変わらぬ日常と、それぞれの幸せ
祝祭の喧騒は、城下町の外れにも届いていた。
遠くから太鼓と笛の音が重なり、春の風に乗って香ばしい屋台の匂いが流れてくる。
それでも、小さな雑貨屋の中には、いつも通りの香草の香りが満ちていた。
白いホプは日向で丸くなっている。若い頃のしっとりした被毛は、いまは艶が落ち、指先で撫でると少しパサつきを感じる。
陽に当たった毛先はふわりと立ち、寝癖が残る日もある。耳先の動きはゆるやかで、夢を見ているのか、ときおり小さく足がぴくりと動く。起き上がる前には、前足をゆっくり投げ出し、あたたかさを確かめるように身をひとつ大きく伸ばす。
その隣で、灰色のメルも、顎の下や耳の付け根に白い毛が混じり、被毛の光沢は穏やかに落ち着いた。目の光はやわらかく、耳の動きだけが少しゆっくりになった。ホプが寝返りを打つたび、メルもそっと体の向きを変え、常にお互いの温もりを感じられる距離を保っている。呼ばれると一拍おいて顔を上げ、返事は低くやさしい声だ。
メルヴィルは椅子に腰を下ろし、眠る猫たちの背をゆっくりと撫でた。
撫でるたびに息づかいが穏やかに整っていくのを確かめ、手を止め、またそっと動かす。胸の奥に、温かくも少し切ない感情が静かに広がっていく。
――ふと、昔の光景がよぎった。
まだ子猫だった頃、ホプが棚の上に置いたハーブの瓶を転がし、メルが慌てて追いかけたこと。
転がった瓶は床で小さく跳ね、栓が外れて香草がぱっと散った。鼻腔いっぱいに広がる鮮やかな香りに、ふたりは夢中になった。
ホプが前足で香草をかき混ぜ、メルがその上に転がってじゃれ合い、店中に香りを撒き散らした日のこと。
『……おい、やめろ』
あの日の自分は確かにそう口にした。だが、その声の奥には微かに笑いが混じっていた。
結局、片付けに丸一日かかり、床も服も香草の香りが抜けなかった。――今では、その騒がしさすら愛しい。
撫でる手に、かすかな震えが伝わる。ホプが夢の中で小さく喉を鳴らしたのだ。
式典の招待状は、きちんと届いていた。
日付も時間もわかっているし、行こうと思えば行けた。
けれど――あえて足は運ばなかった。
あの二人も、ここ最近は以前のように頻繁には顔を出せなくなっていた。
王位継承を前にしたレクサスは公務や会議に追われ、ノアもまた王妃としての務めや人前に立つ機会が増えていた。
それでも時折、ほんの短い時間だけ訪れては、猫たちを撫で、他愛ない話を置いて帰っていく――そんな日々が、少しずつ間遠になっていた。
祝いの場はあいつらのものだし、人混みや喧騒はどうにも性に合わない。
何より、あの二人ならきっとやっていける――そう確信できるから、遠くから見届けるくらいが、ちょうどいい。
遠く、朝の鐘が花の香りを含んだやわらかな空気を震わせた。
ストーリア王国は今日、新たな時代を迎える――レクサス・アルファードが王位に就き、ノア・ライトエースは王妃として迎えられた。
城門から城下町へ続く道には、色とりどりの花飾りが石畳を彩り、春の風にそよいでいる。人々は笑顔で集い、通りごとに楽師の音色と甘やかな屋台の匂いが溢れていた。
王都は、ひとつの大きな家族のように賑わっている。
広場では子どもたちが輪になって踊り、花冠をかぶった少女たちが笑い声を響かせる。
笑顔と歌声は、戦乱の記憶を少しずつ遠ざけ、王都をそっと包んでいく。
ラパン族のメルヴィルの長い耳が風を捉え、研ぎ澄まされた視力は、遠く城の塔の上に並ぶ二人の銀髪の小さな姿まで拾っていた。
祝砲が轟き、青い煙が空に花を咲かせる。
飛行艇団の機影が塔の上を旋回し、春のやわらかな陽光にきらめいた。
その響きは、城下町の外れの小さな店にも静かに届いている。それでも、この店の中だけは変わらない。
あいつらにはあいつらの幸せがある。俺には俺の幸せがある。どちらも正しく、どちらも美しい。
その光景をひと呼吸だけ眺めてから、静かに視線を落とす。
――ここには変わらぬ日常がある。それだけで十分だった。
