ふて寝と遊びと、あたたかな午後
その日、雑貨屋はやけに静かだった。
ふだんなら子供たちが走り回っている時間なのに、通りにはあまり人影がなく、お昼を回っても雑貨屋の扉につけられた鈴は、一度も鳴らないままだった。
ホプはカウンターの上で丸くなりながら、片目だけ開けて店内を見回す。
メルは、棚の上から動かず、外の空気をうかがうようにしている。
メルヴィルは朝から何やら忙しそうだった。
棚を動かし、窓を閉めきり、どこかから持ち出した古い板を内側から打ちつけていく。
ふだんは店の奥に仕舞い込んだままの長弓と矢筒も、今日はカウンターに出されている。
ホプはそれに興味津々で近づいたが、「触るな」と低く言われ、しょんぼりと尻尾を下げた。
メルは、棚の上からじっとメルヴィルを見下ろしていたが、何をしているのかは分からない。
ただ、ふだんとは違うことだけは、二匹にも伝わっていた。
目が合っても撫でてくれず、ハーブティーの香りも今日は立たない。
お客も、ノアも、レクサスも、誰も来ない。
最近は忙しそうだったが、今日はさらに様子が違う。街全体が、どこか落ち着かない空気をまとっていた。
「……にゃー」
「んにゃ」
返事はなかった。奥ではまだ、何かを動かす気配が続いている。
窓の外では、雲が重く渦を巻き、風が看板をきしませている。
その音の向こうにあるものは、ホプもメルも知らない。
メルヴィルだけが、何かを察し、何かに備えていた。
ふたりには、それが何のためかは分からない。が、今日はやけに構ってもらえないことだけは分かった。
――これは、ふて寝するしかない。
ホプはお気に入りの毛布をくわえ、店の隅へ引きずっていく。
その上にどっかと腰を下ろし、追いかけてきたメルも何も言わず隣に腰を落とした。
互いに背を向け、尻尾だけがかすかに触れる位置で、目を閉じる。
外では、重い雲が王都を覆っている。
北からの風は湿った金属の匂いを運び、間を置いて低い雷鳴が空の奥を震わせた。
けれど、ふたりは眠る。寝返りすらせず、ただ、すねたように。
――その間に、外の世界は激しく動いていた。
遠くの空で、あのノアが神竜となり、空を裂くように舞い、漆黒の邪竜と対峙していることなど、ふたりは知らない。
そんな壮大な出来事も、この雑貨屋の猫たちには関係ない。
知らなくてもいい。ただ、眠っていればいい。
ふたりは、ぬくもりを分け合って眠っていた。
やがて、足音が近づき、カウンターの影からメルヴィルの姿が現れた。
「……今日は、忙しくて悪かったな」
メルヴィルは、毛布のそばに腰を下ろし、ふたりの背をそっと撫でた。
ホプが喉をぐるぐる鳴らし、メルは後ろ足で立ち上がり、鼻先を彼の首元に押しつける。
わずかに香草の香りが混じった、安心する匂い。
「……お前たちは、何も気にしなくていい」
その声は低く穏やかで、いつものように無愛想だったが、ふたりにはちゃんと伝わっていた。
ホプは再び丸くなり、メルも寄り添うようにして目を閉じる。
外の世界では、まだ誰かが戦っているかもしれない。
それでも、この店の中だけは、いつも通りのぬくもりが守られている。
メルヴィルは、ふたりの寝息を聞きながら、すぐ取り出せる棚へ弓を戻した。
しばらくは、これを使うことがありませんように――そう祈るように、指先でそっと弦を撫でた。
雑貨屋の午後は、ただ静かに、ゆっくりと流れていった。
「……茶でも淹れるか」
ぼそりと呟き、ふたりを抱き上げたまま店の奥へ向かう。
湯を沸かす音、茶葉をすくう匙の音が、静かな店内に溶けていく。
やがて、テーブルの上に湯気の立つカップが置かれる。
ホプはカップの縁に鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅ぎ、メルはその横で前足を揃えて座り込んだ。
「飲めないぞ、それは」
そう言いながら、別皿にお気に入りのおやつを二つずつ。
ホプは小さく鳴いて食べ始め、メルはひと口齧ってからホプの皿を覗き込む。
「メル、横取りはなしだ」
軽く額を指先でつつかれ、メルはばつが悪そうに鼻を鳴らす。
おやつを食べ終えると、ホプはひと鳴きして、ぴょんと床へ飛び降りた。
メルもそれに続いて身を起こすと、尻尾を高く掲げ、ホプの後ろをついていく。
ふたりは棚の下を覗き込んだり、くるりと小さく跳ねたりしながら、店内をゆっくりと一巡する。
毛糸玉を転がしては追いかけ、すぐにまた別の箱へ顔を突っ込む。
――まるで、何ごともなかったかのように。
メルヴィルはその様子を、湯気の立つカップを手にしながら静かに眺めていた。
警戒も、緊張も、ここにはない。ただ、いつも通りの動き、いつも通りの遊び。
ふたりがそこにいるだけで、この小さな場所には確かな平穏があった。
「……飽きたか?」
やがてホプが駆け足で戻ってきて、メルヴィルの膝に飛び乗る。
メルも遅れて、肩に乗ろうと身を伸ばしかけたが、途中でやめて膝の端に収まった。
「……重い」
言葉とは裏腹に、膝の上の毛並みを丁寧に撫で続ける。
その手の動きは、帳簿や手紙に向かうときよりも、ずっとゆっくりだった。
ふたりの寝息が重なり、湯気がほのかに揺れた。
ハーブのやさしい香りが、ぬくもりの中にふわりと溶けていく。
雑貨屋の午後は、ただ静かに、ゆっくりと流れていった。
空は、まだ荒れている。けれど、ここだけは別だ。
どんな嵐も届かない、小さな静寂。
たとえ、どんな日でも――
このぬくもりが続くことを、メルヴィルはそっと祈っていた。