もふもふパニックぎゅうぎゅう箱入り日和
しとしとと濡れた路地には、人の気配もなく、空気はしんと冷えていた。時おり、遠くの空で雷が響いている。
ストーリア王国の城下町。細い通りに面した小さな雑貨屋は、そんな雨の日にこそ似合う静けさを纏っていた。
香草の乾いた香り、革紐のかすかな軋み、そして――
店主・メルヴィルはカウンターに肘をつき、ぼんやりと窓の外を眺めていた。手には湯気を立てるハーブティー、耳は気だるげにぴくぴくと揺れている。彼のそばには、いつもなら白と灰のふたりの“店番”がいるはずだった。
「……あいつら、今日は出てこないか」
つぶやいて振り返っても、棚の上にもカウンターの隅にも、白と灰のもふもふたちの姿が見えなかった。
――そのころ、ふたりは店の奥、静かな倉庫にいた。
木の棚には瓶や薬草、石鹸や紙束が並び、床には梱包用の箱がいくつも置かれている。窓のそばには毛布が敷かれ、そこがホプとメルのお昼寝スポットだった。
真っ白な毛並みのホプは、陽だまりを探す癖が抜けず、曇り空のもとでも窓辺で丸くなる。一方のメルは、薄暗くて静かなこの倉庫が大のお気に入りだった。
今日もふたりはくっついて眠っていた。時おり、ホプがふみふみと毛布を揉み、おやつの夢でも見ているのかメルが口をもぐもぐさせている。
「んにゃ……」 「……んぐるる……」
雨の音とハーブの香りに包まれながら、いつものようにうとうととまどろむふたり。
――だが、その穏やかなひとときは、突如として破られた。
バリバリッ、と空気が裂けるような音が鳴った瞬間、
「にゃっ!?」「ふぎゃっ!」
二匹の跳ね上がる音が見事に重なり、倉庫中に響きわたった。
ホプは驚いて飛び上がり、メルは反射的に棚の下へ逃げようとしたが、どちらも早すぎて方向を見失った。そして――ちょうど開け放たれていた中型の木箱に、同時に突っ込んだ。
が――
「……ニャ!?」 「ヒニャーン……」
狭い。想像以上に狭い。
むぎゅう、と音がしそうな勢いで詰まり、ホプの後ろ脚がメルの顔にかかり、メルの尻尾がホプの脇に絡みついている。
しかも、フタが勢いで半分閉まってしまった。外の光も遮られ、視界はほぼ真っ暗。
もう一度、雷が鳴った。
ビクッと震えるふたり。けれど動けない。もがこうにも、相手が邪魔になる。自分も邪魔になっている。そんな事実にふたりは同時に絶望した。
「ひにゃー…………」 「ふにゃん……」
誰が悪いとも言えないこの状況に、ぐったりと目を伏せるふたり。
――その頃、メルヴィルは察していた。
ぴく、と長い耳が動く。倉庫の奥から、かすかな悲鳴のような鳴き声。しかも、ホプ特有の間の抜けた“にゃー”と、メルの鼻にかかった“ひゃーん”が混ざったもの。
「……やれやれ」
重い腰を上げて倉庫に向かう。足音に気付かないほど、ふたりは箱の中で硬直していた。
「まただな。あいつら、雷のたびに何かやらかす」
静かに棚の間を進み、ふと目に入った箱の隙間から、ちょこんと白と灰の尻尾が覗いていた。
しかも、小刻みに震えている。
メルヴィルは溜息をひとつ。けれどその目元は、微かに緩んでいた。
そっとフタを開ける。ぎゅうぎゅうに詰まっていたホプとメルが、まんまるな目でこちらを見上げていた。
顔と顔がくっつきすぎて、どっちがどっちかわからない――いや、見れば色で区別はつくのだが、あまりにも絡まりすぎていて、一瞬どちらの脚がどちらの耳なのかさえ判断できなかった。けれど、その情けない姿が、ひどく愛おしい。
「……また変なことしてんな、おまえら」
ため息をひとつ。だが、その声はどこか緩んでいた。
メルヴィルは箱をそっと傾ける。ころん、と出てきたホプとメルは、すぐに彼の足元にすり寄り、スリスリと顔をこすりつけた。
「雷が怖いのはわかるけどな……狭い箱にふたりで入るなよ。無理だろ、どう見ても」
メルヴィルはしゃがみ込んで、ふたりのぬくもりを確かめるようにそっと触れた。
ホプは喉を鳴らし、メルは肩に登り、メルヴィルの耳に鼻先をくすぐるように押しつける。
「……うわ、くすぐった……やめろ」
言いながらも止めないメルヴィル。ふたりを抱え、もう一度ハーブティーを淹れ直しに立ち上がる。
外では、まだ雨が降り続いていた。雷も、もう一度鳴るかもしれない。
けれど、この倉庫の隅だけは、まるで別の世界のように、静かであたたかだった。
やがて夜が来る。
雨は、朝よりも静かに、けれど変わらず町を濡らしていた。
雷はもう遠くへ去ったようで、今はただ、しとしとと屋根を叩く雨音だけが響いている。
雑貨屋の灯が、通りの石畳を柔らかく照らしていた。
今日は終日、閑古鳥が鳴いていた。
雨のせいか、客の足はほとんど途絶え、仕入れたばかりの茶葉も、手作りの香油も、触れられることなく棚に並んだままだった。
「……ふん」
閉店の札をくるりと返し、メルヴィルはカウンターの上を軽く拭った。いつも通りの手つき。無駄のない動き。
その足元ではホプがくるくると歩き回り、メルがその背を尻尾で叩いている。
ホプは棚の隙間に鼻を突っ込み、メルは棚の上からじっとその様子を見下ろしている。いつもの店内パトロールだ。もう誰も来ない。けれど、ふたりの巡回は終わらない。今日もよく働いた――そんな顔で、ふたりは再びメルヴィルの膝へと戻ってくる。
「……見回り、ご苦労さん」
ぽつりと呟いた言葉に、ホプの耳がぴくりと動く。続いてメルがくぐもった声で「んにゃ」と鳴き、ふたりで同時にメルヴィルの足元へ歩み寄る。
そのまま三匹は、まるで呼吸を合わせたかのように店の奥へと移動した。
倉庫の入口を通り抜け、さらにその奥――
本棚と木箱に囲まれた小さな空間。ここが、閉店後の“本当の家”だった。
メルヴィルは黙ったまま、ティーポットに湯を注ぐ。ふわりと立ちのぼる蒸気と、ハーブの香り。
ホプは毛布の上に陣取り、メルはメルヴィルの肩の上に器用に飛び乗った。長い耳を鼻先でちょいちょいとつついてから、満足そうに丸くなる。
「……重い」
文句を言いつつも動かない。それどころか、ふわふわの背を撫でる手はどこまでも丁寧だった。
閉店後の雑貨屋には、もう何も音はなかった。外の雨音だけが、どこか遠い別の世界から聞こえてくるようだった。
客は、今日一日ひとりも来なかった。売上はゼロ。それでも――この静かな時間が、何よりの報酬だった。
「……ふたりとも、よく働いたな」
囁くような声に、ホプがぐるると喉を鳴らし、メルが尻尾でそっと顔をなでた。
雨の夜。店は眠りにつく。
けれど、その片隅には、灯りよりあたたかいぬくもりが、確かに息づいていた。
ここは、ふたりとひとりの、小さな居場所だった。