やがて陽は高くのぼり、ゆっくりと傾きはじめる。
カウンター奥の棚には、古びた毛布と羊皮紙が今も大切にしまわれている。
そこには、かすれた筆跡と滲んだ跡――“この世界に、優しさが残っていますように”という祈り。
メルヴィルは湯気の立つカップを手に、それをそっと見やった。
声には出さず、胸の奥でだけ呟く。
――まだ、ここに優しさは残っている。
ホプの白い耳が小さく動き、メルの尻尾がぴくりと揺れる。
春の夕暮れの光が窓から差し込み、猫たちの毛並みをやわらかく照らしていた。
外では祝祭が続き、城の鐘が遠くで鳴る。
けれど、この店には変わらぬ時間が流れている。
雑貨屋の一日は、今日も静かに、そして確かに続いていく。
――そのはずだった。
夜更け、城下町の通りは祭りの熱を少しだけ残して静まり返っていた。
香草の香りと猫たちの寝息が満ちる店の戸を、こんこん、と小さく叩く音が響く。
メルヴィルは眉をひそめつつ立ち上がり、そっと戸口を開いた。
「……こんな時間に何をしている」
戸口には、深くフードをかぶった二人組。
月明かりに照らされ、やがて顔を上げたのは――銀髪の青年と、長い銀髪をまとめた少女だった。
年を重ねたレクサス・アルファードと、あの日の面影を宿しつつ静かな気品を帯びたノア・ライトエース――今やストーリア国王と王妃である。
「お忍びだよ。ね?」とレクサスが笑い、ノアは少しはにかんで頷いた。
「式典に来なかったでしょう? だから……こっそり抜け出してきました」
ノアは一度視線を落とし、それから静かに言葉を重ねる。
「……あの賑やかな場で、あなたが来るとは思えなかったけれど。今日だけは、あなたにも祝ってほしかったんです」
メルヴィルは呆れたようにため息をつく。
「……王と王妃のお忍びなんざ、すぐ噂になるぞ」
「その時は、全部あなたのせいってことにしよう」
レクサスの軽口に、ノアが小さく笑った。
そのやり取りを聞きつけたのか、奥の部屋から二つの影が姿を現す。ホプとメル。
最初はいつものゆったりした足取りだったが、二人の顔を見た瞬間――
ホプは目を丸くし、小さく「にゃっ!」と驚きの声を上げてから、まるで若い頃に戻ったかのように勢いよく駆け出した。白い毛がふわりと舞い、小さな肉球が床を叩く音が響く。尻尾は嬉しさで大きく揺れ、瞳の奥に久しぶりの活気が宿っていた。
一方のメルは、一瞬立ち止まってじっとレクサスたちを見つめた後、静かに、しかし確実に歩み寄る。その足取りはまるで、「お帰りなさい」と言っているかのような落ち着いた佇まいだった。
「ホプ……」
レクサスがしゃがみ込み、飛び込んできたホプを両腕で抱き上げる。
軽くなった体は、かつてよりも骨張っている。ホプは嬉しさを全身で表現するように、小さな前足でレクサスの胸をぽんぽんと叩き、頬に鼻先を押し付けた。その仕草は子猫の頃とまったく変わらず、レクサスの目元が自然と緩む。
「……君も、あまり変わらないな」
ホプはその言葉を聞いたかのように、小さく喉を鳴らし、今度はレクサスの顎の下に頭をこすりつけた。
ノアもメルのもとへ歩み寄る。メルは静かに彼女の足元に座り、目を細めて見上げた。ノアが手を差し出すと、メルはその指先に鼻を近づけ、そっと匂いを確かめる。
そして満足したように、ゆっくりと手のひらに頭を預けた。ノアは変わらぬ敬意と、家族のようなあたたかさで微笑み、メルの耳の後ろを優しく撫でる。メルの喉から、低く心地よい振動が伝わってきた。
「……まあ、上がれ。祝いの酒ぐらいは出そう」
メルヴィルは肩をすくめながらも、目元はわずかに和らいでいた。
春の夜気が入り込み、香草と祝祭の残り香が混ざる。
雑貨屋の灯りは、この夜いつもより少し遅くまで消えることはなく、
遊び疲れたホプとメルは、その真ん中で安心しきった顔を寄せ合い、静かな寝息を立てていた。
――明日も、その次の日も、それぞれの小さな幸せは、それぞれの場所で変わらずここにある。
春の夜は、静かに、更けていった。