もふもふと癒やしの中庭
レガリアが討たれてから、城も街も少しずつ日常を取り戻しつつあった。
ストーリア城の中庭では、陽光が芝を照らし、風が花々を揺らしていた。
芝の上に横たわる大きなパールホワイトの竜――神竜ノア・ライトエース。その姿は美しく、神々しさと可愛らしさを併せ持っていた。だが、そんな神秘の存在に顔をうずめている青年の姿には、もはや威厳も何もなかった。
「ふふっ、今日も……ふわふわだね……」
うっとりとした表情で毛並みに指を埋めるストーリア王国の王子レクサス・アルファード。ふわふわの腹毛をそっと撫でるたび、竜の体からほんのりとしたぬくもりが伝わってくる。
ノアも心地よさそうに目を細め、されるがままになっている。
――と、そこへ。
「きゅうーっ!!」
高く、かわいらしい鳴き声が中庭に響く。
「……モコ?」
白い影がひゅっと駆け込み、次の瞬間にはノアにすり寄っていた。
「きゅーっ♪」
もふもふの竜に、もふもふの飛竜。脇でごろごろと転がり、ノアの毛並みに顔を埋めるモコは、完全に至福の表情である。
「ぐぅ……」
ノアは表情が少し困ったように見えたが、尾の動きはどこか嬉しげで――その様子に、レクサスはさらに顔をほころばせた。
――そのとき。
「殿下。公務前にそのような姿は、さすがに問題がございます」
静かに、だが確実に鋭く通る声。近衛騎士団隊長、イスト・スタウトが冷ややかに眉間を押さえていた。
「い、イスト……これは、えっと、ノアの体調管理というか……癒やしというか……」
「……もふもふの誘惑に負けた王子として、記録に残すべきか検討中です」
「待って!? それ本気でやめて!? ノアの尊さに抗えなかっただけだから!」
「“抗えなかった”のが問題です。殿下の自制心はどこに――」
その瞬間だった。
「にゃにゃにゃっ!!」
「んにゃっ!!」
空気を切り裂く勢いで、白と灰の影が中庭に突入した。
「ホ、ホプ!? メル!?」
ふたりは全力で駆けながら、まるで「任務完了!」とでも言うように一直線にレクサスたちのもとへ。
レクサスはホプとメルの首輪に結ばれた小さな包みに気づき、そっと手に取った。メルヴィルの店の名が書かれた布を丁寧に開けば、上質なハーブティーの茶葉が顔を出す。ラベンダーとカモミールの優しい香りが漂った。
「ありがたいな……いつも気にかけてくれて」
その包みには、メルヴィルから「城に持って行け」と託されたであろう、ささやかな贈り物が入っていた。
ホプは勢いそのままにノアの背へ一気に駆け上がった。その軽やかな身のこなしは、まるで雲を渡る風のよう。ふわふわの毛並みに飛び込むと、小さな体がノアの背中にすっぽりと埋まってしまう。
「にゃーん♪」
ホプの満足げな鳴き声は、まるで「ここが一番気持ちいい場所だにゃ!」と宣言しているかのようだった。淡いグリーンの瞳をくりくりと動かしながら、神竜の毛並みを前足でもみもみし始める。その仕草は人懐っこく、見ているだけで頬が緩んでしまう愛らしさがあった。
メルはイストの足元でぴたりと止まり、しずかに顔を上げる。
そして――
イストが視線を下ろすより早く、メルは足元にすり寄った。その動作は静かで、まるで霧のように音もなく近づいてくる。しっぽをくるりと巻いて彼のブーツに絡め、前脚でちょんちょんと軽く叩く。まるで「気づいて」と言っているかのような、控えめだが確実な意思表示だった。
「……んにゃ」
その一動作に、イストの眉がぴくりと動く。
視線を逸らすように空を仰ぐが――メルのしっぽは、今度は控えめに彼の足をぽんぽんと叩いた。その仕草には遠慮がちでありながらも、どこか「無視しないで」という甘えが込められていた。
「……困りましたね」
顔は変わらず冷静、しかしその声色は、わずかに揺らいでいた。
なぜなら、今、灰色の猫が静かに足元からよじ登り、腰のあたりに前足をかけてきていたからだ。
「……待ちなさい、メル。その先は――」
制止の言葉も虚しく、メルは一拍の間を置いてから、ためらいなくイストの肩にふわりと飛び乗った。
柔らかな重み。しっぽがゆるく首筋をなぞっていく。鳴き声はない。ただ、存在だけがぬくもりとなって伝わってくる。メルの体温はほんのりと温かく、まるで生きた毛皮のマフラーのようだった。紫色の瞳は半分閉じられ、完全にくつろいだ表情を浮かべている。
その間にも、ホプはノアの背中で大はしゃぎしていた。
「にゃーん♪ にゃにゃにゃ♪」
神竜の豊かな毛並みに顔を埋めては、小さな前足でこねこねと揉みほぐす。時には仰向けになってごろごろと転がり、時には立ち上がって小さく飛び跳ねる。その無邪気な様子は、まるで雲の上で遊ぶ天使のような愛らしさだった。ノアの尻尾が優雅に揺れるたび、ホプは「新しいおもちゃだ!」と言わんばかりに飛びついて、小さな牙でじゃれつく。
しばし毛玉たちの宴は続き、中庭はとろけるような癒しに満ちていた。
「ね、イスト。これ見て。癒やされるでしょう?」
「……癒やしの形は、人それぞれ……と、申しましたが」
イストの視線の先では、ホプはノアの背中でごろごろ転がり、尻尾で遊び始めていた。小さな白い毛玉が神竜の優雅な尻尾に向かって必死に手を伸ばす様子は、まるで子猫が初めて見る羽根に夢中になっているかのようだった
「……こうなると、もう“あきらめ”に近いものを感じます」
その一瞬、イストの目元が――ほんの僅かに、緩んだ。メルの小さなゴロゴロという喉の音が、彼の耳元で心地よく響いている。
「……殿下。次回、公式行事で“もふもふ同伴”などと申されましたら……本気で止めますので」
「……さすがに、そこまではしないって」
「本当に?」
「たぶん……」
……その返答に、イストは手帳を静かに取り出し、さらさらと何かを書き記した。メルは彼の動作を興味深そうに見つめ、羽ペンの先にちょんちょんと前足を伸ばそうとする。
「えっ、いま何を書いたの? イスト!? イストーーーっ!!」
「“殿下、自制心の継続観察を要す”。以上です」
「やめてぇぇぇぇぇ!」
騒ぐレクサスの横で、ノアは、ホプを背中にのせたまま目を細める。時折、「ぐぅ」と小さく鳴いて、まるで「仕方ない子たちですね」と言っているかのようだった。
メルはすでにイストの腕の中で落ち着き、完全にくつろぎモードに入っていた。とろんと眠そうな顔で、しっぽの先だけがゆらゆらと満足げに揺れている。
ホプはというと、相変わらずノアの背中で元気いっぱい。今度は神竜の耳に興味を示し、小さな前足でぺたぺたと触ろうとしている。その度にノアが困ったような表情を見せるが、嫌がる様子は全くない。むしろ、どこか嬉しそうにさえ見えた。
神竜、飛竜、猫たち、そして騎士と王子。
にぎやかで、どこか緩んだこのひとときは、ストーリア王国の何よりの平和の証――
そんな午後の中庭を、やさしい陽光がふわりと包んでいた。