮かぶごく僅かな緩みは、自分でも気づかないほど小さなものだった。
小さなてるてる坊主を吊るしたその午後、まるで空が気まぐれを起こしたかのように、雨はするりと上がった。
雲の切れ間から陽が差し込み、石畳がきらきらと濡れた光を返す。
「にゃにゃっ!」
「にゃっ!」
ホプとメルが窓辺で同時に跳ねる。揃って振り向いた顔には、『……やっぱりメルヴィル、すごい!」という無言の賞賛が全開だった。
「……偶然だ」
言いつつも、わずかに目を逸らすメルヴィルの耳が、どこか居心地悪げにぴくりと揺れた。
すると、入口の鈴がからん、と軽やかな音を立てて鳴った。
「こんにちは。……やっと晴れましたね」
扉を開けて入ってきたのは、銀髪の少女――ノア・ライトエースだった。
扉を閉めながら、窓際のてるてる坊主に目を留めて、ふわりと表情を和らげる。
「……ふふ。ホプとメルにそっくりですね」
「にゃ〜ん」
「んにゃ」
ホプとメルが即座に足元へ駆け寄って、誇らしげに鳴く。
「今日は……あの、裁縫道具を見に来ました。詰所で使うつもりなんですけど、針と糸、それから……できれば布も少し」
「……ああ」
メルヴィルはゆるく頷き、棚の奥から道具箱を引き寄せる。
「練習か」
「はい。……城で、レク……王子と一緒に育ってた頃、母がよくボタンを縫い直してくれてて。あのとき、“私もできるようになりたい”って、思ったんです。」
「上手くできるかはわからないんですけど……」
そう言って照れたように笑うノアに、メルヴィルはふと目を細めた。
その笑顔は、どこか遠い昔に見た誰かに、少しだけ似ていた。
……随分と昔のことだ。まだ耳もやわらかく、何にでも苛立っていた頃。
無駄だと思っていた努力を、無理に笑いながら重ねていた誰かがいた。
似ている。けれど、それを誰にも語るつもりはなかった。
「お前も、そういう顔をするんだな」と、声には出さず、心の奥でだけ呟いた。
まるで、少しだけ時間が巻き戻ったような、そんな不思議な錯覚。
「好きなのを選べ。糸はそっち。布は……籠の中から」
そっけない声のくせに、針山の中から小花の刺繍の入ったものをさりげなく添えておく。
ノアはすぐには気づかず、目を留めてから少しだけ頬を赤らめる。
「……ありがとうございます」
その横で、ホプとメルがまたぴょんぴょんとてるてる坊主を狙っている。
よく見れば、糸の結び目が少し緩んできていた。
――後で直してやるか。
「今日は、おかげさまで、いい日になりました」
ノアがそう言ったとき、メルヴィルはただ小さく鼻を鳴らした。
けれどその一瞬後、自分でも気づかぬほど小さく息をついた。
胸の奥のどこか、ひどく静かな場所で、ほのかに何かがあたたまる。
誰かのために何かをすることが、こんなにも煩わしくなく感じられたのは、いつぶりだっただろう。
言葉にせず、記憶にもせず――
ただ、それだけが、今の自分にはちょうどよかった。